小説は人の心情を描いたものである。

 

寓話であっても、そこに描かれているのは人の心情である。

 

だから、小説では「心情」が問われる。しかし小説では心情がそのまま記述されていることは少ない。

 

なぜなら小説は描写で語るのであり、説明は論説で行われるからである。

 

だから小説では描写の意味を考えることが主となる。

 

具体例で考える。高校の小説教材で最もポピュラーな作品「羅生門」。

 

「下人は、大きなくさめをして、それから、大義そうに立上った。」

 

このときの心情を説明せよ。

 

小説での心情を考えるときの定石は、

 

①語句の理解

 

②表現技法の理解

 

②文脈の理解、である。

 

ここでは②は特に考慮する必要がない。「くさめ」と「大儀そうに」の意味をまず確認する。

 

大儀そうにしている根拠は、直前の「盗人になることもできず、明日の生活にも困っている」という下人の置かれた状況である。

 

これを板書しながら確認していけば、多くの生徒が納得できる心情説明になると思う。

 

 

テクスト主義という言葉がある。それに対して作家主義という言葉がある。

 

前者は、「書かれていること」を重視し、後者は「作者の意図」を重視する。

 

どちらかが優れているわけではなく、私たちはこれら二つの要素を行き来している。

 

しかし、国語の授業ではテクスト主義が前提になる。

 

「次の文章を読んで、後の問いに答えよ。」

 

国語のテストに必ず書かれている文言である。

 

これは、次の文章の中からすべて答えの根拠を考えなさい、という意味である。

 

作者の人生や思想、意図はとりあえず考えなくてもよい。

 

だから、場合によっては作者の意図とは異なる解釈が生まれることもある。

 

しかし、それは文章を正確に読み取った結果であれば、正しいのである。

 

現代文は作者の思想や作者の意図を探る教科ではなく、正確に文章を読み取る教科である。

 

そして国語の問い、特に入試問題や模試の設問では、文章の読み取り以外の問題が出題されることはない。

 

小説を読んだ感想は、小論文では問われる可能性があるが、現代文ではまず問われないだろう。

 

テクストの正確な読み。このことを目指して現代文を学習するのである。

言葉は二種類に分けることができる。

 

話し言葉と書き言葉である。

 

話し言葉は日常生活の中で身に付けることができるが、書き言葉はそうではない。

 

これは、近代以前においては識字率が低かったことが証左である。

 

幼児が習得するのはどちらが早いか、答えは決まっている。

 

つまり、話し言葉は日常の中でかなりの程度習得が可能だが、書き言葉はそうではない。

 

学校に行かなくても弁が立つ人はいくらでもいる。

 

要するに、学校で教えるべき事項は、書き言葉なのである。

 

この認識がないと、国語では話し合いをすべきなのか、書かせるべきなのか、迷いが生じる。

 

学校で教えるべきなのは書き言葉である。

 

以上のような内容を生徒に伝えるのは重要だと思う。