空前絶後・豊臣政権6 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2020年(R2)Big ChinaSmall ChinaSpecialAsia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。

   The XXX Files ・・・20th .

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Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "Back To 戦国 Beginning"

FunnyBomb.

 
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小牧長久手の合戦の続きから・・始めます・・

 

 

﹅家康の本陣・小牧山城

   一方、小牧山に本陣を置いた徳川軍は、信雄軍と合流し27千人程の軍勢でした。

   兵力で劣勢に見える家康・信雄連合軍は、小牧山と言う全てを見渡せる要塞に本陣を構えた事、本国三河に近い事から長期戦に耐えられる事、秀吉方に比べて、寄せ集めの軍ではない事と言う条件では秀吉よりも優勢でした。

   秀吉方、家康方の両軍睨み合いが始まりました。

 

   三河兵は、この頃、戦国最強と謳われていました。三河兵1人で尾張兵3人は討つ事が出来るとも評されます。徳川家は、没落した甲斐・武田家の武士を三河兵として多く吸収していた事も強さの秘密でした。

   姉川の合戦で織田徳川連合軍が勝利したのも、三河兵の底力の賜物でした。

   姉川の合戦に参戦していた秀吉は、身をもってその事を熟知していたのです。

   その為、秀吉は、うかつな行動が取れませんでした。

   羽黒城玉砕の二の舞にもなりかねません。

   秀吉は、野戦に持ち込もうと家康を挑発します。

   家康は、その秀吉に対し"弾劾文" を送りつけます。その文は、家康が家臣・榊原康政に命じて書かせた文でした。

   内容は、"卑しい身分の出である秀吉が、亡き信長公の大恩を忘れ、織田方の旧臣や世継ぎに手をかけ、三七信孝様を殺した大悪人、秀吉を正義の名の下に成敗する" と言ったものです。

   家康本人が書いたものではないと言う事自体、秀吉を見下した所業であり、「お前ごときに、わしがわざわざ手を汚すまでもない」と言う意思表示でもありました。

   この弾劾文は、表向き秀吉に宛ててはいますが、内実は秀吉方全ての武将、特に信長と乳兄弟でありながら、恩賞に目がくらみ秀吉に寝返った勝三郎に宛てた文でした。

   弾劾文の指摘に、勝三郎は心当たりがありました。

   自分は"織田家を金の為に裏切った" と言う自覚があったのです。

   勝三郎は、裏切り者の汚名を晴らすのではなく、一刻も早くその後ろめたさから逃れ、あわよくば褒美を稼ぎたいと考えていました。

 

 

■勝三郎鬼武蔵、討死。秀次軍惨敗

   勝三郎、森親子は、家康の本拠地、岡崎城を奪取する作戦を、総司令官・秀吉に提案します。

   森長可は、鬼武蔵の異名を羽黒城玉砕で無残にも粉砕された屈辱を晴らしたいと思い、息を上げていました。

   秀吉は、リスクを計算し難色を示しますが、三好秀次(後の関白・豊臣秀次)が岡崎城攻めを推した為、この作戦を許可します。

   秀吉は、総大将に三好秀次を任命します。

   秀次は、秀吉の甥で、当時は四国の名門、三好家の養子に出ていたのです。

   秀次は、戦経験が乏しく、お調子者の17歳の若武者で、とても総大将の器ではありませんでした。

   秀吉は、あえてそんな秀次を総大将に抜擢し、秀次もそれを喜んで拝命します。

   46日夜、三好秀次を総大将として、池田勝三郎、池田元助(勝三郎の子)、森長可、堀秀政等、16千余人の軍勢は、密かに移動し、9日に岩崎城を城攻めにします。

   その事を察知した家康は、14千余人を率いて小幡城に入り反撃の機会を伺っていました。

   徳川勢は、勝利と勘違いし浮かれていた三好軍の背後を奇襲するや、三好軍は恐れおののき後退します。

   家康は、長久手の仏ケ根(ホトケガネ)で、池田勝三郎、森長可軍と刃を交えます。

   家康が優勢でした。

   家康は、本軍を率いて森軍を追撃しますが、鬼武蔵・森長可は、勇み足で逆に家康の本陣まで切り込みます。

   家康の鉄砲隊が森に向けて照準を合わせます。

   弾丸は、森の眉間を貫通しました。

   森長可は馬上で即死します。

   因みに、森が使っていた馬は"百段" と言う名で、百段は、死した主を乗せたまま、秀吉方の自陣まで帰還したと言います。

   勝三郎は、家康方の永井直勝に討たれます。父・勝三郎の訃報を聞いた池田元助も援護に駆けつけますが、討ち取られます。

   秀吉方の三好軍を総大将とする部隊は、壊滅します。

   秀吉が憂慮した通り、作戦はほころびを見せました。

 

