空前絶後・豊臣政権5 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "The Deep Impact"

Sumer-Japanese suite Lounge

 FunnyBomb.

 

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   賤ヶ岳の合戦の続きです・・・

 

■前田軍の方針が勝敗を決した?


   岐阜城から、電光石火の速さで美濃大返しを行った秀吉軍は、佐久間盛政軍を蹴散らします。

   この時、秀吉の調略なのでしょう、秀吉の盟友でもあった織田派の前田利家軍は、茂山から後退、それを見た佐久間軍は動揺し戦意喪失、織田派同盟軍は総崩れとなります。

   織田派の全軍は越前に向かって敗走しました。

   秀吉連合軍は、撤退した柴田軍を北ノ庄城まで追撃に向かいます。

   424、秀吉は前田利家軍も味方に引き入れ、北ノ庄城の城攻めを開始、焼き討ちにします。

 

   破竹の勢いで、日輪の如く連戦連勝を続ける秀吉軍には、前田利家もなす術がなく、柴田率いる織田派を造反する形となりましたが、前田は男気と忠義心が強く、大恩ある信長公の御霊に対して背徳行為などする筈がありませんでした。

   妻子や前田家一族郎党を守る為には仕方のない苦渋の選択だったのです。

   以後、前田は豊臣政権の重臣、五大老となり、所領は親子併せて100万石を数える大々名へと出世していきます。

   又、後に前田と同じく豊臣政権の筆頭五大老となり、最有力者である家康に拮抗する軍事力、経済力を持つ前田は、豊臣政権発足時から最後まで秀吉にとって家康を牽制する為の最大の抑止力、最後の切り札です。

   余談ですが、前田は天文71225日生まれ(諸説あり)。秀吉は、竹馬の友、盟友である前田には、一つ年上だと言って接していたと言う逸話もありますが、実は同じ年齢だったのではないかと言う分析もあります。

   有名な加賀百万石の殿様と言うのは、前田の事です。

   家康は、秀吉、前田よりも3、4つ年下です。

 

   秀吉は、北ノ庄城焼き討ちに、盟友でもある前田に先陣を切らせました。

   前田は、父の時代からの上司でもあり、父亡き後の育ての親の様な柴田勝家と、かつての盟友、秀吉との間で板挟みとなり、苦悩したと言われます。

   しかし、仮にも、数時間前まで敵軍の将ですから味方となった事を証明させる為、戦国時代にはよく使われた手でした。

   勝家とお市夫婦は、自害を選択し城と共に命を断ちます。

   柴田(権六)勝家、享年62歳。

   お市の方、享年37歳。

 

■戦国美女・浅井三姉妹

   業火に包まれた北ノ庄城から、茶々、初、江(ゴウ)の3人、お市の娘で信長の姪でもある、浅井三姉妹が救出されます。

   これら戦国武将の三姉妹は、二度にわたる居城(北近江の小谷城、越前の北ノ庄城)の焼き討ち、父の自害(実父・浅井長政享年29歳、義父・柴田勝家)を経験したにも関わらず、その後もそれぞれが数奇な運命を辿ります。

   三姉妹の長女・茶々は、豊臣政権下に名を淀に変え秀吉の側室となり、豊臣政権の後継者・豊臣秀頼を産み、政権崩壊まで母子2人で関ヶ原の合戦、大坂冬の陣、夏の陣を戦います。

   次女・初は、室町時代に守護職だった名門の出、京極家に嫁ぎます。

   三女・江は、後にお江与(エヨ)と改名すると共に、三度結婚し、三度目の嫁ぎ先にて江戸幕府、第2代将軍、徳川秀忠(家康の子)の正室となります。

   お江与の最期は、第3代将軍のポスト争いを巡って、土葬が主流の当時では珍しい火葬で埋葬されたとされます。大奥の春日局(カスガノツボネ)の仕業だとも囁かれます。

 

﹅織田信孝最期

   賤ヶ岳の合戦は、岐阜で大詰めを迎えます。

   兄・織田信雄は、弟・三七信孝に岐阜城開城を要求します。信孝は、渋々開城します。

   岐阜城を、兄・信雄と秀吉方に明け渡した三七信孝は、尾張の大御堂寺(オオミドウジ)に潜伏しますが、信雄の使者が信孝を追跡し、信雄の命を受けて弟・信孝に切腹命令が出ている事を伝えます。

