・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Sub Title "Back To 戦国 Beginning"
(FunnyBomb).
■関ヶ原終戦・和睦協定と斬首
三成は、居城の佐和山城が東軍に包囲されていた為、自分の城には戻りませんでした。
落ち武者狩りの恐怖にさいなまれながら、近江の領内に身を隠します。
ほどなく、佐和山城は落城し、城内にいた三成の親兄弟、家臣等一族は全員自害します。
9月21日、三成は田中吉政の手勢によって確保され、翌9月22日、大津城に移送された後、小西行長、安国寺恵瓊と共に大阪へ護送されます。
三成は、縄で後ろ手に拘束され、自ら切腹すら叶いませんでした。
公衆の面前で、市中引き回しの刑を受けます。
一方、関ヶ原の主導権を握った東軍にとっては、その圧倒的兵力をもってすれば、通常は、大坂城を包囲して、輝元、秀頼諸共焼討ちにする方が手っ取り早い戦法でしたが、秀吉が築城した天下一難攻不落の巨城では、ビクともしないので、平和裡に毛利軍を大坂城から撤退させなくては、秀頼の身にも危険が及ぶ可能性は否定できませんでした。
一方の輝元は、戦況の主導権を握った東軍に決戦を仕掛ける意志はありませんでした。
そこで輝元は、吉川広家を使って家康との和睦交渉に前向きな態度で接します。
石田三成、宇喜多秀家の処分に難航しますが、彼等は、結局、領地没収と高野山追放と言うところで交渉に合意しました。
しかし、そんな合意は口先だけのデタラメだと言う事に、輝元は後に思い知らされます。
毛利軍は、所領安堵と言う好条件を手に入れ、大坂城から撤退し領国へ帰還します。
慶長5年(1600)9月27日、毛利輝元と入れ替わりに家康が大坂城に入城します。
関ヶ原の合戦の勝者は、東軍の家康と内外に伝わります。
しかし、毛利輝元は、西軍の総大将になった責任を問われ、所領9カ国のうち7カ国を召し上げられました。
家康は、所領を安堵すると言う約定を踏み倒したのです。
約束を踏みにじられた輝元ですが、大坂城と秀頼を握っている家康に楯突くことも出来ず、事態に甘んじるしかありませんでした。
何故なら、輝元には「もし、決戦で西軍が勝ったら、大坂城から秀頼を擁して出陣し、戦果を拡大して、戦後の発言力を強化する。
もし、負けたとしても佐和山城まで退却は出来るだろうから、その時は情勢に応じて出陣し、態勢を挽回する事によって漁父の利を得る」と言う下心がなかったとまでは否定できず、少なからず引責があったからです。
そして、慶長5年(1600)10月1日、三成、小西、恵瓊は京都の六条河原に移送され斬首の刑に処されます。
三成、小西、恵瓊等を処刑する事によって、10月上旬に正式な和睦が成立し、関ヶ原の合戦は終結します。
家康方東軍が勝利し、三成、小西、恵瓊が処刑されると、西軍の猛将、真田幸村、昌幸親子は紀伊国に追放され、長い浪人生活を強いられると共に、真田幸村の居城・上田城は、慶長6年(1601)、家康の命によって破却されます。
そして家康は、関ヶ原の戦後処理として豊臣家の石高を召し上げ、豊臣家の所領は3分の1にまで激減しました。
■源朝臣(徳川)家康と江戸幕府
家康の姓は、この頃、豊臣です。氏名は徳川家康でしたが、公的な姓名は豊臣家康でした。
又、由緒ある源平藤橘と言う"姓" は、この時、源平藤橘・豊臣と言う状態でした。
慶長8年(1603)2月18日、家康は、関ヶ原で勝利を納めた節目に、家系図の書き換えにも成功し、満を持して源朝臣(ミナモトノアソン)、あの源氏長者(ゲンジチョウジャ)の地位を手に入れます。
豊臣摂関家のままでは、征夷大将軍に任官されません。関白職が幕府を開いた例はないからです。
源朝臣となった家康は、朝廷から征夷大将軍の職を宣下(センゲ)され、同年、武蔵国(ムサシノクニ)、現・東京に江戸幕府を開幕します。
正に、秀吉、信長も利用していた正統性の創造として、源平藤橘の最高位・源氏長者の官位を下賜されたのです。
家康は、同時にあの"吾妻鏡" の愛読者でもあり、鎌倉幕府の政治体制や源氏、北条執権政治に熟知していました。
故に、北条氏が名目上の形骸化した将軍を執権の地位から操り、政治の実権を握ると言う執権政治の手法を我が身に当てはめ、名目上の豊臣政権の責任者・秀頼を傀儡と化すと同時に、自分が執権と同じ様にその実権を握ると言う構想を、以前から何度もシミュレーションしていたのではないかと言う分析もあります。
しかし、江戸幕府を開幕しただけでは、政権交代は実現しませんでした。
旧体制を潰して、かつ自分が正統な次代の覇者だと世に知らしめる作業が必要だったのです。
その作業を具体化したものが、大坂冬の陣・夏の陣と淀殿・秀頼親子の抹殺だったと言えます。
因みに、江戸城は戦国時代に築城された城で、家康が江戸に国替えされた時は既に存在しており、家康が改造を加え、大坂城の上を行く巨城、つまり日本で一番大きい城となったのです。
なお、天皇陛下の御所(皇居)が京都から江戸城に移転したのは、明治維新後です。
■関ヶ原終結後の二重公儀体制
関ヶ原の終結後、日の本の政治体制は、二重公儀体制となりました。
豊臣政権と徳川幕府が共存共栄していくと言う体制です。
