空前絶後・豊臣政権3 | box03のブログ

box03のブログ

 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

 

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2020年、Big ChinaSmall ChinaSpecial Asia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。

   The XXX Files ・・・22th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "The Deep Impact"

 FunnyBomb.

 

image

image


Back To

 

中国地方攻略

   天正5年(157710、秀吉は、中国攻めに出陣し、弟・秀長隊と二手に分かれます。

   秀長は但馬へ、秀吉は播磨(現・兵庫県南西部)へ進軍。

   この頃、播磨の有力な勢力、御着城(現・姫路市)城主・小寺政職(コデラマサモト)の配下だった黒田官兵衛孝高(ヨシタカ)は、御着城の支城、姫路城の城主でした。

   播磨は、毛利方の手中にあり、御着城内は、毛利方に着くか、織田方に着くかで揺らいでいる時期です。

   黒田家は、いち早く時代の潮流を読み、秀吉の申入れも手伝って織田方に着く事を決心しました。

   この時から、秀吉の右腕、軍師・黒田官兵衛が誕生したのです。因みに、軍師の正室は光殿(テル)と言い、御着の殿様、小寺の親戚でした。

   官兵衛は、居城・姫路城を秀吉勢に明渡します。姫路城は播磨平定、引いては中国攻めの本拠地となりました。

   当時、上月城は、「西播磨の雄」と呼ばれ、城主・赤松政範は、備前(現・岡山県東南部)美作(ミマサカ、現・岡山県東北部)の領主・宇喜多直家(岡山城城主)と繋がっていました。

   秀吉の軍師・黒田官兵衛は、宇喜多方の城・福原城に走り、秀吉は、上月城の城攻めに入ります。

   秀吉は、救援に駆けつけた宇喜多軍を撃退し、上月城を落城させます。

   城主・赤松政範は切腹します。

   秀吉は、新しい上月城の城主に山陰の名門、尼子勝久を任命します。

   翌天正64、毛利軍は、吉川元春(毛利元就の次男)、小早川隆景(毛利元就の三男)の軍を主力部隊に宇喜多直家と手を結び、3万の大軍勢で上月城を包囲し、秀吉軍と対立します。

   宇喜多は、自分の利害に反すると判断すれば、家臣でさえ毒殺する様な残忍な男でした。

   この時、秀吉は、城主・尼子勝久を救出する事が出来ず、しかも信長は「上月城は捨て、三木城攻略に全力を尽くせ」と冷たい下知を出します。

   上月城の尼子勝久は籠城戦を強いられ孤立し、天正673日自害、尼子一族は滅亡します。

   播磨の三木城主・別所長治は、毛利軍及び宇喜多直家等と連携して三木城(兵庫県三木市)で籠城戦に打って出ます。

   秀吉軍は、2万の軍勢で三木城の城攻めを敢行しますが失敗します。

   戦術を転換した秀吉は、方針を兵糧攻めに変更します。

 

   三木城への兵糧米の補給路は、秀吉によって完全に封鎖され、城内は飢餓地獄に陥ります。三木城の兵糧攻めは2年にわたり強行され、別所長治は天正8年(15801、ついに開城します。

   秀吉は、樽酒を用意し開城を決断した長治をもてなす別離の宴を催します。

   

   その後、別所長治は、潔ぎよく切腹します。享年23歳。

   "今は只、恨みもあらず、もろ人の命に代わる、我が身と思へば"

   長治の辞世の句です。

 

鳥取城兵糧攻

   天正9年(15817、秀吉は、鳥取城をターゲットに若狭方面から船を出し、因幡中の米を時価数倍の値段で買い占めます。

   鳥取城の兵は、高値に目がくらみ、籠城戦に必要な城内の備蓄米を殆ど売ってしまいます。

   その上で秀吉は、鳥取城を2万の大軍勢で包囲します。

   周囲に柵を打ち、それに縄網を張り巡らせ鳴子を仕掛けました。

   これで、城兵は城から逃げればすぐに分かります。

   天正9年(15818、鳥取城は、城内の草木を掘り起こし飢えをしのぐ者、百姓の四肢を切り落とし食す者も後を絶たず飢餓地獄に追い込まれます。

   鳥取城主、吉川経家はついに降伏します。

   秀吉は、城兵等を無罪放免にし、鳥取城内に酒肴を差し入れ、毛利方を慰労します。

   天正91024、吉川経家自害。

   享年35歳。

   この後、鳥取城は正式に開城し、秀吉は城兵等に三百石の米を粥にして振る舞いました。

 

高松城水攻

   天正10年(15824、この頃秀吉は、播磨、淡路、但馬、備前、因幡(現・鳥取県東部)を手中に収め、山陽道の経営に着手します。

   これに反抗したのが、備中高松城主・清水宗治でした。

   宗治は、毛利方の武将で、勇士の誉れ高く、優れた毛利輝元配下の武将でした。

   秀吉は、軍師・黒田官兵衛(孝高)を宗治の元に送りますが、宗治は拒絶し籠城戦に出て織田方に敵対します。

   高松城開城を狙った秀吉の謀略戦が始まりました。

   秀吉勢は、調略により織田方に寝返った宇喜多直家の軍勢と同盟を組み、3万人の大軍勢となっていました。

   宇喜多は、刻々と変化する戦況を読み毛利方から織田方へ寝返るコウモリ外交を展開したのです。

   高松城は、四方が池や沼に囲まれた小高い丘の上に築城されていて、外部と城を結ぶ道は細道一本だった為、水攻め作戦が敢行されました。

   高松城付近の川を堰き止め、大雨が降り始めると、高松城周囲は一気に浸水を始め、宗治は小船三隻を作りましたが、これに対抗した秀吉は、大船三隻を搬入、高松城を大砲で砲撃します。

