・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
2020年(R2)Big China、Small China(Special Asia)3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。
The XXX Files ・・・20th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
・・・ Beyond The Past . To The Future ❗️
Now Main Stage・・It's・・・Dramatic Politices.
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
We Are Sumer Japanese・・ Sub Title "Back To 近代 Beginning"
(FunnyBomb).
■日韓併合
明治43年(1910)、一進会の強力な後押しと伊藤博文暗殺をキッカケに、大韓帝国は日本と合邦し『大日本帝国』領に変更されます。
以後、朝鮮半島はww2終戦まで日本国内と同じ扱い、通貨は円でしたが朝鮮円の方が若干レートは低かったとも言われます。
社会インフラ投資は、日本本国よりむしろ朝鮮を優先して行われました。
特に戸籍整備や土地の所有権登記、道路整備や学校建設、し尿処理施設、排水路整備、交番、役場、電電公社、産業全般的な基盤整備、識字率の向上等は喫緊の課題であり、急ピッチで推し進められました。
治安、衛生、教育が行き届き、希望する朝鮮人には全く新たな日本戸籍名も与えられました。日系企業の進出も進み、朝鮮人はそれまでの、どの朝鮮史にも類を見ない程の人間らしい生活を営み始めました。
具体例を言うと、併合前の韓国内の小学校数は100校、併合後の小学校数は約4271校になり、併合前の識字率は10%、併合後は最終的に60%、併合前の平均寿命は35歳、併合後は75歳、併合前の人口は約1300万人、併合後が約2500万人、約2倍にと言う具合です。
飛躍的に長寿命となり、爆発的に人口は増加し近代様式の法治国家に変貌したのです。
■第一次世界大戦(ww1)
大正3年(1914)7月28日開戦、大正7年(1918)11月11日終戦。
戦力は、連合国側が約4300万人、同盟国側が約2525万人。
連合国軍の戦死者約553万人、行方不明者約412万人。
同盟国軍の戦死者約439万人、行方不明者約363万人。
世界の31カ国が参戦した人類史上初めての世界大戦。
発端は、明治4年(1871年)に統一独国帝国(※1)が誕生し、独国は、イタリア、オーストリア・ハンガリー帝国(以下、オーストリア)と三国同盟を結びます。
統一独国(以下、独国と表記します)は、バルカン半島、中東まで新たな領土拡張の野望を持っていました。
この三国同盟に反発したのが、英仏露でした。
こちらの三国は、三国協商を結びます。
※1〜統一独国帝国とはライン同盟(ナポレオンが関与して旧・西ローマ(神聖ローマ帝国)の全貴族とフランス帝国が同盟を結び成立した同盟国)、ドイツ連邦(旧・西ローマ領を主とする国々)、北ドイツ連邦(プロイセン王国を主とした周辺領土が統合されて成立した国家連合体。統一独国帝国の母体でもある。)が統合されて出来た国家。
●ww1の原因
第一次世界大戦の引き金となったのが、大正3年(1914)6月28日に起きたセルビアのガヴリロと言う青年テロリストが、サラエボ(ボスニアヘルツェゴビナ)でオーストリアの皇位継承者フランツ大公夫婦を暗殺したサラエボ事件です。
この暗殺に怒ったオーストリアが、暗殺者の母国であるセルビアに最後通牒10ヶ条の要求書を渡した際、セルビアが態度を留保した為、オーストリア側が宣戦布告した事が決定的要因となりました。
同盟国側だったイタリアは、オーストリアが防衛戦争と言う同盟規約を違反し侵略に転じた事を理由に造反し連合国側に着きました。
露国は、連合国側のセルビア救援を理由に参戦。
