Han-nichi is Never Over⁉️
・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
True ・・真実は動き始めた
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "The beginning of history.Han_nichi_Labo_Station"
Sumer-Japanese Suite Lounge.
(FunnyBomb).
この投稿も、明治、大正と続き、昭和も幕を降ろしました。
戦後社会と言う時、多くの人は戦後体制・戦後復興と言うKey Wordが頭に浮かぶのではないかと思います。
過去の歴史は、私達の意思とは無関係に現在未来の歴史に影響を与えていきます。
世界の国々の殆どは、戦勝国と敗戦国と言う対極的な運命をたどり、戦勝国が敷いた「戦後体制」と言う一種の社会秩序は現在も続いています。
昭和と言う時代が終わりを告げた事は、戦後復興と言う観念に一定の区切りをつけると共に、忘却の彼方に記憶を連れ去りました。
戦後処理は、奇形左翼の頭の中以外では昭和前半に「完全かつ最終的」に終わっています。
重ねて言うと、「戦後処理は、奇形左翼の頭の中以外では昭和前期に滞りなく終わっています。」
強いて言えば、安倍改造内閣でも「賠償金のおかわり」すら支払っています。
国民の血税で、売春婦財団に10億支払ったのです。
支払わなくて良い賠償金を国税で支払ったのです。
小泉内閣、小渕内閣然りです。
そう言う「いわれなき戦争責任を強弁する行為」こそ反日主義、他律主義の象徴です。
彼等こそ、次代の奇形左翼シンパです。
取り止めのない記事ですが、ここから「戦後」「戦争」と言う観念に区切りをつけて、少し現代日本と言う切り口で、投稿していこうと思いました。
元号は平成に変わり、新しい時代に突入いたします。
■昭和天皇崩御・平成天皇即位
昭和64年(1989)1月7日、第124代天皇、昭和天皇の迪宮裕仁(ミチノミヤ・ヒロヒト)天皇陛下崩御。
同じ日、第125代天皇として皇太子・継宮明仁(ツグノミヤ・アキヒト)親王殿下が天皇即位。
元号は、昭和から平成に改元されました。
■Die Hard(ダイハード)
平成元年(1989)2月4日、ハリウッド映画「ダイハード」公開。
主演・ブルース・ウィリス。配給・20世紀FOX。
配給収入11億5000万円。
ダイハードの意味は"なかなか死ねない奴"。
ストーリーは、テロリスト組織とツキに見放されたニューヨーク市警の刑事が激突し、日系企業が入居する高層ビル内で銃火器を使用した戦闘を繰り広げるアクション映画。
ブルース・ウィリスの出世作。
■消費税3%導入
平成元年(1989)4月
■竹下政権・総辞職
平成元年(1989)6月、リクルート事件※の責任を取る形で、竹下登内閣が総辞職。
次期総理候補が全て事件に関与した事により、後任候補は、事件に関与していない清廉潔白で、無派閥で、しかし実力のない宇野宗佑が次の総理となります。
その後、宇野内閣は、女性スキャンダルにより 6月3日から8月10日までと言う最短の在職期間で退陣。
※昭和63年(1988)6月、リクルート社が代議士、官僚、有力企業の幹部等に自社の未公開株を贈っていた事が発覚し、55年体制の崩壊に繋がる事件となる。代議士クラスでは、竹下登現職総理、宮澤喜一、中曽根康弘、梶山静六、小沢一郎、安倍晋太郎、渡辺美智雄、加藤紘一等派閥の大物代議士がズラリと名を連ねましたが、東京地検特捜部は、証拠不十分により、それら殆どを立件する事が出来ませんでした。
■天安門六四事件
平成元年(1989)6月、支那の政治の中枢、北京の紫禁城前にある天安門広場に、支那民衆約100万人による民主化を求めた国民が集結しデモ活動を行った事により、人民解放軍が出動し、一般民衆が大虐殺された事件。
死者は、中共の公式発表によると約319人。勿論、歴史修正です。
英国、米国政府の調査では、少なくとも1万人が大虐殺されたと推測されています。