   信雄は、秀吉の操り人形と化していました。信孝に切腹を命じたのは、信雄を操っていた秀吉でした。

   兄・織田信雄の使者から切腹の命を告げられた三七信孝(織田信孝)は52、寺で無念の中、自害します。

   三七様は、余りの悔しさで掻っ割いた自分の腹に、手を突っ込み自らの腸を引きずり出し、周囲に叩きつけたそうです。

   辺りは、三七様の出血で血まみれとなり、その時の血痕が、今でも屏風に残っているそうで、その屏風は三七様を祀る寺・安養院に奉納されています。

   この切腹を無念腹と言いました。

   織田信孝、享年26歳。

   最大の難問をクリアした秀吉は、ここに、天下布武を完成させました。

   この合戦によって、信長公の正統な後継者は、自分であると言う事を世に知らしめました。

 

大坂城

   現在、私達が目にする大阪城は、徳川大坂城であり、秀吉が建設した大坂城は、家康が行った盛り土によって地中に埋められていると言います。

   天正11年(1583、秀吉は、大坂城築城に取り掛かります。

   石山本願寺跡地に以後15年の歳月をかけて城は完成します。

   徳川大坂城の広さは、凡そ71haで東京ドーム15個分の広さで、外周は、過小に見積もって総延長で凡そ8km

   豊臣大坂城は、本丸に建つ天守閣の屋根が5重、内部は910外観建て。地下2階も兼ね備えます。

   高さ凡そ58メートル。

   本丸のみならず、二の丸、三の丸、西の丸、真田丸の建設も進められ、豪華絢爛、天下無双、難攻不落の巨城となります。

   大坂は、石山本願寺の寺内町で栄えた町でした。

   信長が石山本願寺を討伐する以前は、この地に石山本願寺城があり、その城を中心とした城下町が形成されていました。

   信長が、石山本願寺との十年戦争で勝利した後、信長は本願寺宗主(一向宗)・顕如を大坂から追い出し、石山本願寺城を大坂城として使用しており、清洲会議の後、秀吉は大坂城のある摂津を、池田恒興に分配していましたが、池田は、元の本拠地である伊丹の有岡城から離れませんでした。

   

   秀吉が、大坂を手に入れたいと言う事を知っていた池田が忖度したのかも知れません。 

   賤ヶ岳の論功行賞で、池田恒興の本拠地を美濃に国替えした秀吉は、満を持して大坂城築城に取り掛かります。

   大坂は、川や山に三方を囲まれた、外敵が攻め込みずらい地形で、畿内(山城国/京都府南部、摂津国/大阪府北東部と兵庫県南東部、和泉国/大阪府南西部、大和国/奈良県、河内国/大阪府東部)の幹線道路が集中し、大阪湾に貿易港があるうってつけの要所でした。

   秀吉は、早く安土城を凌駕する大規模な城を築きたいと思い、天守閣本丸の普請を急いでいました。

   大坂城築城は、いよいよ天下の頂に立ち始めた秀吉にとって、その権威を更に盤石なものとし、天下人たる正統性の根拠と権力の象徴となる重要なものでした。

   着工の日は、あの信長の推挙により、公卿まで出世した"兼見卿記" の記主、吉田兼見卿が京から大坂に駆けつけています。

   城は、優美にして、かつ巨城であればある程、権力の大きさを示すものとなり、抵抗勢力の戦意を喪失させる戦争抑止力です。

   又、城は、外敵から身を守る要塞の役割を持っている事から城塞(城砦)とも言います。

   美濃攻め、小田原攻めの際にも出城を築いたのは、権力を見せつけ外敵の戦意喪失を図る為でもあります。

 

   典型的な例として、羽柴軍の賤ヶ岳勝利と大坂城築城の様子を伺っていた毛利輝元(毛利家当主・毛利元就の孫)、吉川元春、小早川隆景兄弟は、信長の後継者たる秀吉に敵対するのは、最早得策ではないと思い、先方から和睦交渉に望んできました。

   毛利輝元は、小早川元総(モトフサ)、吉川経言(キッカワツネトキ)を秀吉側の人質に差し出します。

 

   毛利方は、大坂城の権威に敗北したのです。

   以後、毛利輝元は豊臣政権の五大老(家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家(直家の子))となっていきます。

