・・The XX Files 21th.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
Sub Title "Back To 戦後 Beginning"
We are SumerJapanese.Departure.
(FunnyBomb).
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■朝鮮戦争開戦までの経緯
遡る事、昭和20年頃、米国を筆頭とするUN連合国は、朝鮮政策において、「日本に統治されていた朝鮮は、連合国によって信託統治されなければならない」「朝鮮人は貧しく、文盲が多い為、一世代の内は強大国が保護し支援する事が必要だ」と考えていました。
スターリンも、その考えには同意し、昭和20年(1945)4月には、モスクワで米英中ソの間で、朝鮮の信託統治が合意されていました。
日本が敗戦した頃、ソ連は、ソウル、仁川までを占領していましたが、米軍は半島の南側を信託統治する事を決め、ソ連も合意した為、ソ連赤軍は、ソウル以北まで撤兵しました。
日本統治が終了した事は、現地の治安・政治・経済に悪影響を呼び寄せ、半島は急激なインフレとなって失業者で溢れ返り、経済は大混乱し、水害と疫病により1万人以上の死者が出ました。
又、食糧不足が起き各地で暴動が発生しました。
昭和21年(1946年)1月、米ソは朝鮮に独立国家建設の為、米ソ共同委員会を設置しましたが、交渉は決裂し信託統治計画は消滅しました。
昭和22年(1947年)3月、トルーマン大統領は世界的に反共活動を支援する宣言を発表し、南朝鮮では徹底した反共活動が断行されました。
同年6月に、米国に亡命していた李承晩が半島に戻り、臨時政府を設立したのを契機に、南北朝鮮は完全に別の道を歩んでいきます。
昭和23年(1948年)、李承晩は南朝鮮独自で、金日成の朝鮮労働党を排除した選挙を開き、韓国を正式国家として樹立する事を決定。
南朝鮮労働党は、南北統一国家樹立を主張し、李承晩側と対立し、警察隊と衝突。
やがて、韓国内の朝鮮労働党勢力は、ゲリラ化し韓国政府は鎮圧する過程で、済州島四三事件に見る様に虐殺も行っていきます。
昭和23年(1948年)8月15日、李承晩は韓国を樹立します。
同年9月、金日成は韓国に対抗して、スターリンの後ろ盾の元、朝鮮民主主義人民共和国を樹立。
これを契機として、ソ連赤軍は半島から撤退します。
翌昭和24年(1949年)、米軍も半島から撤退しました。
■中朝同盟軍にソウル占領される
韓国軍の兵力は、10万人、戦車無し、大砲91門。北朝鮮軍の兵力は20万人、戦車300台、大砲552門。
士気の低い韓国軍と比べ、北の軍人には支那の国共内戦から帰還した猛者も多く、士気が高く戦闘経験豊富でした。
反日に没頭していた無知・無能・無策な李承晩は、北の金日成(キム・イルソン)を信じ切っていた為、対北との戦争を全く想定していませんでした。
実際、朝鮮に駐留していた米軍部隊も大規模な戦争など想定もしていませんでした。
李承晩が、北の軍が侵攻して来た事実を知ったのは、北が38度線を越えた後だったそうです。
昭和25年(1950年)6月2日、北の軍が38度線を破りソウルに侵攻してきた為、6月27日、UN(United Nations)ニューヨーク本部は、「北は侵略国」と決議します。連合国軍も参戦する事になります。
総指揮を担当したのは、マッカーサー元帥です。
昭和25年(1950)6月28日、李承晩大統領は、首都・ソウルをいとも簡単に明け渡し、我が身可愛さにひたすら逃亡を続け、漢江に辿り着きます。
漢江の橋の前には、大混乱する避難民が殺到していました。
しかし、漢江の橋を渡る際、李承晩と韓国軍は、自分らが渡りきると、対岸に取り残された数百人の自国民を置き去りのまま橋を爆破しました。
北の進軍を止める為です。
