授業準備でやるのは、まず

 

①本文を読むこと。

 

②発問を考える。

 

③解説の組み立てを考える。

 

④時間配分を考える。

 

このうち、最も重要なのは②である。

 

発問というと、生徒に問いかける軽いもののように思えるが、そうではなく、授業内容の中心になるものである。

 

「問い」とは単なる疑問ではなく、授業を牽引する原動力である。

 

その発問とは教師の授業原理に基づく一貫したものではなくてはならない。

 

現代文では、「〇〇とはどういうことか。」

 

「〇〇なのはなぜか。」を基本に考えればよい。

 

これは気まぐれの問いではなく、現代文において本質的な問いである。

 

東大の問題がほぼ「どういうことか。」という問題が占めていることが何よりの証明である。

 

また、たとえば、憲法第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とはどういうことか。

 

これを説明できれば第一条を理解できていると言える。それと同じである。

授業のレベルが上がると、心に余裕ができる。

 

心に余裕ができるとユーモアが生まれる。

 

生徒が教師を信頼すると、生徒が話を聞くようになる。

 

そのようなとき、自然と教室に笑いが生まれるようになる。

 

クラスメイトがトンチンカンな発言をしたとき。

 

教師がミスをしたとき。

 

具体例がおかしかったとき。

 

授業に遅れて生徒が入ってきたとき。

 

しかしそれは真剣な授業が土台にあるからこそ生まれる笑いである。

 

そうでなければ偶発的な笑いか、嫌味のある笑いか、とにかくあまり良いものではない。

 

しかし、逆説的なことに、真剣に授業研究すればするほど、自然な笑いが起こるようになっていく。

 

教室が温かい笑いで満たされている授業、それはおそらくすばらしい授業である。

 

授業においては、指示にしろ、解説にしろ、言葉を厳選しなければならない。

 

なぜなら、無駄な言葉を話せば話すほど、言葉の価値は相対的に下がっていくからだ。

 

生徒にはこの教師の話は聞く価値がある、と思わせなければならない。

 

話頭の「えー」や「あー」などは論外で、説明するときの言葉一文字でも減らすように努力したい。

 

生徒は教師の言葉を聞かなければならない立場にある。

 

であれば、教師は言葉に責任を持つべきだ。

 

熱心に聞く生徒にとって、ムダな言葉はノイズである。

 

生徒にとって聞く価値がある説明になっているか。

 

これは授業準備で考え抜いておく必要がある。

 

それでも納得のいく授業をするのは難しいが、思わず生徒が頷くような快心の授業がたまにはできるようになっていく。

 

その喜びは偶然の達成でなければ、その分大きいものになる。