問いを板書し、生徒に考えさせ、数名の生徒に答えを板書させたら、解説に入る。

 

私は、その授業時間で扱う本文を冒頭から音読しながら適宜解説していく。

 

長い時は教科書3ページほど、短いときは1ページほど。

 

語句の意味や指示語、接続詞など、軽い内容のものはサラっと解説して読んでいく。

 

そして板書した大きな問いに差し掛かると、板書を使いながら詳しく解説を行う。

 

しかし時間を割いて解説するのは主発問だけである。

 

主発問では時間を使う。

 

「部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄」とはどういうことか。

 

読解の解説で留意したいのは、常に同じ型を使って説明する、ということである。

 

つまり、

 

①語句・指示語の確認

 

②表現技法の確認

 

③文脈の確認

 

これらの観点を使って、いつも説明するということだ。

 

そうすることで、生徒に読む技術を癖づけることができ、生徒に読む技術の普遍性を理解させることができる。

 

そして、解説の技術レベルが高まると説明重視の授業内容になっても生徒の集中をかなり継続させることができる。

 

型のない授業は生徒が落ち着かない。

 

しかし型どおりの授業ばかりでは飽きがくる。

 

学期に何度か、私は暗唱を取り入れる。

 

現代文でも取り入れる。

 

たとえば、羅生門の冒頭を暗唱して授業に入る。あるいは授業を終わる。

 

暗唱する部分が読解につながればよいが、名文などは暗唱そのものにも価値があると考える。

 

さて、ではどのように暗唱させるか。

 

私は、範囲を指定し、自由に練習させ、合格する自信ができたら私の前でテストを受けなさい、と言う。

 

そして名票を黒板に貼っておき、合格した生徒から自分で〇をつけさせる。

 

自分で〇をつけさせる理由は、終わった生徒が時間を持て余さないようにするためと、達成感を味合わせるためだ。

 

合格した生徒は他の生徒を手伝わせる。

 

暗唱に効果はあるのか、様々な議論があるだろうが、名文を内面化することは文章能力の向上にマイナスに響くことはないように思われる。

 

ともかく、暗唱を時々取り入れるのは授業として大変有効だと思う。

 

現代文は主に論説と小説の二つにジャンル分けできる。

 

これらは一見全く異なるものに見えるが、実はそうではない。

 

読み取りに必要なのは、語彙力と文法・文脈力で、ほとんど同じといってもいい。

 

たとえば、現代文の文章を読み取れているかを判断する最もシンプルな問いは「〇〇とあるが、どういうことか。」という問いである。

 

これは、わかりにくい表現をやさしく言い換えてください、という意味で、これができれば文章の意味が理解できているということになる。

 

そして、これこそ現代文で最も普遍的な問いである。

 

具体例で考える。「羅生門」。

 

「この『すれば』は、いつまでたっても、結局『すれば』であった。」とはどういうことか。

 

これを言い換えるには、「この」という指示語を確認する、『すれば』という省略の表現技法の説明、そしてカッコの意味を説明する、という観点が必要だ。

 

それ以外の部分は難解ではない。

 

このように考えると「どういうことか。」という問いは、難解な日本語表現をやさしく言い換える「翻訳」のようなものだといえる。

 

であればこそ、問いを立てる箇所をどこにするのか、それは授業準備において重要な意味を持つ。