数百人の市民は、北の軍の餌食となりました。
7月1日、李承晩と韓国軍は、更に敗走の途上で行手の邪魔になる自国民20万人以上を虐殺し、釜山に到着します。
韓国軍は、最早国民を守る為の軍ではありませんでした。
米軍が救援に駆けつけますが米軍も完敗。
ソウルは、北に占領されます。
もし、米軍がいなかったら、無能な韓国軍と李承晩は、この時点であっけなく北に降伏していたと言われます。
世界は、毛沢東中共軍が支那大陸を乗っ取り、ソ連は東欧全土を共産化し、ベルリン封鎖を強行、核配備に成功して、北の武装化に着手していた頃です。
昭和25年(1950年)9月、マ元帥は、天才的と言われた作戦能力を発揮し、7万人の兵力で韓国の仁川港に上陸しました。
仁川港は既に北の軍に占領されていましたが、幸い北の守備隊は配備されていませんでした。
マ元帥は、賭けに勝ち、北の背後から猛攻撃を開始しました。
10日後、ソウルを奪回し、北の軍を追撃体制に入り米軍と韓国軍は10月1日、38度線を越え破竹の北進を開始します。
マ元帥は、トルーマン大統領に「中共軍は参戦して来ないでしょう」と進言しました。
●連合国・米軍 vs 連合国・中共紅軍
昭和25年(1950年) 10月20日、米軍は北の平壌を占領、パラシュート部隊を投入し、北の奥深く北と南から北朝鮮を挟み撃ちにし全滅にする作戦を実行しました。
しかし、11月27日、30万人の支那中共軍が地鳴りを上げ、北朝鮮になだれ込み、米軍の猛進撃を止めました。
マ元帥は敗北を重ね、南へ後退、ソウルは再度北朝鮮軍の手に落ちます。
支那中共軍は、仮にもUN戦勝国クラブの常任理事国ですから、正規軍を派兵したとは言えなかったので、義勇軍が勝手に参戦した事にしたにも関わらず、最終的に中共軍の兵力は100万人を数えました。
マッカーサーは、焦りを募らせ支那本土にいる共産主義者を攻撃する事を禁止した米国政府の命令は「軍史の中で前例のない極めて大きな障がいとなっており、それが解除されない限り勝つ事は出来ない」とトルーマンを批判しました。
マッカーサーは、マッカーサー新憲法によって日本の軍隊を解体し、戦争放棄を命じたにも関わらず、朝鮮戦争が起き、在日米軍の殆どが朝鮮半島へ投入されると、日本の警備の為、今度は警察予備隊の編成と海保の増強を吉田総理に指令します。
平和憲法は、その草案者マッカーサー自らの手により僅か2年で破られたのです。
12月5日、支那中共軍は、圧倒的武力と戦意で平壌を奪回し、再度ソウルも占領しました。
■ヒロポン
ヒロポンは、疲労と眠気を防ぎ、興奮作用があるとして、強壮剤として使用されていました。
戦中の軍の使用目的は、組織の士気向上と言う名目でした。
当時は、副作用があまり理解されていませんでしたが、後に覚醒剤と呼ばれる薬物で、覚醒剤自体は、他国の軍隊も当たり前の様に使っている時代でした。
ヒロポンは、戦時中に増産された影響で、戦後も備蓄品が多かった為、大量に流通し、依存症患者は一時50万人にまで膨れ上がりました。
普通の薬局で、普通に注射器付きで販売されていたのです。
これを食い止める為、昭和24年(1949)に製造中止勧告があり、昭和26年(1951)覚醒剤取締法が制定され、使用、所持が取締りの対象となりました。
しかし、国内の公な製造は廃止されたものの、その後は外国の闇社会から覚醒剤が密輸され国内に蔓延していきます。
主に北のルートです。
■反革命分子鎮圧運動
昭和26年(1951年)、支那中共は、反革命分子鎮圧運動で、国民71万人を虐殺。
殺戮者、毛沢東は、ある省で「手ぬるい。殺人が十分でない」と批判しました。
その結果、この省で処刑率が上がると、毛は、この改善を見て「大変喜ばしい」と述べました。毛は、公開処刑を好みました。
反体制派がどうやって殺されるのか、その過程を見せる事によって、人々の恐怖心が高まるからです。
