Han-nichi is Never Over⁉️
・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
True ・・真実は動き始めた
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "The beginning of history.Han_nichi_Labo_Station"
Sumer‐Japanese Suite Lounge.
(FunnyBomb).
■宮澤内閣発足
平成3年(1991)11月5日、海部内閣退陣。
後継として宮澤内閣発足。
■宮澤喜一総理、従軍慰安婦問題で韓国政府の恫喝に8度謝罪
平成4年(1992)1月16日。宮澤総理は訪韓し、日韓首脳会談に臨みます。
会談では、従軍慰安婦問題に触れて、盧泰愚(ノテウ)大統領に8回以上謝罪する政治的事件が発生しました。
謝罪のキッカケとなったのは、首脳会談から約1ヶ月前の事、突然、韓国側が「旧日本軍慰安婦直接動員文書」を発表した事が原因です。
文書は、韓国政府が、駐米韓国大使館経由で入手した米軍の記録文書だと言います。
これにより、日本軍が韓国人従軍慰安婦の募集と慰安所運営に直接関与したと主張し始めたのです。
時の官房長官は、宏池会のPrince加藤紘一。
内閣改造後の官房長官が、あの親中韓派で売国政治家の河野洋平です。
■尾崎豊死去
平成4年(1992) 4月25日。享年26歳。
wikipediaによると、覚醒剤の大量摂取によるオーバードーズが原因となり排水種と自傷行為により死に至ったと説明されます。
短い人生の幕を閉じた尾崎でしたが、その豪快で型破りな生き方や、自らの経験からアウトローの気持ちを綴った詩、高校中退と言う学歴から若者のカリスマに迄のし上がった経歴が多くの人々に支持されたロックスターでした。
尾崎が覚醒剤を覚えたのは、恐らく、デビュー直後の米国修行中の期間に原因があります。
思えば、その米国修行に行った事が悔やまれます。
■ Space Shuttle・Endeavour打上げ成功
平成4年(1992)5月7日、NASA米国航空宇宙局が、スペースシャトル・エンデバー号の打上げに成功。25回のフライトミッションが行われましたが、ラストフライトとなる平成23年(2011)5月16日の打上げ実験にも成功し、無事帰還。
この実験フライトが最後の任務となりエンデバー号は引退。
尚、エンデバーとは英国海軍艦長のキャプテン・クックが乗っていた帆船がエンデバー号だったところから引用され、アポロ計画の司令船もエンデバーと言う名称だったとの事。
■佐川事件で竹下登元総理、国会証人喚問
平成4年(1992) 11月。
■第二次宮澤改造内閣スタート
平成4年(1992) 12月~平成5年(1993)8月迄。
■サッカー、Jリーグ開幕
平成5年(1993)5月15日、満を辞して日本で初のサッカープロリーグ戦が開幕。
■皇太子・浩宮徳仁(ヒロノミヤ・ナルヒト)親王殿下、小和田雅子さんご成婚
平成5年(1993)6月9日ご成婚。
尚、浩宮と言うお名前は、ご幼少の頃から付けられた称号で、礼宮と言う場合と同様、苗字ではありません。
■宮澤内閣不信任決議による衆院解散(別名:噓つき解散)
平成5年(1993)6月18日、宮澤内閣は政治改革法案を国会に上程できなかった責任を問われ、内閣不信任決議案可決により衆院解散。
これを機に、自民党から小沢一郎、鳩山由紀夫、武村正義、羽田孜(ツトム)等々が自民党を離党し、各々新党を旗揚げします。
離党した彼ら自民党の若手議員の多くは、不信任決議案採決の際、賛成票を投じていました(自分の所属政党に造反したという事)。
■55年体制崩壊
時代は、空前の新党ブームとなっていました。
平成5年(1993)7月、衆議院解散総選挙の開票結果、自民党過半数割れ、社会党惨敗。
平成5年(1993)8月9日、細川連立内閣発足。日本新党代表の細川護煕が総理大臣に就任。連立内閣には、社会党も拾われ与党に名を連ねます。
この総選挙の政治スローガンは「金権政治の打破」でした。
与党は、日本新党、社会党、新生党、公明党、民社党、社民連、新党さきがけ、民主改革連合等の連立内閣で、主義主張、政策は当然一致する訳もなく、今では考えられない野合の内閣でした。
■うどん蕎麦の平均価格
平成5年(1993)439円
■平成の米騒動