これに刺激された同盟国側の独国が、(独国から見て)東部戦線で露国、西部戦線で仏国と言う対露仏二正面作戦に基づき、西部戦線では、ベルギーに侵攻し、次いで仏国にも侵攻。
この動きを憂慮し、連合国側の英国が同盟国側の独国に宣戦布告しました。
戦火が拡大する事に伴って、初戦には参加していなかった日米が連合国側に、ブルガリア、オスマン帝国が同盟国側に着いて刃を交えました。
こうして、世界大戦の様相を呈し世界各国は、連合国側が英仏露、イタリア、セルビア、日米、ポルトガル、ギリシャ等。
対する同盟国側が、独国、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア等に二分され大戦争となります。
サラエボ事件が、何故世界大戦の原因となったのでしょうか。
それは、明治11年(1878)、同盟国側オーストリアが、ボスニアヘルツェゴビナを併合し、露国と共闘して汎スラブ主義、ゲルマン主義、セルビア主義が多いバルカン諸国と対立している頃に遡ります。
※バルカン諸国とは〜ボスニアヘルツェゴビナ、アルバニア、ブルガリア、ルーマニア、クロアチア、マケドニア、セルビア、ギリシャ等。
明治15年(1882)、オーストリアは、独国とイタリアとの三国同盟を結び、それに対抗した形で露国が明治40年(1907)、英仏協商に参加して三国協商を結成します。
つまり、オーストリアは、露国に裏切られた事になります。
これによって、ヨーロッパのパワーバランスが二極化。
その様な状況下で、大正3年サラエボ事件が勃発。
連合国セルビアは、バルカン諸国のリーダーでありボスニアヘルツェゴビナの隣接国だった為、同盟国側と敵対し、ボスニアヘルツェゴビナを併合した同盟国側オーストリアは、セルビアに宣戦布告したと言う経緯です。
やがて、三国協商を基盤とした英仏露と三国同盟を基盤としたオーストリア、独国を核として大戦となっていったのです。
仏国は、明治3年(1870)の普仏戦争(仏国vsプロイセン王国(統一独国の宗主国))の遺恨があり、独国への復讐心に燃えていた頃でした。
当時の所謂、バルカン諸国は別名「ヨーロッパの火薬庫」、列強の植民地拡大の野望は、バルカン諸国に忍び寄り、矛先を向けられていたバルカン諸国は、ナショナリズムが高揚し自主独立した国家建設を目指していた時代でした。
●シベリア出兵
日本は、ww1の延長戦とも言える、シベリア戦に、大正7年(1918)8月参戦し、大正11年(1922)10月終結を迎えます。
戦力:連合国軍の内、日本軍・約7万3千人、米軍約8千人弱。
対する露国赤軍60万人。
戦死者:連合国軍約20万人(日本軍・約5千人)。
対する赤軍約40万人。
言えば、シベリア出兵と言うのは、ww1と言う大戦の一部となる戦闘です。
ww1の最中に、ロシア革命が勃発し、同盟国側の統一独国帝国・連合国側の露国との間で講和が成立します。
その最中、連合国軍は味方のチェコスロバキアを助けると言う大義名分を立て、シベリアに出兵しました。
しかし、露国の反革命側のコルチャーク政権(※1)が、崩壊した事を機会に連合国軍は撤退します。
※1:反共主義の反ボリシェビキ政権。コルチャークとは露国の軍人の名前。露国の共産化を認めなかったww1の連合国側が、西側陣営に取り込もうとテコ入れした政権。
●7万人の日本軍がシベリア進軍
大正7年(1918年)、ロシア革命後のボリシェビキ政権(※2)は、独国と講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結んでww1から離脱します。
独国は、兵力を西部に集中させる事ができ、英国、仏国を始め、連合軍諸国は苦戦しました。
そこで、連合国軍はww1に陸軍主力を派遣していない日米に対し、連合国側として参戦する様に打診しますが、これは独国の目を再び東部に向けさせ、同時に露国の共産主義革命勢力を打倒することも想定した内政干渉戦争でもありました。
日本軍は、米軍兵力の7倍に当たる7万の軍隊を送りました。
反発するトロツキー率いる赤軍パルチザン(ゲリラ、又は反体制軍)は、尼港(ニコウ)事件を起こしました。
