空前絶後・豊臣政権13 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

The XXX Files ・・・20th .

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真実と闘え・・・

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   Sub Title "Back To 戦国 Beginning"

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家康の権謀術数にはまる豊臣家

   大坂城内で、自分を裏切り者呼ばわりして「片桐を討て」と激昂する豊臣家中の声に、片桐旦元は、身の危険を感じて、摂津の居城に戻り戦準備を始めると共に籠城しました。

   しかし、家康は、虎視眈々とその時を待っていたのです。そして、こう言います。

   豊臣が軍の挙兵準備を進めている」「挙兵を企てている豊臣秀頼を討伐しなければならない」と。

   片桐は、これをきっかけに豊臣勢を離反し、徳川勢に寝返ります。

   分かるでしょうか?。家康は、謀略によって、"豊臣方が自らの判断で挙兵する様に仕向けた" のです。

 

   しかし、大坂の豊臣勢を討つ理由としては、どれもこれもこじつけの論理でしかありませんでした。

   家康も、それは認識していましたが、自分の目が黒いうちに豊臣勢を討つチャンスは、これを置いてもう巡ってこないと言う一種の強迫観念に囚われていました。

   家康は、全国の諸大名に挙兵の準備をする様に書状を発します。

   一方の秀頼、淀殿の豊臣勢も「最早、開戦は不可避」と判断して本格的に戦支度を始めました。

 

真田幸村・再起

   関ヶ原の敗戦により、西軍の将、真田幸村は紀伊国(現・和歌山県、三重県南部)に追放され、長い蟄居(チッキョ)生活を強いられてきました。

(蟄居〜幕府・領主等権威ある者から命じられた謹慎の事)

   豊臣勢が、徳川勢に兵力で劣っていたのは、徳川の世となった今、豊臣恩顧の諸大名が、徳川勢に寝返った為でした。

  豊臣家に仕えたくても、徳川方から"逆心あり" と烙印を押されれば、どんな処分を受けるか分かりません。

   豊臣勢首脳陣は、兵力の差を補う為、全国の牢人(ロウニン)武士を大量に雇う事を思いつきます。

(※牢人(浪人)とは、武家に出仕した侍が、失業する事です。牢人と浪人は、ほぼ同義語です。)

 

   淀殿等豊臣勢首脳陣は、全国の豊臣恩顧の武将、牢人になりふり構わず、参集を呼び掛ける書状を送ります。

   慶長19年(161410、紀伊に左遷させられていた、真田幸村の元にも、秀頼からの書状が届きます。

   真田幸村(信繁)48歳。追放され、無収入にして父とも死別し、無意味に安穏と暮らしてきた15年の牢人蟄居(チッキョ)生活。

   戦の勘も体力も、長い蟄居生活で年々衰えを見せ始め、貧しく、毎日が無為な困窮生活の繰り返しでした。

   そこに舞い込んだ豊臣秀頼からの勧誘の文。

   秀頼の書状には、「参戦してくれれば、当座資金として、金300枚、銀30貫を贈ろう」とありました。

   この褒美は、現代の貨幣価値にして56億円だったと言います。

   この秀頼からの勧誘の書状に、強く感動し胸を打たれた幸村は、豊臣勢への忠誠を誓います。

   幸村は、これが長い牢人生活で無意味となった自分の人生を再生させるLast Chance(ラストチャンス)だと考え、再び豊臣勢の待つ大坂城に向かう決意をします。

   大坂城には10万人(諸説あり)近い豊臣恩顧の諸将や牢人武士達が集結し始めます。

   その中には、毛利勝永、長宗我部盛親(長宗我部元親の子)、福島正守、大野治房、速水守久等もいます。

 

   一方、家康は江戸から呼び寄せた近江出身の藤堂高虎を豊臣討伐軍の先鋒に指名し、大和及び東海道の諸大名の兵力を率いて、京都へ進軍します。息子の秀忠も遅れて出陣し、徳川勢は1110、京都で合流します。

   1115、徳川勢は大坂に向かって進軍を開始します。

 

大坂冬陣・開戦

   慶長191614)年11月中旬、徳川勢は全国の諸大名を取り込み20万人の大軍勢で大坂城を包囲しました。

 

