・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
2020年(R2)、Big China、Small China(SpecialAsia)3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。
The XXX Files ・・・20th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "The Deep Impact"
(FunnyBomb).
■山崎の合戦
天正10年(1582)6月9日午前、羽柴軍は、姫路城を出発します。
秀吉の電光石火の如き進軍は、なおも続きます。
明石、兵庫、尼崎と進軍、6月13日富田(トダ、現・大阪府高槻市)にたどり着きます。その間、明石では、城攻めまで行っています。
秀吉は、尼崎に駐留の際、信孝軍、丹羽長秀軍、蜂屋頼隆軍、池田恒興軍、中川清秀、高山右近等を味方につけます。
秀吉同盟軍は、信長急死の非常事態の中、特に、信孝軍、丹羽長秀軍には動揺の余り逃亡する兵もあったものの、やがて約2万余人の大軍勢となっていきました。
。
信孝の四国討伐軍には、あの信長に手討ちにされた信行の遺児・津田信澄がいました。
信澄の不運だったのは、妻が光秀の娘だった事です。
信孝は考えました。「叔父・信行は、父が討ってしまったが、その父・信長が信澄の義父、光秀に討たれてしまった。恐れおののく逃亡兵が後を絶たない。ここは、信澄を討つ事で自軍の士気を取り戻すしかない」と。
信孝は実行に移します。
三七信孝は信澄を討ち、大阪城に召集された信孝軍等は、士気を取り戻し、京から南下する場合の出口である"大山崎"で秀吉軍と合流しました。
三七信孝は、秀吉軍と行動を共にします。
そして、6月13日。
京都・天王山の麓(フモト)、大山崎が戦場となりました。
"山崎の合戦" 、織田信長の弔い合戦が始まりました。
秀吉連合軍は最終的に4万人に膨れ上がっていました。実は、秀吉はこの合戦を正に"天下分け目"と捉え、持てる財宝を全て家臣や下々の者に分配し、羽柴軍全勢力を出陣させていたのです。ですから、姫路城はほぼ無人の状態です。
対する、光秀軍は兵力4千〜1万人(数字には諸説あり)。安土城には、明智秀満(光春)と共に数千人の兵を護衛の為に残して来ました。
光秀は、明らかに平静を失ってました。
10分の1の兵力で秀吉軍に勝てる筈もありません。細川等に見限られた光秀は、援軍が欲しかったに違いありません。
であれば、安土城の護衛に数千人の兵力を割く事は、実にナンセンスと言う事が出来ます。
降りしきる雨の中、合戦の幕が上がりました。数で圧倒していた秀吉軍は、僅か2時間で光秀軍の本陣を潰したそうです。
光秀は、勝竜寺城(ショウリュウジジョウ、長岡京市)に入り、闇夜に紛れて近江の坂本城に移動を開始しました。
その途上、山城の小栗栖(オグリス)(京都市伏見区)で地元農民の落ち武者狩りの餌食となり、竹槍で刺されました。
光秀は、槍に一刺し食らったまま、300メートルほど馬を進めましたが、槍傷が重傷となり、ついに落馬し、「もはや、これまで」と悟って家臣に介錯(カイシャク)を頼み、無念の切腹をします。
落ち武者狩りには、光秀以外にも4、50人の明智兵が餌食にされています。
三日天下とはよく言いますが、正確には12日間の天下でした。
■清洲会議
秀吉にとって、権力の正統性を確保するのは、皮肉にも信長の忠実な家臣である事でした。信長は、自分を引き立ててくれた大恩人だからです。
だから、その信長を殺した光秀を討つ、と言うところまではがむしゃらに断行しました。
しかし、問題はその後です。
織田家が権力の座に居座っていては、いつまで経っても天下人にはなれない。
安易に、織田家を取り潰すと言う暴挙に出れば、「織田家の忠臣」と言う看板が崩れ落ち、家康や柴田勝家などの有力者に「光秀と同じではないか」と断じられ、討伐の口実を与えてしまうからです。
光秀の様にレッテルを貼られる事なく、織田家を権力の座から退場させる妙案が必要です。
清洲会議は、天正10年(1582)6月に行われた、織田家の後継者を誰にするかと言う大命と、山崎の合戦の戦後処理を決すると言う重要な会議です。
織田家の正統な後継者、織田信忠は本能寺で討死しているのです。
清洲会議の時点で、織田家の正統な後継者足り得るのは、三男・三七信孝、二男・織田信雄(ノブカツ)、そして信忠の息子、3歳の三法師(織田秀信)でした。
この内、信雄は除外されます。
信雄は、バカ殿だったからです。
本能寺で、父,信長が暗殺された事を知りながら、秀吉や柴田勝家等に比べれば、最も本能寺に近い伊勢にいたにも関わらず、仇討ちもせず傍観していた事、又、安土城を放火した事などが指摘されています。
信雄は、山崎の合戦が始まった時、近江にいて、その弔い合戦が開戦し、秀吉連合軍の完勝によって光秀が敗走した事も分かっていながら、参戦もせずに傍観していたからです。
