空前絶後・豊臣政権14 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2020年(R2)Big ChinaSmall ChinaSpecialAsia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。

   The XXX Files ・・・20th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

 

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Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "Truth of Truth"

FunnyBomb.


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大坂冬・和睦協定

   大坂冬の陣による、徳川勢、豊臣勢の和睦は、家康の主導により交渉に漕ぎ着けます。

   和睦の条件は、凡そ次の様なものです。

❶大坂城内に籠城している城兵を処罰しない、❷秀頼の知行(所領の支配権)は、これ迄と同じにする、❸淀殿を人質とする事はない、❹大坂城を明け渡すのであれば、どの国でも国替えをしても良い、❺秀頼に対し、いささかも不信な事はしない、❻大坂城の主要な堀を埋める事、❼秀頼は大坂城から退去する事。

   これ以外に、大坂城の本丸のみを残し、二の丸、三の丸を豊臣勢自ら破却する工事を進める事と言うのが条件でした。

 

大坂城無力化作戦

   この二の丸、三の丸破却工事は、流石に豊臣勢としても抵抗があったのでしょう。

   豊臣方自らは行われませんでした。

   その為、徳川方の主導で二の丸、三の丸破却は行われました。

   慶長20年(16152、大坂城の外堀、内堀埋め立て工事は竣工し、二の丸、三の丸は破却され、大坂城は本丸のみの丸裸となります。

   和睦は、徳川勢がイニシアチブを握っていました。

   大坂城を攻め切れなかった家康は、まず一息ついて味方陣営の動揺を沈めようとする思惑がありました。

   その上で、仕切り直しを行い再戦の大義名分を打ち立て、天下を統一する事を企てていたのです。

   対する豊臣勢は、再戦を避けたいと言う想いでした。

   しかし、もしもの再戦の時の為、兵糧米の確保、兵力増強、弓、馬、火薬の調達等を密かに行っていました。

   一方で、和睦条件の緩和を家康に求めてもいました。再戦となれば、真田幸村も危惧する様に、丸裸となった大坂城では最早籠城戦も叶わず、豊臣方の滅亡に繋がる可能性が高い為です。

 

   伊達政宗は、豊臣勢に再度の和睦案を提示します。

   ❶すぐに秀頼は、大坂城を明け渡し大和或いは伊勢に移る事、❷大坂城の牢人を一人残らず解雇する事。

   その上で、次の様に家康に進言します。   

   豊臣方は、和睦条件の緩和を申し入れる一方で、裏で軍備増強しているから、徳川勢は再度挙兵すべきである」と。

 

   対する秀頼は、徳川勢のこうした条件に一切耳を貸さず、軍備増強を行うと共に再戦も辞さない覚悟でした。

   こうした秀頼の態度は、逆に家康にとっては願ったりかなったりでした。

   この頃、真田幸村は、徳川方から、何度か領国拝領の保証と引換えに豊臣勢から寝返るよう口説かれましたが、主君・豊臣秀頼への忠誠を心に誓った幸村は、徹頭徹尾全て断ったと言われます。

 

豊臣秀頼、再戦を決意

   慶長20年(161544、秀頼は軍議を開きます。

   本丸のみとなり、丸裸の大坂城で籠城戦には勝機はなく、今は豊臣勢の存続を第一にと言うのが、淀殿の考えでした。

   秀頼は、籠城戦の可能性を捨て、城外での野戦を主戦場とする方針を立てると、現地を見分する為、自軍を伴って合戦場を視察します。

   後藤基次隊、木村重成隊が先頭に兜と軍旗を立てて行列を引き連れ、秀頼本軍が馬印を高く掲げて続き、後方に長宗我部盛親軍、真田幸村軍が続き、シンガリを大野治房(ハルフサ)隊が続くと言う隊列でした。

 

   家康は、418、京都の二条城に入城、将軍秀忠が421、伏見城(京都)に入ります。

   家康勢の諸将も続々と京都へ参集します。

   422、家康は諸将と共に軍議を開き、開戦やむなしとして、部隊の配置と各軍の兵力配分や総大将等を決め、総勢155千人の大軍勢で進軍を開始します。

 

大坂夏・開戦

﹅樫井の合戦

   慶長20年(16154、満を持して大坂夏の陣の幕が上がります。

   その前哨戦が、和泉・樫井(現・泉佐野市南樫井)です。

   紀州の浅野長晟(ナガアキラ)は、冬の陣の後、家康の娘と結婚し、豊臣勢を離反し徳川方の大名となっていました。

   豊臣勢は、浅野の離反を恨みました。

   主戦場となる大坂城南方の領地の多くが浅野の領地であり、兵力も群を抜いていたからです。  

   浅野の領地は、大坂城に面していました。

   豊臣勢は、徳川に寝返った浅野軍が出陣後、一揆を起こさせ後方を撹乱した機に乗じて和歌山城を城攻めにする作戦を実行します。

   428、大野治房軍が大坂城から約3千人の軍勢で出撃します。

   大野軍は、徳川勢と全面協力体制を引いている堺に入り、町を焼き払います。

   堺は商人の町で、戦に必要な武器、武具や兵糧米の供給地でしたが、販路を全て徳川勢が独占していたからです。

   一方で、浅野軍(徳川勢)は樫井に陣を置きます。

   豊臣勢の岡部則綱(ノリツナ)軍、塙直之(バンナオユキ)隊、淡輪重政(タンノワシゲマサ)隊が樫井で浅野軍を迎え撃ちます。

   激戦の末、豊臣勢の塙直之、淡輪重政討ち死。

   岡部は手傷を負い、撤退します。

   この戦闘は、大将・大野治房の許可なく行われた為、先鋒となった軍が壊滅の報を聞いた大野は、すぐ様援軍を送りましたが、樫井には既に浅野軍の姿はなく、大野軍は反撃できずに大坂へ撤退します。