﹅大坂冬の陣、鴫野・今福の激戦

   慶長191614)年1126、冬の陣最大の激戦となる鴫野(シギノ)、今福の戦闘が始まります。

   今福(現・大阪市城東区。大和川北岸)に、徳川勢の佐竹義宣軍が突撃します。

   鴫野(現・大阪市城東区。大和川南岸)に、上杉景勝軍が徳川勢として突撃。

   大坂城にいた後藤又兵衛(基次)は、大野治長軍、木村重成軍に出撃命令を出します。

   後藤又兵衛も、自軍を率いて今福の佐竹義宣軍に攻撃を開始します。

   大坂城内の城兵も次々と今福、鴫野へなだれ込んで交戦を開始しました。

   豊臣勢、徳川勢の激しい銃撃戦の応酬が始まります。

   豊臣方・木村重成軍は、戦果を上げ80余人の打ち首をとり、大坂城の桜馬場に並べました。

   桜馬場には、最終的に180余人の打ち首が晒され、城内の千畳敷で、秀頼から戦功を上げた武将に金銀の褒美が下賜されました。

   この戦場は、淀川と大和川が合流し、大坂湾へと続く要衝の地で、徳川勢は大坂湾の物流拠点を押さえるのが狙いでした。

   木村重成(豊臣方)は、当時、23歳の若武者で、まだ軍法にも慣れていませんでしたが、自ら一番槍を買って出て進撃した為、自軍の後続兵を鼓舞する結果に繋がり、敵味方が入り乱れる激戦にも関わらず、佐竹義宣軍の兵、数十人を討ち死させ、佐竹軍を壊滅させました。

   豊臣方にも死傷者は出ましたが、徳川勢の比ではありませんでした。

   鴫野、今福の合戦は、豊臣勢の優勢で幕を下ろします。

 

﹅大坂冬陣・木津川口の砦

   かつての石山合戦において、大坂城西側にある毛利方・村上水軍と織田方・九鬼水軍の激戦地でもあった木津川の河口の砦で、交戦が始まります。

   1119、徳川勢から阿波の蜂須賀至鎮軍(ハチスカヨシシゲ)(蜂須賀小六の孫)、浅野長晟軍(ナガアキラ)、池田忠雄軍(タダカツ)等が午前3に砦を急襲。北風が強かった日で、砦に火を放つと、砦はたちまち業火に包まれ落城しました。

   徳川勢は、大坂城と大坂湾を結ぶ水上補給路を断ち、物流を封鎖しようとしたのです。

   豊臣勢は、海上路が断たれ籠城戦以外にとる選択肢が残されていませんでした。

 

大坂冬陣・真田丸激戦

   真田丸は、大坂城東南端の城門出口に真田幸村が設けた砦です。

   前田利常軍(前田利家の子で加賀藩・前田の3代目で第2代の加賀藩主)、井伊直孝軍、松平忠直軍(家康の孫)、藤堂高虎軍、伊達政宗軍が真田丸に攻撃を仕掛けます。

   122、家康は前田に弱腰の攻撃を戒め、同時に「仕寄せをつけろ」と指令を出します。

   "仕寄せ" とは、戦時の際、城攻めの拠点を作る為、竹柵を並べ敵の矢・鉄砲の弾の盾としたり、塹壕を掘ったり、土塁を積むなどの一連の工事の事を指します。

   将軍秀忠は、前田に自軍を前進させるよう命じます。

   前田軍は、真田丸に向かって前進していきます。

   真田勢は、及び腰の徳川勢を嘲笑し挑発します。挑発戦は、幸村の十八番でした。

   挑発に乗せられた本多軍、前田軍が向かってくるのを見計らい、真田丸から照準を合わせ銃撃の一斉掃射が浴びせられます。

   前田軍、本多軍は、銃弾の雨に晒され、いたずらに死傷者を増やして行きます。

   真田丸の激戦の報を聞いた井伊直政軍(徳川四天王の一人。井伊直弼は直政の子孫)、松平忠直軍(家康の孫)も駆けつけます。

   しかし、真田丸からの総攻撃を受け、同じく進軍を阻まれます。

   明らかに真田軍が優勢でした。

   井伊直政軍、松平忠直軍は揃って退却を余儀なくされます。

   真田丸から、真田幸昌(幸村の嫡男)隊、伊木(半七)遠雄隊(イキハンシチ・トオカツ。秀吉の近習)が、前田軍の従えている松倉重政隊(筒井順慶の家臣で関ヶ原では東軍に参戦)、寺沢広高隊(尾張出身で秀吉時代に豊臣方に出仕し、以後徳川に仕える)の軍勢に切り込みます。