一番有力な後継者は、秀吉と共に山崎の合戦に参戦して仇討ちを成功させた三七信孝です。
だから、天下取りを狙う秀吉にとっては、信孝を排除しなければなりません。
織田家前当主・織田信忠が生きていたら、秀吉は天下人にはならなかったでしょう。
しかし、信忠は、光秀が討ってしまいました。秀吉の天下布武の障害は、三七信孝、信雄兄弟となります。
手強いのは、信孝です。信雄は、バカ殿ですから。
柴田勝家は、信孝を跡目に推薦します。
誰もが考える妥当な後継者です。
しかし、ここで、秀吉は三法師を推すと言う妙案を叩きつけます。
会議は、荒れに荒れます。秀吉は、一旦会議から中座します。
これは、当時の常識では考えられない行為でしたが、後継者が、自分が推した三法師になるとの公算があった為、勝負はついたと思ったからです。
まんまと柴田勝家に一泡吹かせる事に、秀吉は成功します。
三法師が織田家の当主となる事は、織田家を取り潰さずに、自分が権力の中枢を握り、かつ光秀の様な反逆者となり周囲の恨みを買う事もないギリギリの取引でした。
概ね、下記の様な戦後処理が決定します。
❶織田家の当主は三法師とする
❷信孝には美濃一国を分配する
❸美濃の居城、岐阜城は信孝、三法師の居城とする
❹近江の長浜城(滋賀県)は、柴田勝家に拝領する
❺信雄には尾張(愛知県西部)を分配する
❻秀吉は山城(京都府南部)河内(大阪府南部)、丹波(京都府北部)を拝領する
❼丹羽長秀には近江(滋賀県)の一部を分配する
❽池田恒興には摂津(大阪府北東部と兵庫県南東部)一国を分配する
柴田勝家は、何故か長浜城を拝領したにも関わらず入城しようとせずに、信長の妹、お市様を後妻とする事を許された事をいい事に、二人で越前(福井県)の北ノ庄城へ入りました。
天下を取り世を安寧に導くよりも、自分の隠居生活を優先したのか、或いは、自分では天下人にはなれないと思ったのかも知れません。
■賤ヶ岳の合戦
山崎の合戦で光秀を討った織田家最大の功労者、秀吉は、みるみると勢力を拡大していきました。
政権のイニシアチブを握りつつあった秀吉に対し、三七信孝や柴田勝家等の織田派と秀吉派の対立は頂点に達します。
天正10年(1582)12月、5万余人の大軍を率いて秀吉は、近江に入ります。
狙いは近江の長浜城です。
長浜城は、勝家の甥が清洲会議の後、城主となっていました。
秀吉は、難なく長浜城を占領します。
次に岐阜城を攻め、三七信孝を降伏させます。
ここで、秀吉は信雄にご出陣願うと言う作戦をとります。
三法師の代理人は、織田信雄だと勝手に決めて、その信雄の命を受けて三七信孝を成敗する事にし信孝の勢力を削ぎます。
次に、織田派の滝川一益が城主となっていた伊勢の長島城にも進軍します。
これらは、全て柴田勝家に対する挑発行為でもあります。
天正11年(1583)3月、挑発に耐えかねた柴田勝家は、まだ雪深い北ノ庄城から、佐久間盛政軍、前田利家軍、不破光治軍等総勢2万余人の大軍を率いて、秀吉の待つ近江の柳ヶ瀬に出陣します。
柴田を総大将とした織田派同盟軍が集結した情報を察知した秀吉は、直ちに軍を反転させ、3月16日に長浜城に入城し、戦術を再構築。
琵琶湖を取り囲む尾根を舞台に、賤ヶ岳の合戦が開戦します。
秀吉派は余呉湖に面した木ノ本、賤ヶ岳、織田派は茂山、別所山、大岩山等に分散し本陣を構えて対峙し、両軍の睨み合いが始まりました。
美濃で、一度降伏した三七信孝は、伊勢長島にいた滝川一益と連携し岐阜城に向かい、再度挙兵します。
4月16日、秀吉は美濃の大垣城に急行します。
織田派の武将、佐久間盛政の元に密偵が走り、秀吉軍が大垣城に駐留している事、岩崎山の高山右近(長房)、大岩山の中川清秀の陣が手薄だと言う情報をもたらします。
睨み合いの膠着状態に堪忍袋の緒が切れた佐久間盛政は、4月20日、自軍8千余人を率いて大岩山、中川軍の陣を攻撃します。
大岩山の中川清秀、討死。佐久間は、勢いづいた為、総大将・柴田勝家が6回も使者を送り本陣に戻る様再三促していますが、それを無視し、岩崎山に進撃を始めます。
秀吉軍の参謀長・黒田官兵衛、高山右近の軍とも一戦交えます。
美濃・岐阜城にいた秀吉は、中川清秀が討死した報を受けると、大垣、木ノ本間の凡そ52キロを十八番の神がかり的速さで駆け抜け、佐久間軍が展開する戦さ場に参上し、攻撃を開始します。
これを美濃大返しと言います。
想定外の速さで戻ってきた秀吉軍に翻弄された佐久間軍は、後退し織田派の本陣へ退却します。
佐久間の後退を見て勝敗を見切った秀吉は、加藤清正軍、福島正則軍等、所謂"賤ヶ岳の七本槍" を投入。
出典:豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会 編者 逆説の日本史 井沢元彦著 秀吉の天下統一戦争 小和田哲男著
Wikipedia Japan
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)