事件後、中共政府は、死体を隠蔽したとも言われ、その多くは南京大虐殺記念館に所蔵されているとも囁かれます。
何故、天安門事件は起きたのか?と言う理由は、諸説ありますが、当時の中共ナンバー1の鄧小平と改革派の趙紫陽の対立が原因だったと言われます。
趙紫陽は、民主化の学生等との交流もあり、「支那は、一党独裁を辞め、多党制を導入して議会制民主主義を取り入れなければ現代的な法治国家になれない」と言う考えを持った人物で、鄧小平は中共の存続を脅かす反革命分子とみなして趙紫陽を排除したかった為、人民日報の一面に「市民運動は動乱である」と、わざと趙紫陽を支持するデモ隊を刺激する記事を出す事で、学生達を挑発したのが一因とも言われています。
その趙紫陽が急死する事により、デモ隊の怒りは、更にエスカレートしていったのです。
鎮圧には、約10万人の人民解放軍が出動したそうです。
■連続幼女誘拐事件・宮崎勤逮捕
平成元年(1989) 7月23日、幼女4人を誘拐し殺害した宮崎勤被告(26)が逮捕。
誘拐した幼女を、全裸にしてビデオ撮影し、凌辱した後、殺害し、死体損壊、遺棄、一部は食すと言う異常かつ残虐非道な犯行でした。
第一の誘拐殺人は、昭和63年(1988)8月22日、第二の犯行は10月3日、第三の犯行は12月9日に行われます。
その後、宮崎は、被害者宅に新聞の活字を切り貼りしてコピーした意味不明の活字が羅列された葉書を送りました。
「絵梨香」「かぜ」「楽」「死」など(絵梨香は被害者の名前)。
平成元年2月6日、宮崎は第一の被害者宅玄関前に、人骨、衣類、そしてまたもや新聞の活字をコピーした紙などを詰めた段ボールを放置しました。
その4日後、2月10日、宮崎は「今田勇子」と言う偽名で被害者宅とアカヒ新聞本社に大胆にも犯行声明を送りました。
以下、その声明文の一部です。閲覧注意。
『遺骨入りの段ボールを置いたのは、この私です。この真理ちゃん一件に関しては、最初から最後まで私一人でしたことです。その証しを立てます。(中略)異様な程に、胸が高まってくると、なぜかモヤモヤしてきました。そして、子供を産むことが出来ないくせに、こうして目の前に自由な子ガイルといウ、自分にとっての不自然さが突如としてぶり返し、(中略)とめどもない高なりガ一気に爆発し、目の前の水を武器に、私は、真理ちゃんの髪の毛をつかみ、顔を川に沈め・・』。
捜査当局は、女性の犯行と言う線で捜査を進め、宮崎の捜査撹乱は功を奏します。
7月23日、逮捕当日も宮崎は犯行に及んでいました。
幼女姉妹を山林に連れ込んで、服を脱がせてビデオ撮影しようとしていたところを、被害者の父親が発見し通報、逮捕と言う運びとなりました。
史上稀に見る変態猥褻鬼畜事件は、世間の注目を集め、家宅捜索された宮崎の自宅の異常な光景は、ニュースで放映されました。
宮崎の自室には、AVを含む5000本以上のVHSテープが山積みになっていたのです。
事件後、宮崎の実家には「お前たち家族も同罪だ。死ね」と言う内容の葉書が大量に送られたと言います。
現在、宮崎の実家は取り壊され、実家跡は駐車場となっています。
不可解なのは、宮崎が死体損壊の犯行に及んだのは、実家の自室だった事です。
実家には、親、兄弟が同居していました。
平成20年(2008)6月17日、死刑執行。
死没地・東京拘置所。享年45歳。
死刑執行後、宮崎の母は、遺体を受け取らなかったと言います。宮崎の父は、宮崎が逮捕された年に飛び降り自殺しています。
■海部俊樹内閣発足
平成元年(1989)8月、宇野内閣の退陣により、首班指名で海部内閣発足。
■歌番組「ザ・ベストテン」放送終了
平成元年9月28日、TBS系列歌番組、ザ・ベストテンが放送終了。
■ハリウッド映画「Black Rain」公開
平成元年(1989)10月7日。
パラマウント映画製作。
配給収入13億5000万円。
出演・マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシア、高倉健、松田優作、若山富三郎。