平成5年(1993)、記録的冷夏による米不足騒動が起こります。
質は良くても冷害に弱いブランド米の大量生産や、減反政策が拍車をかけたと言われています。
取ってつけた理由の様で腑に落ちませんが。
当時の細川政権は、それまで、GATTウルグアイ・ラウンドにより米国から輸入品の関税引き下げなどを要求されており、政権は国内農家を保護する為、外国産米は輸入しないなどの方針を出していました。
細川政権は、この方針を棚上げし、タイ、支那、米国などからの米緊急輸入を発表します。
しかし、日本人が食する銘柄はジャポニカ米で、タイ、支那、米国等で生産される銘柄はインディカ米だった事、タイからの輸入米の中にネズミの死骸が見つかった事、更には、農薬が大量散布された米国のポストハーベスト米が消費者に受け入れられなかった事が悪影響となり、外国産米は、大量に余った為、売れ残りが続出し、国産米とブレンドしたり、飼料米への転用、廃棄処分などの事態に発展します。
■北海道南西沖地震発生
平成5年(1993)7月12日、午後10時17分、北海道奥尻島沖を震源地にマグニチュード7.8の地震発生。
死者202人、行方不明28人。
■悪魔ちゃん事件
平成5年 (1993)8月、東京都昭島市に出生届が提出されました。
提出された出生届の氏名欄には、「悪魔」と言う名前が命名されていた為、子の公共の福祉を害するとの理由で、市側が届けを不受理としましたが、この事に父親が不服を申し立て、地裁に訴えを起こした事件。
父親は最終的に勝訴します。
後に、子の名前を命名した父親は、覚醒剤取締法違反で二度逮捕されています。
■20世紀FOX 「X Files」
放映開始
平成5年(1993)9月10日、米国20th Century FOXで放映されたテレビドラマ。世界中で放送され人気を得る。
Storyは、アカデミー賞で5冠受賞を果たした大作「The Silence of the Lambs」(邦題:羊たちの沈黙)で、存在が一躍注目された米国連邦犯罪捜査局FBIを題材にしたもので、X Files は、その連邦犯罪捜査局・FBI特別捜査官のモルダーとスカリーが、実際に存在したと言われるFBIに眠る未解決事件のファイル、X Fileを棚卸しし、次々と謎に満ちた事件を解決していくと言うStory。
日本でのテレビ放映は、平成7年(1995)11月22日から。
後にX Filesは、二度映画化されています。
■田中角榮元総理、他界
平成5年(1993)12月16日、田中角榮元総理逝去。享年75歳。
生前、角榮の残した格言です。
「人の一生は、運と努力だ。それしかない」「逆境の時にこそ、人間は友情が必要である」「挫折した時にこそ、人間の真価が問われる」「責任は必ず果たせ。約束は守れ」「今日の仕事は明日に伸ばさない」「一朝にして人間は偉くなれぬ。努力だ。人間は全て誠心誠意やらなきゃダメ。寝言言ったり、不満を言ってる奴はね、人生死ぬ迄不満を抱き続ける人間になる。社会が悪い、政治が悪い、誰が悪い、と言って何になるんだ」
「政治は数、数は力、力は金」。
角榮が、何故最大派閥の長となったのか。
政治家には、陳情が付きもの。橋をかけてほしい。干ばつの被害を何とかしてほしい。
しかし、若手議員の場合、建設省には弱腰、農水省に無縁だと言う事があります。
普通なら、ここから先に進みません。
田中派の場合、地元から、得意ではない分野の陳情を受けても、例えば建設大臣、農水大臣を経験した他の田中派の議員に電話一本「何とかお願いしたい」で事を片付けられるのです。
自身の派閥での挨拶に次の様なものがあります。
「もうダメだと思って諦めるな。必ず相談しろ。そう簡単に選挙民の願いは叶えられない。公約は猿でも出来るが、実現するのが大変なんだ。そこんところで多くの政治家が頓挫する。投げ出す。挫折するんだ。だから相談しろ。先輩がいる。俺がいる。ここは最大派閥なんだからな。元医者から弁護士、学者、警察、何でもある。誰でもいる。これを利用しない手はないだろう」。
角榮が、他の有力議員より遥かに突出した実力を発揮する事が出来た背景には、派閥に入ってくるとてつもない情報量の裏打ちがありました。
政治が停滞した時、景気が落ち込んだ時、社会不安が増大した時、未だに角榮再来を望む声や角榮関連の書籍が出版されるそうです。
しかし、田中内閣以来、角榮を越える議員立法や強烈なリーダーシップを持って官僚を操る宰相はまだ現れません。
■細川護煕総理辞任
