号令。

 

「はい、〇〇君早く席に着いてねー」

「じゃ、授業を始めたいと思います。教科書〇〇ページを開いてください。」

「みんな教科書忘れは、いないかなー」

「はい、いいですかーじゃあ教科書読んでいきますよー」

 

(遅刻の生徒が入ってくる)

 

「〇〇君、何で昨日言ったのに今日も遅刻なのかな?理由は?」

「・・。」

「こういうことは、きちんと自分で言わないといけません。」

「朝起きるのが遅くなって・・」

「もう〇年生なんだから、自分で起きられるようにしないといけないよね。じゃ、席につきなさい。」

 

さて、これらの会話で不要な部分はどこだろうか?

 

答えは、全部である。

むしろ、学級崩壊のタネを自分で撒いてしまっている。

授業は、教師にとってルーティーンワークである。

 

今日も授業なら、もちろん明日も授業だ。

 

しかし、人生は死に向かっての片道切符である。

 

しかもいつ死ぬかは誰にもわからない。

 

それは半年後かもしれないし、明日かもしれない。

 

教師は、生徒に伝えたい「何か」があって教師という道を選んだはずだ。

 

それはいつ伝えるのか?

 

その答えは今日、なのである。

 

不思議なことに、死ぬつもりで授業すると、元気になる。

定期テストで「やり直し」を推奨する教員は多い。

 

しかし、これはおそらく中堅層以下の学校だと思う。

 

テストとは、学力の最終結果を測るもので、本来見直し、などないのである。

 

テストまでにすべてを仕上げるのが本来で、そう指導すべきである。

 

共通テストの見直し、大学入試の見直し、などするだろうか?

 

テストに見直しがある、という意識で授業をする、あるいは授業を受ける。

 

それでは真の学力はほど遠い。