日米の刑事が協力して、大阪を主要舞台に日本のヤクザと戦うと言うストーリー。
松田優作の遺作となる。松田優作と親交の深かった俳優に原田芳雄、安岡力也(イタリア人と日本人の間に生まれた在日。祖父と父はイタリア・マフィア)、中村雅俊、萩原流行、佐藤蛾次郎、萩原健一(ショーケン)、仲村トオル等がいる。
松田は、在日(韓国籍)・非嫡出子と言う出自に生涯悩んでいたと言う。
ヘビースモーカー(1日100本)で、麻雀が強かったそうです。
最終学歴・高校中退。米国留学経験有り。
「徹子の部屋」出演時は、終始喫煙、飲酒しながらの撮影に至る。
意外にも、昭和53年(1978)前後にレコード・デビューし、あの「夜のヒット・スタジオ」にも歌手として出演し、複数の楽曲をリリースしています。
ガンの悪化により平成元年(1989)11月6日逝去。享年40歳。
■ソ連崩壊(東西冷戦終結)
遡る事、昭和60年(1985)、ソ連のトップ、共産党中央委員会書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任します。
ゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革・再構築)を掲げ、行き詰まった社会主義経済を立て直す為、市場経済の導入、情報公開(グラスノスチ)を始めました。
この動きが、国民の間に広がり自由を求める空気がソ連国内と衛星国家にも拡大していきます。
平成元年(1989)5月、ソ連の衛星国家の一つハンガリーがオーストリア側の国境を開放した事により、戦後継続されてきた東側(共産主義陣営)と西側(自由主義陣営)の間に立ちはだかっていた「鉄のカーテン」に初めて穴が空きました。
平成元年(1989)11月10日、遂に冷戦の象徴、ベルリンの壁が民衆の手によって破壊。
ベルリンの壁が崩壊します。
東独国国民は、ハンガリーからオーストリアを経由して西独国へ入国しました。
その数は、3ヶ月で約20万人に昇ります。
平成元年(1989) 12月、地中海マルタ島で米ソ首脳会談が行われ、東西冷戦の終結が宣言されます。
平成3年(1992)、東欧諸国で次々と共産主義政権が倒れていき、遂にソ連も崩壊します。
露国は、ロシア連邦へと国号が変わって、連邦共和制国家へ変貌し、初代大統領にボリス・エリツィンが就任します。
レーガン政権が、冷戦に終止符を打つ為、ソ連を「悪の帝国」と名指しし、「力による平和戦略」に取り組んだ一連の安全保障政策が実を結んだ大事件だったとも言えます。
■バブル経済崩壊
バブルは、平成2年(1990)3月に崩壊しました。
平成に入ってからの大きな事件の一つは、間違いなくバブル崩壊です。
昭和61年(1986)、日本経済はバブルと言う空前の好景気を迎えていました。
株価は、跳ね上がり、日本の金融資産は膨張しました。
昭和末期には、日本の地価総額は、約2000兆円、東京23区内の土地で米国を2つ買えるとさえ言われました。
実際、多くの日系企業が海外の資産を買収しました。
しかし、これは土地投機がもたらしただけの文字通りバブルであり、平成2年の総量規制(金融機関の不動産融資に対して行われた国の規制)により、あっけなく終わりを告げ崩壊しました。
多くの市場混乱の原因が、この大蔵省(現・財務省)官僚が実行した総量規制のせいだったと後年評価され、大蔵官僚が総量規制に踏み切ったのは、バブルで楽をして儲けた若年投資家が妬ましかったからだとも言われます。
崩壊後、日本の土地価格は暴落し、それらを担保にしていた金融機関が多額の不良債権を抱えて経営不振に陥りました。
土地、株だけで約1400兆円の資産が日本から失われました。
この損失は、オイルショック以上の規模と言われ、バブル崩壊が、昭和48年(1973)から続いていた経済成長を終わらせる原因となり、この崩壊の余波は、東京から静かに全国へ伝わり、数年経過したのち、長い低成長デフレ時代の幕開けとなります。
■2G (第二世代)
モバイル通信規格の一つ。
平成2年(1990)4月、auがCDMA1xのサービスを開始。