しかし、実態は江戸の徳川が主導的立場となり大坂の豊臣家を呑み込んでいく形になっていきます。
家康は、あながち秀吉の遺言を全く無視している訳ではありませんでした。
慶長8年(1603)7月28日、自身の孫であり、第2代将軍・秀忠の娘でもある、千姫と秀頼の婚儀を執り行い、徳川家と豊臣家が血縁関係を濃くする事にも賛成していました。
ところで、千姫は母がお江与です。
秀頼の母は、淀殿。二人は元より浅井三姉妹を共通の母に持つ従兄弟でした。
又、家康は、自身が将軍に昇進した折、秀頼の身分を大納言から内大臣、内大臣から右大臣に昇格させる配慮をしています。
つまり、関ヶ原の合戦後、徳川と豊臣の関係は、むしろ良好だったのです。
秀頼は、今や右大臣で、かつ豊臣摂関家の嫡流です。
慶長10年(1605)5月1日、家康の息子、秀忠が内大臣に昇格し、源秀忠として第2代征夷大将軍に就任します。
しかし、それでも官位は秀頼の方が上です。
放っておけば、次期に関白職を受け継ぐ事は目に見えていました。
そうなれば、徳川幕府の脅威となり、豊臣一強の関白政治が再始動してしまう可能性も大いにありました。
家康は、ダブルスタンダードとも言える二重公儀体制には、やはり無理がある事を悟ります。
豊臣政権と徳川幕府が並存する、いわば二重政府(二重公儀)と言う状態は、室町時代直前の南北朝時代などの史実を観ても成功しないと言う事が分からなかったのです。
と言うよりも、旧体制は潰さざるを得ないと言う事を悟ったのでした。
■鐘銘事件
慶長12年(1607)、この頃から淀殿は、秀頼の名義で、長年の戦乱の影響で損傷していた全国の寺社仏閣を修理改築していました。
その数、90箇所余り。
そう言う施策は、民衆の支持を獲得する事は出来たでしょうが、手間賃や工事費がかかります。
この寺社修理改築の一環で、豊臣家が総力を上げて京都東山に建立した天台宗の寺、方広寺(ホウコウジ)の大仏復興、大仏殿の大規模な修復も敢行されます。
しかし、この修復工事には莫大な工事費がかかった為、淀殿は秀吉が残した遺産を、全て使い果たしてしまいます(出典:当代記)。
淀殿は金勘定が出来なかった様です。
慶長17年(1612)大仏の再建は成功し、慶長19年(1614)には大仏殿再建も終了します。
そして、大仏殿竣工式と太閤の法要を壮大に執り行う段取りが始まった矢先です。
発端は、天台宗の寺、方広寺(ホウコウジ)の巨大な釣り鐘に刻まれた名文の中の一文だと言います。
その釣り鐘に刻まれた名文は、方広寺建立の由来を書いたもので、その中にこうありました。
「国家安康」「君臣豊楽」。
これを、家康側が前者は家康の名前を使って、その文字を分断している、後者は豊臣の文字があるが、豊臣を君として楽しむと読めると言い出すのです。
これを「鐘銘(ショウメイ)事件」と言います。
■巧妙な謀略と豊臣勢再軍備
この事件は、一見すると家康の難癖の様に聞こえますが、この釣り鐘を造った豊臣方の明らかな落ち度でした。
豊臣に対しては、慶祝の言葉で結んでいるのに、家康に対しては、名前を分断し呪詛を想起する言葉に映るからです。
慶長19年(1614)8月13日、豊臣家は、弁明の使者として近江出身で、賤ヶ岳の七本槍の一人だった、片桐旦元を、家康の駿府城(別名・府中城)へ向かわせます。
家康は、直に謁見しようとせず、片桐の宿舎に本多正純などの使者を遣わせ、尋問を始めます。
片桐は、今回の事件の解決策として、家康、秀忠に対し、起請文を出すべきか尋ねました。
しかし、それに対する回答は「そんな事で済まされる問題ではない」と言うものでした。
家康は、最後まで「片桐自身に考えさせよ」と不機嫌に言い放つばかりで、明確な条件を提示しませんでした。
片桐は、ついに問題解決の糸口を掴めないまま大坂に戻ります。
帰路の途中、片桐の頭の中では、三案が浮かんでいました。
❶秀頼が大坂城を明け渡して大和辺りの別の城に移る、❷淀殿を人質として江戸城に送る、❸秀頼が家康の元に参勤して江戸に滞在する、と言うものです。
家康は、片桐がその三案に着地するだろうと既に読んでいました。
その上で、明確な条件を提示しなかったのです。
しかし、家康は巧妙でした。
家康の元に訪問していた大坂の使者は、別にもいました。
淀殿の乳母・大蔵卿局と正栄尼の二人です。
その二人に家康は、「今回の件に関しては、豊臣家に対して逆心はないので、安心される様淀殿にも伝えてほしい」と言い、丁重にもてなしたのです。
淀殿には、大蔵卿局と片桐の二人から報告があります。
一方は、家康直々に安心する様にと甘言を申されたとの報告で、又一方は、厳しい強硬策を打ち明けられます。
しかも、片桐は家康と直に会見した訳ではなく、解決案はどれもこれも片桐が私的に考えた策ばかりです。
報を受ける淀殿にとっては、片桐の態度は徳川に阿り(オモネリ)、豊臣家を売り渡す様に映りました。
大坂城内は、片桐の三条件に憤激し、片桐を裏切り者呼ばわりして「片桐を討て」と激昂する声が高まってきました。
出典:完全制覇 関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争 小和田哲男著
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)