   水攻めはボディブローの様に効き始め、毛利軍は、高松城に近づく事すら出来ずに、高松城の水没は時間の問題でした。

   高松城落城が中国攻めの大詰めとなります。

 

中国大返

   秀吉は、勝機の見えた中国攻めのトドメを信長に取ってもらう様、安土の信長に出陣を打診していました。

   しかし、そこに本能寺の変が勃発し、信長はこの世を去ります。

   秀吉が、その事を知ったのは諸説ありますが天正10年(158263日深夜

   明智方の使者が、毛利方に密書を渡そうと備中に入った所を羽柴軍の警備兵が捕獲します。

   内容を知り、愕然とした秀吉は、毛利方の僧侶・安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)を通じて、和睦を急ぎました。

 

   和睦で織田方に最大限の譲歩案を用意した毛利方は、備中、美作(ミマサカ)、伯耆(ホウキ、現・鳥取県)、備後(ビンゴ、現・広島県東部)、出雲(現・島根県)を織田領に差し出すと言う条件を提示します。

   その代わりに、高松城主・清水宗治は助けてくれと。

   しかし、秀吉側は、あくまで領地割譲に加えて高松城主・宗治の切腹を合意条件として譲りませんでした。

   この条件で、毛利方、織田方双方の和睦は暗礁に乗り上げます。

   しかし、この条件を毛利方の僧侶、安国寺恵瓊が独断で受諾します。秀吉側の調略により、恵瓊は単独で、湖に取り囲まれた高松城に小船で乗り出し、清水宗治を説得したのです。「貴公が切腹さえすれば、全てが丸く収まる」と。

   和睦は、恵瓊の仲介で成立します。

   清水宗治は、秀吉から贈られた酒肴や極上の茶で饗宴を催した後、高松城に出現した湖面に船で乗り出し、船上で切腹します。

   天正10年(158264、清水宗治、享年46歳。

 

   ここから、中国大返しの始まりです。

   秀吉は、備中から撤退します。

   毛利軍は、6417時頃に紀州雑賀衆(サイカシュウ)の報告により、信長暗殺の事を知りました。

   秀吉等は、6415時頃には、備中の本陣を引き払い、羽柴軍全軍は毛利方が本能寺の事を知った2時間前に高松を出発します。

   ここで、注意が必要なのは、秀吉が備中から撤退を始めた日が、史料によって6月4日説と、6月6日説の二通りある事です。

   毛利軍が、本能寺の変を知ったのも、秀吉が撤退した後の2時間後と言う説もあれば、秀吉が撤退した翌日に知った、或いは秀吉が撤退を始める前から知っていたと言う説まであり、今一つはっきりしません。

   宇喜多が裏切るリスクを回避する為に、沼城には寄っていないと言う説もあります。

   6月4日説の場合は、毛利が本能寺の変報を知った頃、秀吉は既に備中から撤退していたと言う解釈。

   一方、6月6日説では、4日に清水宗治切腹の後、二日待って毛利軍が先に撤退するのを見届けてから備中を出発したと言う解釈です。

   ただ、共通して言えるのは、毛利軍が秀吉撤退前に本能寺の変を知っていたとしても、秀吉はスムーズに備中を出発する段取りを整えていたと考えられる事です。

   毛利の追手が来ても迎撃出来る様に、備前に宇喜多軍を秀吉側のストッパーとして駐留させていました。

   

   いずれにしても、毛利軍内部は、和睦協定を破り秀吉軍に復讐を望む吉川元春派、和睦協定を遵守しようとする元春の弟、小早川隆景派に割れていました。

   それを前提に話を書きます。

   括弧書きの日付を66日説の場合とします。

   毛利軍の家臣達は、城主宗治の切腹により、無罪放免となりました。

 

   秀吉は、65日(6日)の内に沼城(現・岡山市、元は宇喜多直家の居城)に入り、66日(7日)朝に出発、その日の夜(8日)には、姫路城に到着します。

   備中から姫路までその距離、凡そ27里、現代の単位に換算すると約106キロだそうです。

   余りの猛スピードの為、着いて行けなかった家来も多数おり、彼等は山崎の合戦に参加できませんでした。

 

   その後も、秀吉の電光石火の進軍は続きました。何故なら、この進軍には、秀吉の天下布武がかかっているのです。

   百姓農民も、一族郎党も、秀吉の天下布武を夢見ていました。

   ですが、誰よりも秀吉の天下布武を望んだのは秀吉の右腕だった軍師・黒田官兵衛だったのかも知れません。

   軍師・官兵衛は現代で言えば、羽柴軍の参謀総長と言ったところでしょうか。中国大返しと言う作戦も官兵衛あっての事でした。

 

To Be Contenue

 

 

出典:豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会 編者   逆説の日本史 井沢元彦著      秀吉の天下統一戦争  小和田哲男著

Wikipedia Japan

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ大脳真皮質は正常(だと思いますが)・・・