同年12月、ボーダフォンがW-CDMA方式のサービスを開始。
平成3年(1991)8月、携帯電話や無線通信等の普及の為、NTTの子会社としてNTT docomoが設立されます。
携帯電話回線が、アナログ回線からデジタル回線となります。
第3世代に近い機能を持ったCDMA方式が発売され、次世代型と言う意味を込めて2.5Gとも呼ばれました。
この頃から、携帯電話にメール機能(インターネット回線)が接続出来る様になりました。
周波数帯の再編となり、メーカー各社の免許が自動失効となり、平成24年(2012)7月に2Gのサービスは終了します。
この頃日本の携帯は、世界の殆どが採用しているGSM規格ではなかった為、外国へ持っていっても使えませんでした。
■礼宮文仁(アヤノミヤ・フミヒト)親王殿下、川嶋紀子さんご成婚
平成2年(1990)6月29日ご成婚。礼宮様は、秋篠宮家・当主となられ、紀子さまブームが訪れます。
■ 東西ドイツ統一
平成2年(1990)10月3日。
■サラリーマン年収
(出典:賃金構造基本統計調査(厚労省)残業代、ボーナス等を含む。又、従業員10人以上の企業と役所を含む平均年収。)
平成2年(1990) 4,384,000円
■ワード・プロセッサの普及
ワープロ専用機が日本で初めて発売されたのは、昭和53年(1978)で、東芝のJW10と言う機種でした。
因みに価格は約600万円。
価格が高く、一般社会に普及するには至りませんでした。
しかし、昭和60年頃に、大手電機メーカーや事務機メーカーの相次ぐ参入により、価格が徐々に下がり始めます。
平成3年(1991)頃をピークに、日本の電機メーカー各社から発売されたワープロ専用機が浸透します。
NECは文豪シリーズ、日立はワードパル、
リコーはマイリポート、富士通はオアシスと言うワープロ機を発売。
日本では、ワープロ専用機の普及を経て、パソコン市場が拡大していきました。
■ 湾岸戦争
平成3年(1991)1月〜2月。
民主主義陣営とイラク以外のアラブ諸国が手を結んだ多国籍軍(民主主義陣営)vsイラクとの戦争。
戦死者は、多国籍軍が約400人、イラクが約3万5千人。
イラク軍が、クウェートに進軍し、クウェートを併合した事をきっかけに勃発した戦争。
■ジュリアナ東京
平成3年(1991)5月15日開業。
バブルは、前年の平成2年に実施された「総量規制」により弾けていましたが、バブル経済の名残は、まだ辛うじて残っており、民衆の狂喜乱舞、贅沢志向は余韻を残していました。
その狂喜乱舞の象徴となったのが、ジュリアナ東京でした。
■雲仙普賢岳(長崎)噴火
平成3年(1991)5月15日。
マグマが噴出し、火砕流、土石流などの言葉が報道を通じて広く知られました。
43人の死者、行方不明者、9人の負傷者が出ました。
■佐川事件
平成3年(1991) 7月、東京佐川急便による暴力団関連企業への多額融資発覚。
その佐川急便から、経世会※(自民党の竹下派の派閥で前身は田中派の木曜クラブ)のドン、金丸信が5億円の政治献金を受けていた事が、政治資金収支報告書の記載漏れにより、東京地検特捜部から政治資金規制法違反の容疑で起訴になります。
明らかなヤミ献金でした。
※竹下登元総理が会長を務める自民党の最大派閥。派閥には、キングメーカーと言われた金丸信が竹下の後に長く会長を務めるほか、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、橋本龍太郎などがいました。
主要人物の殆どは、田中角榮の派閥、木曜クラブ出身者で、角榮が脳梗塞で倒れた頃に田中派に対抗する形で分離独立して設立された派閥。
田中派の若手主要議員、竹下、橋本、小沢等がまとまって田中派を離脱し、角榮に反旗を翻し、新派閥を立ち上げた事がキッカケとなり、角榮は間もなく脳梗塞により死の床に伏したと言う時系列になります。
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:流転の戦後日本vol.15参照