   430、豊臣勢は作戦会議を開いて戦略を立て直します。

 

大坂夏・誉田の合戦

   55、真田軍が誉田(ホンダ)(現・大阪府羽曳野市(ハビキノ)誉田)に進軍し、伊達政宗軍と激突します。

   真田軍は、応神天皇陵(誉田陵)で伊達軍と鉄砲の射撃戦を展開します。

   激しい射撃戦の応酬となりました。

   両軍は混戦し入り乱れ、戦は膠着状態に陥ります。

   豊臣勢の前線に退却命令が下ります。

   若江(ワカエ)(現・東大阪)、八尾(ヤオ)(現・大阪府八尾市)が、徳川勢に落ちた為、豊臣本陣が真田軍諸隊を危惧した事による退却命令でした。

   伊達政宗軍にとっては、豊臣勢を壊滅させる、またとない好機でした。

   敗走する軍勢は、背中を見せる為、追撃する事が容易になるからです。

   しかし、何故か伊達は戦闘による疲労を理由に、徳川本陣の追撃命令を拒否します。

   真田幸村軍及び豊臣勢諸隊は、難なく前線から退却します。

 

大阪夏陣・最終決戦

﹅無双の毛利勝永軍・天王寺口の激戦

   慶長20年(161557、大坂城南方で両軍は合間見えます。

   天王寺中心に本陣を構えた豊臣勢約5万人、対する徳川勢は、15万人の兵力です。

   家康は、天王寺口に誉田忠朝軍、岡山口に前田利常軍を配備。

   一方、豊臣勢は、決戦と言うよりは防衛戦の体でした。

   豊臣勢は、天王寺口に真田幸村軍、毛利勝永軍(旧氏は森であり中国の覇者、毛利家の血族ではない)、大野治長(ハルナガ)軍を、岡山口に大野治房軍を配備しました。

   合戦は、朝に布陣を完了していました。

   しかし、昼になっても交戦は始まりません。

   家康は、決戦よりも豊臣勢自らが和睦を進め、大坂城を開城する事を望んでいたのです。

   炎天下の中、出撃命令を待っていた両軍は痺れを切らし、その内、誉田忠朝軍が毛利勝永軍に威嚇射撃をします。

   この銃声を合図に、遂に射撃戦の嵐が吹き荒れます。

   本多は、自軍に突撃命令を出しました。

   毛利勝永軍も一斉掃射を展開します。

   本多軍に数十人の死者が出て、徳川勢が動揺します。

   この機に、毛利軍が本多軍の懐に飛び込み追撃し、本多軍は壊滅の危機を呈します。

   大将の本多忠朝は、孤軍奮闘しますが銃弾を浴び、落馬した隙を突かれて首をはねられ、討死。

   毛利軍の右部隊が、徳川勢の秋田実季隊、浅野長重隊を撃破し、左部隊は豊臣軍本隊と共に、真田兄弟の軍に猛攻撃をかけます。

   浅井三姉妹がそうだった様に、真田家も豊臣方・徳川方に家を二分し、真田幸村の兄弟は、徳川勢に従軍していたのです。

   毛利軍は、徳川勢の真田軍を撃破し、真田軍は敗走します。

   毛利軍の御大将、毛利勝永は波に乗っていました。

   小笠原秀政隊、竹田長翁隊も蹴散らします。小笠原秀政は、重傷を負って撤退し、その日の夜、帰らぬ人となります。

   秀政の長男、小笠原忠脩(タダナガ)は討ち死。小笠原秀政隊は壊滅します。

   天王寺口、東方面では徳川勢が劣勢に追い込まれます。

   毛利軍は、壊滅した徳川諸隊が敗走し、徳川勢の後続軍になだれ込むと、徳川軍内部が混乱を引き起こしている最中に、その中に突入し、更に切り込んで撃滅させると、新たな徳川勢諸隊が、また後続隊に逃げ込み、徳川勢の足並みを迷走させると言う攻撃のサイクルを巻き起こしていました。

   その波に乗って、更に徳川勢、榊原康勝軍、仙石忠政軍、諏訪忠恒隊にも突撃します。

   毛利勝永軍の猛攻に、これらの徳川勢も敗走します。

   そして、毛利軍はいよいよ四天王寺の家康本陣までたどり着きます。

 

To Be Continue

 

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:完全制覇  関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた  Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争  小和田哲男著