   徳川勢の陣形は崩れ、隊列は乱れました。

   その間隙を縫って、豊臣秀頼の手勢、豊臣方諸隊が、弓矢と銃弾の一斉掃射を繰り出します。

   徳川勢は、なおも戦死者が続出しました。

   徳川勢諸軍は、大坂城の真田丸眼前の深さ数メートルもある空堀に位置し、砦から丸見えの為、うかつに前進も後退も出来ずに進退極まります。

   夕暮れ時に入り、豊臣勢の銃弾・矢も底を尽き、真田丸も交戦の手を休めました。

   その機に乗じて、井伊直孝軍が撤退を始め、続いて諸将の軍もそれに続きます。

   真田丸の豊臣勢は、この攻防で徳川勢の凡そ1万人の兵に死傷者を出し、過小に見積っても、徳川勢は数千人が討ち死しました。

   松平忠直軍は凡そ480人、前田軍は凡そ300人、井伊軍が約126人討ち死しています。

   これ以外に、足軽兵、雑兵の死者がいますが記録にはありません。

   125、徳川勢、藤堂高虎軍の先鋒隊が、大坂城惣構え南側の中央門の城壁をよじ登り、大坂城々内に潜入しようとしました。

   が、城内から長宗我部盛親軍(元親の子)、山川賢信隊(元は奥羽の伊達家家臣)が迎え撃ち、城郭の内外でつばぜり合いとなり、藤堂隊は蹴散らされます。

   結局、大阪冬の陣は、藤堂隊の御大将、藤堂高虎が徳川勢本陣から駆けつけ、撤退の下知を告げて、幕を閉じます。

 

■大坂陣和睦交渉

   家康は、元より難攻不落、かつ天下無双の大坂城に対して、簡単に制圧出来るとは思っていませんでした。

   又、大坂冬の陣は、20万人の徳川勢を投入した大戦でしたが、それ程の大軍勢を持ってしても、ビクともしない大要塞である事を改めて痛感させられました。

 

﹅大坂城砲撃

   しかし、家康には、大坂城を落とす名案が浮かんでいました。

   関ヶ原で、遺憾無く威力を発揮した飛び道具"大砲射撃(石火矢)" の存在です。

   家康は、大阪夏の陣の支度に際して、日の本では未だ定着していなかったオランダ製の大砲を輸入し始めます。

   皮肉にも、関ヶ原では、西軍の将、石田三成軍が、大砲射撃を駆使していました。

   又、大砲を実践に装備すると言う概念は、あの朝鮮征伐の教訓でもありました。

   当時の大砲と言うのは、現代のミサイルやバズーカとは違い、着弾した弾頭が爆発する事はなく、単なる鉛玉が建造物を壊したり、人を押し潰したりする程度のものでしたが、朝鮮征伐や、関ヶ原では、その威力が一定の戦果を挙げた事実を、家康は目の当たりにしていました。

 

   家康は、大坂城の天守閣めがけて大砲射撃を連日敢行します。

   砲弾は、天守閣の柱、屋根を打ち抜き天守は傾いたそうです。

   淀殿の居間も打ち抜き、侍女が死に城内は騒然となります。

   大坂冬の陣は、豊臣勢の勝利で幕を降ろしましたが、しかし、豊臣勢は、和睦の準備に入ります。

 

﹅圧力と説得による和睦交渉

   籠城戦では、辛うじて勝利を収めた豊臣勢でしたが、兵力では圧倒的差があり、天下の情勢は徳川勢が握りつつあった事を自覚していたのです。

   又、連日の砲撃の恐怖も手伝いました。

   徳川勢にも和睦の機運が高まり、慶長19年(16141218日、19日の2日間に、徳川方の大津城主・京極忠高の陣を会場に、豊臣勢から淀殿の妹、初(出家し尼となる)、徳川勢からは本多正純と阿茶の局(家康の側室)が出席して行われました。

   因みに、京極は関ヶ原開戦時、西軍から造反して東軍に寝返っていました。

   初は、京極の母親でした。

   加えて、あの浅井三姉妹のお江与は、将軍・徳川秀忠の正室です。

   家康は、様々な豊臣方にゆかりのある者を徳川勢の味方に付けていました。

   つまり、淀殿を、初やお江与、阿茶の局等女同士の説得によって和議を結ぼうとしたのです。

 

To Be Continue

 

出典:完全制覇  関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた  Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争  小和田哲男著

 

 乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)