これにより、日本への圧力が高まり、日本軍は撤退します。
※2:ボリシェビキとは、人の名前でなく、所謂プロレタリア革命を目指した共産主義者の中でもレーニン主義を共有する極左政党の事
※ 参考~プロレタリア革命とは
資本家(富裕層(ブルジョワ階級))の使用人として隷属する労働者(プロレタリアート(低所得層))が、資本家を打倒しようとすると言った意味合いの革命の事。
特に、ボリシェビキ政党がその革命を実現する場合、多くが殺人的暴力、残忍性を手段とした革命に変容します。
ま、日本語訳すると労働者革命と言う事になります。
※尼港事件とは
大正9年(1920)、衰退した白軍(平たく言うと反革命軍で反赤軍(反革命分子)の軍隊)の代わりに、日本軍が占領していたニコラエフスク(尼港)を赤軍パルチザンが占領します。
日本軍は赤軍と交戦となり、在留邦人を含む尼港の住民約6千人が大虐殺されたと言う事件。
連合国軍が撤退した後もシベリアに残っていた日本軍は、批判を受ける。
現在親日国のトルコ(旧・オスマントルコ)は、ww1当時は同盟国側に着いたので敗戦国になりました。
この敗戦をキッカケに、トルコ革命が勃発し、オスマン帝国主義が崩壊、大正12年(1923)10月29日オスマントルコは、新生・トルコ共和国として再出発します。
この時、旧・オスマントルコ領だったアラビア半島や今の中東は、連合国に領有され、その地にシリア、ヨルダン、イスラエル、UAE、サウジアラビア、イラク、レバノン、オマーン等のアラブ諸国が新設されました。
同じく敗戦国である統一独国帝国は、ベルサイユ条約により講和し、賠償として天文学的な賠償金と領土割譲を負わされ、国王・ヴィルヘルム二世は、自国を捨て他国へ亡命し帝国は崩壊、独国帝国は、独国共和国へ変貌し再出発する事になります。
大正3年(1914 )10月、日本軍は、英国の要請により、戦艦1隻、巡洋艦2隻を米国カルフォルニア州沿岸とメキシコにかけて哨戒活動名目で派遣します。
大正6年(1917)1月、執拗に欧州ヨーロッパ戦線への出兵を要請する英国に根負けし、地中海等にも日本艦隊派遣を決定します。
ただし、海軍のみで日本陸軍は派遣していません。
任務は、他国との戦闘ではなく、連合国の輸送船を同盟国側の独国、オーストリア軍の潜水艦からの攻撃から守る通商保護と言う名目でした。
実は、前年の大正5年(1916)の下半期だけで256隻もの連合国側の船が、同盟国軍の潜水艦攻撃による餌食となっており、日に日にその被害数は増加する一方でした。
こう言うエピソードがあります。
大正6年(1917) 5月、日本海軍は、英国船籍トランシルバニア号の護衛任務で、マルセイユを出航しました。
トランシルバニア号は、運悪くイタリア沖で、同盟国軍の敵潜水艦の魚雷攻撃を受けました。
被弾した英国輸送船から、日本海軍の駆逐艦に英国人は次々と避難します。
トランシルバニア号の船員を救助していた日本の駆逐艦にも魚雷が撃たれます。
魚雷は、日本の駆逐艦甲板に命中し爆発します。
壮絶な救助活動の末、1800人以上の乗員を救助し、敵潜水艦に迎撃を与えます。
この時の救助活動は、最終的に約3000人もの人員を救助しました。
・・・乱筆乱文長文を、ここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
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出典:満州国の遺産(黄文雄著)、日本の戦争解剖図鑑(拳骨拓史著) 真実の満洲史 (宮脇淳子著) 支那・韓国が死んでも隠したい❗️本当は正しかった日本の戦争(黄文雄著)、通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか(藤岡信勝・三浦小太郎著)、ノモンハンの夏(半藤一利著)、Wikipedia、韓民族こそ歴史の加害者である(石平著) 天才戦略家としての肖像・石原莞爾(佐治芳彦著)、かくて昭和史は甦る(渡部昇一著)、国破れてマッカーサー(西鋭夫著)、日本が戦ってくれて感謝しています2(井上和彦著)