恐怖は畏怖となり、政権安定の基盤になりました。土地改革運動と反革命分子鎮圧運動は、ほぼセットで実行されました。この他に、ソ連指導の元、各地に強制労働収容所を設置しました。これを支那では「労改」と呼びます。労働によって反体制の人間を改造するという意味です。
■ サンフランシスコ講和条約発効
昭和27年(1952年)4月28日。
GHQの日本占領終了。
かくして、米英をはじめ、世界の49ヶ国が日本との講和条約締結に賛成しています。
49ヶ国と言うと、随分少ない様に思うかも知れませんが、当時、アフリカ各地は英仏等の植民地のままで、まだ独立していませんでしたので、この49ヶ国というのは「世界の殆ど全ての国」と言って差し支えありません。
日本にとっては、占領が終わって国としての独立を回復する事ですから、これ程有難い事はありません。
それにも関わらず、日本国内には妙な動きがありました。
ソ連とポーランド、チェコが条約に反対している事を利用し、日本が結ぼうとした条約に反対する勢力が現れたのです。
◆単独講和と全面講和◆
49ヶ国との講和条約に「単独講和」と言う名前を付け、ソ連とその衛星国を入れた講和を「全面講和」と呼び、我が国は全面講和を結ぶべきだとゴネたのです。
ソ連、ポーランド、チェコというたった3ヶ国の社会主義国を加えたものを全面講和と呼んだわけですから、まさに言葉遊び、悪意あるレトリックでした。
そんな詭弁を弄したのが当時「進歩的文化人」と呼ばれた左翼系知識人達でした。
時の東大総長、南原繁も全面講和論者でした。
「全面講和を支持せよ」と言うのはスターリンの命令、少なくとも希望と言われてましたから、ソ連の意向に沿った共産党或いは社会党、そして社会主義を正義と思っていたインテリ達、そういう勢力が講和条約を阻止しようとしたのです。
◆ 曲学阿世の徒◆
そこで「全面講和」をふりかざし、我が国の独立回復の邪魔をする東大南原総長に対して「曲学阿世の徒」という言葉を投げつけて批判したのが吉田茂総理でした。
「学問を捻じ曲げて世間におもねる輩」と言う意味です。
「政権の常道」に継ぎ「曲学阿世」と言う言葉が流行語になりました。
平和条約がサンフランシスコで締結される事になった時、吉田総理は各党に調印式への参加を求めました。
が、ついに社会党は参加しませんでした。
社会党及びその賛同者は、日本の独立に反対だったのです。
そして、その系譜が旧民進党、立憲民主党です。
米国が独立戦争を戦った時(1775~83)、「祖国英国と戦争するのは嫌だ」と言った人達がいました。ワシントン軍が勝って独立を果たした時、その人達は大抵米国を追われ、カナダなどに移住しています。
そのひそみに習って言えば、サンフランシスコ講和条約に反対した全面講和論者達は皆支那かシベリアに行ってもらうべきでした。
そうしていたら、その後の日本は非常にすっきりした国になったのではないかと思います。
■自分一人の責任で調印
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約締結及び調印。
吉田茂総理は、サンフランシスコ講和条約を締結すると同時に、個別に米国と日米安全保障条約も締結します。
この時、吉田は安保調印の場には誰も連れて行かず、たった一人で姿を表しています。
講和会議には、都合6人の全権団で出席しましたが、安保条約の方は自分一人で責任を負うつもりだったからです。
吉田スクールの優等生を自認していた池田勇人蔵相は、そんな吉田の水臭さに憤慨し、強引にタクシーに同乗したといいますが、会場までは同行出来ても、ついに調印の場には入れませんでした。
吉田が入れなかったのです。
昭和27年(1952年)4月から、両条約は施行されます。
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乱筆乱文長文を、ここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:vol.3参照