   大坂城築城には、最盛期で5万人の人夫が駆り出され豊臣配下の諸大名を始め、毛利輝元も自ら現場に出向いて手をかけていました。

   そして、天正13年(15854、天守閣が完成します。

   城というのは、本丸だけでなく、本丸を堀、曲輪等で囲む様に二の丸、二の丸を囲む様に三の丸と別棟を造るのが通例でした。

   つまり、敵軍が攻めてきた時、三の丸を通過しなければ二の丸にたどり着けず、二の丸を通過しなければ本丸にたどり着けない訳です。

   大坂城の三の丸竣工は、結局秀吉の逝去までに間に合いませんでした。

   この後、大坂城は秀吉が死した後も大坂夏の陣まで、要塞としての威力を誇示します。

   大坂城は、豊臣政権の本拠地であり、大坂は桃山時代の日本の首都です。

   なお、"大坂" "大阪" の表記となったのは、明治維新後です。

   余談ですが、江戸時代の首都が江戸だと言う事は直感的に分かります。

   鎌倉時代の首都は鎌倉、これも直感的です。

   であれば、やはり安土桃山時代は、"安土大坂時代" と言うのが腑に落ちると言うのも納得のいく話です。

 

小牧長久手合戦

   秀吉は、織田信雄(ノブカツ)の家臣、星崎城城主・岡田重孝、苅安賀城城主・浅井長時、松ヶ島城城主・津川義冬と親交を深めていましたが、その事に信雄は、不満を露わにし家康と裏で手を結び、岡田、浅井、津川の3人に切腹を命じます。

   この事件がキッカケとなり、信雄と秀吉の対立が表面化します。

   両者は、やがて刃を交える事になりますが、信雄のバックには家康があり、この対立は、実質秀吉vs家康の代理戦争でした。

   この頃、家康の領国は、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の5カ国で、信雄の領国が、尾張、伊勢、伊賀の3国でした。

   この内、秀吉の所領に接しているのは、尾張と伊賀だったので、家康は、尾張が戦場になるのではないかと考えていました。

 

﹅合戦の幕開け・亀山城攻め

   天正12年(1584312、小牧長久手の合戦は、信雄軍の亀山城(伊勢)城攻めから幕を開けます。

   翌日313、家康は、遠江の浜松城を出陣し、尾張の清洲城で信雄軍と合流します。

   同日、木曽川下流で、秀吉方の池田勝三郎恒興が侵入し、信雄の居城・犬山城(現・犬山市)を城攻めし、一夜で落城させます。

   小牧長久手の合戦の火蓋が切って落とされます。

   家康は、激怒して、ただちに出撃しますが、勝三郎は手中に収めた犬山城に籠城します。

   清洲会議が決する前まで犬山城は、勝三郎の居城で城内の構造に熟知していました。

   家康は、秀吉との戦に万全を期す為、小牧山に城を築城する事を決めます。

   新築していたのでは、間に合わない為、信長の時代に岐阜城が建った後、廃城となっていた小牧山城(現・小牧市)を修繕して使う事にします。

 

   家康側には、越中の佐々成政、四国の長宗我部元親、それに織田信雄等が同盟を結びます。

   これに対し、秀吉軍は、佐々軍には上杉景勝軍を当て、前田利家軍、丹羽長秀軍には臨戦に入り待機する様指揮を取り、長宗我部には仙石秀久軍を当たらせます。

   秀吉方の武将・森長可(モリナガヨシ)は、信長公の近習・森蘭丸(成利)の兄で、勝三郎の義理の息子に当たります。

   又、森長可は武蔵守(ムサシノカミ)であった為、鬼武蔵の異名で周囲から恐れられる勇猛果敢な武将でした。

   森長可は、武勲を上げる為、家康方への攻撃の機会を見て、居城である美濃の金山城を出発、尾張の羽黒城(現・犬山市羽黒)へ進軍します。

   ところが、この時、森の進軍を察知した家康は、奇襲を目論んでいた森を、逆に不意をついて返り討ちにします。

   家康の先鋒、酒井忠次、奥平信昌等に阻まれ、玉砕にあった森は、命からがら金山城に逃げ帰ります。

   羽黒城での森長可玉砕の報を受けた秀吉は、坂本城に3万の軍勢を招集し、尾張へ出陣します。

   328、秀吉の行軍に、池田勝三郎軍が合流し、尾張の楽田城(ガクデン)に着いた頃には、10万余人の大軍勢となり秀吉同盟軍の本陣を構えます。

 

To Be Continue

 

乱筆乱文駄文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会 編者   逆説の日本史 井沢元彦著      秀吉の天下統一戦争  小和田哲男著    豊臣大坂城 笠谷和比古 黒田慶一著

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