・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦後 Beginning"
We are Sumer‐Japanese.Departure.
(FunnyBomb).
■報道しない自由(隠蔽する自由)の起源
マッカーサー元帥の有名な言葉があります。「彼等(日本人)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られての事だったのです」
東條首相の東京裁判での宣誓供述の中で「日本はじわじわ首を絞められる様になって自衛の戦争に立ち上がらざるを得なかった」と言う趣旨の発言があります。
東條もマッカーサーも同じ事を言ってるのです。
(思うに、これが報道しない自由の起源だと思います。)
ところが、これ程重要なマッカーサー証言が当時の日本のマスコミで報道される事はありませんでした。
いかに当時からマスコミが左翼偏重、国民の知る権利を侵害していたかがこの事例でも分かります。
では、何故戦後日本が左翼的だったかと言うと、その根源は公職追放にあります。
公職追放は、鳩山一郎のパージという形でセンセーショナルに幕を開けましたが、その時、空いたポストを埋めたのが「赤い人達」でした。
戦前であれば日本帝国を呪っていた人達、戦後であれば日本をソ連の様にしたいと思っていた人達が非常に多く公職追放された人々の後釜に座ったのです。
マスコミを牛耳る様になったのも、そんな赤い人達でした。マッカーサー証言を肯定すると、戦前の日本も大東亜戦争も決して悪くなくなってしまいます。
だからジャーナリズムを握っていた彼等左翼は、わざとマッカーサー証言を黙殺したのです。
●マ元帥解任と奇形左翼台頭
公職追放で空いた椅子に座った大学教授達もマッカーサー証言には見て見ぬふりを通しました。
一方、なおも続く朝鮮戦争の中、ほぼ''北朝鮮・支那中共・ソ連など共産同盟軍に攻撃してはならない''と言うにも等しい、トルーマン大統領の政策と、韓国の戦線を任されていたマッカーサーとの朝鮮政策は最後まで一致する事はありませんでした。
昭和26年(1951)4月12日、アカヒ新聞に社説が踊ります「マックアーサー元帥を惜しむ」。
マッカーサー元帥は民主党のトルーマン大統領によって、サンフランシスコ講和条約調印の直前に解任されました。
マッカーサーとトルーマンの確執は、朝鮮戦争が休戦するまで解決される事はありませんでした。
翌年、昭和27年(1952)にサンフランシスコ講和条約は効力を発し、日本は主権を回復します。
同時に、GHQの日本占領は終了しますが、日米安保条項によって、GHQの占領軍は、その一部が在日米軍に姿を変え、戦後75年の現在まで東アジアの帰趨を見極めているのです。
■歌番組「紅白歌合戦」放送開始
昭和26年(1951)1月3日、第1回紅白歌合戦が放送。当時の正式番組名は、紅白音楽合戦で、放送もテレビでなくラジオ放送のみだったそうです。
■李承晩ライン
昭和27年(1952)1月18日、韓国初代大統領・李承晩が、米国の反対を押し切って、日本海の地図上に海洋境界線として引かれていたマッカーサー・ラインの代用として、李承晩ラインを引きました。
この日から、日韓基本条約が締結される昭和40年(1965)までの間に、韓国は李承晩ラインを侵犯したとして、日本の漁船233隻を拿捕し、2791人の日本人漁師を拘留しました。
韓国は、これら拘留された日本人の釈放と引き換えに、日本に拘留されていた在日犯罪者の釈放を要求し、昭和32年(1957)12月に日韓の間で、相互釈放協定が締結され、日本政府は、国内に474人の在日犯罪者を釈放し特別在留許可を出しました。
■プロレス興行
昭和28年(1953)7月、力道山(在日北朝鮮人)が日本プロレスを設立。日本プロレスには、後のジャイアント馬場とアントニオ猪木が在籍していました。
力道山は、昭和38年(1963)12月15日、39歳の若さで他界します。
喧嘩の末のナイフによる刺し傷が原因でした。組の人間に刺されたのです。
これは、芸能界全般にも言える事ですが、当時のプロレス興行には、組員も深く関与していました。
どの組も、代表幹部は日本人ではありませんでしたが。
■朝鮮戦争・休戦
昭和26年(1951)3月、国連軍はソウルを奪還していました。
破竹の勢いでソウルを何度も制圧した中朝軍でしたが、終盤戦では圧倒的物量を誇る国連軍の抵抗戦に大量の犠牲者を出した為、ソウル占領を諦め撤退します。
しかし、国連と米軍は、先も見えず、世論の支持も大義も明確ではない戦争に終止符を打つべく休戦を検討します。
マッカーサーが、米国時間の4月11日、司令官を解任された後、朝鮮戦争は膠着状態に入りました。
昭和28年(1953)1月、米大統領はトルーマンからアイゼンハワーに交代し、同年3月にはスターリンが他界、超大国米ソの代表は相次いで政権交代する事となります。
昭和28年(1953)6月、UN国連軍の一員としてソ連も停戦案に同意します。
唯一、毛沢東は停戦案に難色を示していましたが、ソ連が押さえ込みました。
昭和28年(1953)7月27日、国連軍と中朝連合軍は、38度線付近の板門店(パンムンジョム)で休戦協定を締結し現在に至ります。
しかし、国連軍とは、名ばかりで西側の主力戦力となったのは、国連軍約22カ国のうちほぼ米軍だけでした。
因みに、国連軍には、600余人の在日志願兵も従軍したそうです。
日本は、8000人規模の海保や民間人が掃海作業に出動していたそうですが、李承晩が日本の参戦に強く反対したそうです。
その当事者の韓国、無能な李承晩大統領は停戦協定の調印を欠席しています。
この戦争のおかしな所は、国連軍vs中朝同盟軍と言っておきながら、国連・常任理事国の支那とソ連が、国連軍の敵軍だったと言う点です。
例によって数字は諸説ありますが、ww2での日本の民間人死者数は約300万人で総人口の約4%、しかし、南北合わせた朝鮮戦争での一般市民の死者数は、約400万人で総人口の約20%と言われます。
にも関わらず、それだけの人口比の開きがあるのですから、如何に朝鮮戦争が無駄な犠牲者を増産したかが分かります。
北の金日成、南の李承晩の両者共に、自国民をどれ程無駄死にさせたのか、兎角、李承晩に至っては、自分の命の為に国民を人間の盾にして敵軍から身を守り、北の軍を攻撃しなければならない時に、自国民の殺戮を繰り返し半島の南端まで逃げ惑う醜態を晒す、無能無策で冷酷な大統領でした。
朝鮮戦争の真っ最中に、李承晩の頭の中は南北統一が念頭にあり、北の攻略など夢にも思わず、あるのは対日戦略の復讐心と大統領職への執着ばかりだったのです。
殺戮を常套手段としたと言う点では、李承晩は、毛沢東とそれ程変わりない独裁者でした。
又、韓国軍が、その強さを見せるのは弱者である自国民を殺戮した時だけで、北の軍の前では、米軍を盾にしなければ何も出来ない腰抜けの兵でした。
それは、ベトナム戦争でも同じ事でした。
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:vol.3参照