平成5年(1993)8月、宮澤改造内閣の不信任決議により、細川政権発足。非自民・非共産8党派の烏合の連立政権誕生。
平成6年(1994)4月、細川護煕総理が佐川急便グループからの1億円の借金問題を巡って辞任。9ヶ月の短命内閣となりました。
細川総理の佐川からの借金を問題視したのは、自民党でしたが、確かに総理が答弁した通り、借金は返済されていたそうです。
また、ヤミ献金や借金が問題とされてきましたが、佐川急便に関わっていた政治家は、金丸信、細川総理以外にも複数の自民党議員の名が、佐川の貸付記録に載っていたと言います。
■援助交際、ブルセラショップ
平成4年(1992)、素人女子高生が下着や制服を売り、業者がそれを高値で買い取るブルセラショップが誕生。
平成6年(1994)、当時流行した風俗業、ダイヤルQ2を利用したデートクラブ、「援助交際クラブ」を営業していた業者が、児童を使って組織売春させていた事が判明し摘発されます。
この報道をキッカケに、女子高生の売春による小遣い稼ぎ「援交」が社会問題に。
女子高生等は、ポケベル、ケータイ、伝言ダイヤルを駆使して男性と交渉。ブルセラショップなどの売上げなどをブランド物購入費に充てていました。
■松本サリン事件
平成6年(1994)6月、長野県松本市でオウム真理教による初めてのサリン事件発生。
死者8人。負傷者約600人。
容疑者として、長野県警は杜撰捜査を強行し、河野義行さんが誤認逮捕されます。
反日新聞は、一斉に真犯人と断定しスクープ、加熱報道になります。
反日新聞による報道被害でした。
真犯人は、勿論オウムです。河野さんは冤罪被害者となりました。
当時、民放放送局、TBSとオウム真理教の関係が社会問題として注目されました。
TBSは、事件発生の前、持ち前の反日DNAを発揮して、オウムの番組取材の中で、被害者の坂本弁護士がオウムに対するインタビューに答えている映像をビデオに記録していました。
坂本弁護士は、オウムの犯罪性にいち早く気付いた反オウム弁護士でした。
そのビデオをオウム側が、放送前に視聴した事が弁護士殺害の動機に繋がったのです。
問題は、複数ありました。
一つは、TBSが事件直後の捜査の中で、オウム信者にビデオを見せた事実を隠蔽していた事。
一つは、情報ソースの秘匿性を確保すると言うジャーナリズムの原則と報道倫理を侵した事。
一つは、事実の隠蔽のみならず、事実を否定した事。
又、被害者遺族の問合せに対し、「たらい回し、居留守、恫喝」等、杜撰かつ不誠実な対応をしており、この事について、被害者遺族の手記では「マスコミと言う特権意識に舞い上がった、思い上がりを強く感じた。してはならない過ちを侵し、それを恥じる事もなく隠し切ろうとした」と記録されています。
そして、令和の時代になっても、第四権力と言う特権階級にあぐらをかき、相変わらず捏造報道や、国民の知る権利を「報道しない自由」「隠蔽する自由」にすり替え、ねつ造や報道被害を生み続けるマスコミの腐敗構造は、連綿と繰り返されています。
■自社さ・連立政権、村山連立内閣発足
平成6年(1994)6月、オウム真理教の台頭と並行して、悪魔の様な村山社会党の自社さ連立内閣が始まります。
■TK小室ファミリーの台頭
TMネットワークの小室哲哉が、平成6年(1994)から平成11年(1999)にかけて、作詞、作曲、音楽プロデュース業で数々のアーティストからミリオン・ヒット曲を排出し大成功を収め、音楽プロデューサーとして台頭します。
小室の音楽性は、打ち込み中心のダンスミュージックや、タイアップ曲が多いなどの特徴があり、批判される一幕もありましたが、オリコンチャートのトップ5が全て小室ファミリーで占めたり、トリプル・ミリオンの曲も少なくなかった為、のちに長者番付のトップにも名を連ねる資産家となり、マスコミから「時代の寵児」と褒め称えられます。
やがて海外進出していきますが、GLAY、モーニング娘、MISIA、浜崎あゆみや、L'Arc-en-Ciel等、非小室系J-POPアーティストに世間の支持が傾き始め、TRFや安室奈美恵、華原朋美の活動縮小、更にはトランスなどのダンス・ミュージックへの固執等が痛手となってブームは去ります。
そのままトップの座に返り咲く事なく平成20年(2008)11月、詐欺事件で大阪地検に逮捕される事になります。
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:流転の戦後日本vol.15参照