﹅秀吉軍出陣。家康を見失う

   秀吉は、その事を410日の昼頃に初めて、知らされます。

   秀吉は、自軍本隊を率いて、楽田城を出陣し小幡城に急行します。

   用心深い家康は、真っ直ぐ小牧山城に戻らず小幡城で休息を取っていたのです。

   夕刻に小幡城に到着した秀吉軍でしたが、疲労が蓄積していました。

   秀吉は、流石の家康勢も疲れている筈だから、夜襲はしないだろうと思い決戦は翌日に持ち越す事にして全軍に休息を取らせました。

   しかし、家康方は夜になって、秀吉方に全く気付かれずに小幡城を抜け出して、小牧山城に帰還していました。

 

   翌日、目を覚ました秀吉は、家康方が忽然と消えたと思いました。

   もし、小牧山城に入城したとすれば、秀吉と言えども手の出しようがありませんでした。

   三好軍、池田軍、森軍全滅に続き、秀吉の本軍まで負けたとなると、天下の威信は丸潰れとなり、一気に徳川家が有利となるからです。

   徳川本隊を見失った秀吉は、仕方なく410、楽田の自陣に戻ります。

 

   秀吉は、家康に深入りするのを止めて、ターゲットを信雄軍に変更します。

   秀吉に、信雄軍を壊滅する意図はありませんでした。しかし、一矢報いたい。

   秀吉は、楽田城に護衛兵を駐留させたまま、自軍は大坂に向かい帰還し、帰路の途中にある信雄の領国、伊勢の出城を次々と落城させると言う作戦を取ります。

   慌てた信雄は、居城、長島城に帰還します。家康も小牧山城を出て、清洲城に入ります。

   その後、戦況は、多少の小競り合いがあったものの、次第に膠着状態に入ります。

   当時の秀吉の形勢は、以下のようなものです。

   秀吉は、信長の後継者となるべく、三法師を神輿に担ぎ、信雄、信孝兄弟の不仲を利用して、信雄に三七信孝を切腹させました。

   流石の信雄も、次の標的は自分だと悟り、恐れた信雄は、家康と同盟を結び、秀吉方と交戦します。

   秀吉方は大悪人で、家康・信雄連合軍は正義の名の下に悪人を討つと言う大義名分がありました。

   秀吉が天下布武を成就させるには、自身が織田家の忠臣である事は外せない条件ですから、信孝を切腹に追い込んだのは、あくまで織田信雄のご命令だったからと信雄に責任を転嫁しています。

   しかし、最後の後継者となる信雄に同じ手は使えません。

   そこで、その役割を恩賞で買収した池田勝三郎にやって貰う様画策しました。光秀と同じ轍を踏んでしまえば、天下は絶対に取れません。

 

﹅信雄の身勝手な和睦

   こうした形勢の中、伊勢桑名で秀吉は、織田信雄を、十八番の"人たらし" 戦術を駆使して、和議を結ぶというサプライズを強行します。

   呆れる事に、信雄は、二つ返事で和議を受け入れます。

   天正12年(158411開戦から8ヶ月目の事です。

   一番恥をかかされたのは、織田家を保護する大義名分もあって挙兵した筈の家康です。

   大悪人を成敗するという大義名分を、信雄本人にドブに捨てられたのです。

 

   信雄と和議を結んだ事で、秀吉が逆に正義を得た事になるとも取れます。

   信雄と手を結び天下を狙う大悪人家康を討つ」と強弁する事も出来るからです。

   この場合の正義とは織田信雄です。

 

   秀吉と信雄が和睦を結んだ為、合戦の大義名分を失った家康は、故郷・三河に引き揚げ、合戦は緩やかに幕を降ろします。

 

To Be Continue

 

 

出典:完全制覇  関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた  Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争  小和田哲男著

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)