夢幻の天下布武2 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2019年、反日国家の悪癖増長は留(トド)まる事を知らず、独善的なBig ChinaSmall ChinaSpecial Asia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちて、互いに滅びの道を歩んでいた。

   一方G7Nationsは、更なるグローバルな弱肉強食の世界に突入しようとしていた。

   The XXX Files ・・・19th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   We Are Sumer Japanese・・

   Sub Title "Anti'Japanの向こう側"

   Han-nichi Key Words Laboratory .

FunnyBomb.

 

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■桶狭間合戦 永禄3年(1560

   駿河の大名・今川義元は、上洛を念頭に大軍勢を率いて領国を出発します。

   当時、義元は、"東海の覇者"と謳われた戦上手でした。

   父、織田信秀とは、天文18年(1549三河の安祥城で、既に交戦の経験があり、義元の上洛の障害は尾張の織田という風に認識されていました。

   この安祥城の合戦により、織田家は岡崎城々主、松平の嫡男・竹千代(後の徳川家康)、今川家は織田信広(信長の長兄)を人質としましたが、今川方の軍師、太原崇孚(タイゲンスウフ)が人質の交換を提案しました。

   徳川家の領地、三河は、当時今川に支配されていました。

   合戦の主流は、籠城戦か野戦のどちらか2つが基本です。

   当時の信長は、拠点となる織田方の城には、織田家の兵を護衛として籠城させ、織田軍の本陣は野戦を主戦場とし、今川軍と正面衝突の決戦を挑む覚悟をします。

   信長自身、玉砕覚悟の背水の陣だったでしょう。

   信長は、決戦当日まで誰にも戦略を話しませんでした。

   今川に内通している家臣がいるかも知れないからです。

   今川勢二万五千人に対し、織田勢は約二千人(数字には諸説あり)。信長は、清洲城を出陣する前に敦盛を一曲舞い、熱田神宮に参拝した後、戦場桶狭間へ向かいます。

   信長が、主要戦略を家臣に伝えたのは、今川軍の本陣に切り込む直前になってからの事でした。

   信長は、蜂の一刺し作戦を構想していた事を重臣に説明しました。

   信長は、号令を発し進撃します。

   織田軍が今川勢に急襲をかけた時、突如激しい雷雨が吹き荒れました。

   今川勢は、雷雨の中現れた織田軍に翻弄されます。今川義元が討たれた頃には、雷雨は何故かピタリと収まっていたそうです。

   信長は、交戦前に家臣にこう訓示しています。

   小勢であっても大軍を恐れる事はない。天運は我が軍にある。敵がかかってくれば引き、敵が退けば引き付けろ。敵を打ち倒し、切り崩す事は不可能ではない。勝利を収めれば合戦に参加した者は、一家の面目となり末代までの高名となろう。

   永禄3年(15605、信長は桶狭間に奇跡の勝利を収めました。

   今川義元討死、享年42歳。

   この桶狭間の奇跡によって、後世の歴史が、日本の歴史が大きく動き始めました。

   なにしろ、信長が勝っていなければ、後の豊臣秀吉も、徳川家康も世に出てこなかったのですから。

   この頃、後の徳川家康は、まだ松平元康を名乗る、今川勢の一家臣と言う小さな地方大名でした。

   元康の""は、今川義元の元を拝領したものです。

   桶狭間の合戦で、家康は信長と敵同士だったのです。

   家康は、大狸とはよく言いますが、風見鶏と言うべきでしょうか、桶狭間のあと、信長と同盟を結び、三河は自身の領国となります。

   そして、これより、信長の天下布武がスタートします。

 

■将軍足利義昭と信長

   天下布武とは、武を天下に知らしめる事。

   天下布武とは、武士が天下を治めると言う事。

   そして天下布武とは、己を捨てる事。

   が、しかし信長にとって、天下布武は、結果的に人生の最終目標となりました。

 

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このスローガンを信長自身も強く意識していました。

 

   日本全体を見ても、信長の天下統一構想は、その成功性と後世への影響から見て、極めて大きなものであった事は間違いありません。

   天下人となる条件を満たしていたのは、信長ただ一人だったと断言しても差し支えありません。

   信長以降は、後継者として秀吉や、家康がいますが、それは、信長という先駆者がいたからこそ成功した例で、2人のやり方は信長の亜流に過ぎません。

   武田信玄も同じです。まして、信玄の場合は、改革者ではなく、旧体制を改めようとしない守旧派でした。

   歴史には、古いものを新しくしなければならない時期が必ず訪れます。

   戦国時代は、正にそういう時代でした。

 

   室町幕府、第13代征夷大将軍・足利義輝は、松永久通(義久)と三好三人衆等の手によって永禄8年5月19日、誅殺されます。

   足利義輝の弟・義昭(覚慶)は、窮地を脱し、将軍・義輝の家臣で近江の和田惟政(コレマサ)の館で匿われますが、元々将軍職に恋々としていた義昭は、この機に京へ上洛し、将軍職に就く事を画策します。

   義昭は、独自軍を持たなかった為、自ら、武田軍、上杉軍、朝倉軍等諸国の戦国大名に要請書を送り、自分の為の上洛軍を用意してほしいと懇願したのです。

   しかし、諸大名からは何の反応もありません。身辺はにわかに不穏な空気が張りつめ、怖くなった義昭は、朝倉方の館に居を移します。

   義昭が、一番頼りにしていたのは、越前の朝倉義景でしたが、義景は、釈然としない返答ばかりで上洛軍を編成しようとしません。

   義昭は、朝倉義景の反対を押し切り、信長への要請を選択します。

   やがて、義昭の名代として和田惟政が信長の元へ上洛軍結成の要請に訪れます。

 

   結局、戦国大名の中で、信長ただ一人が義昭の要請を受け、上洛の準備を始めます。

   信長は、事実上、足利義昭を将軍に擁立しようと、必要な品々を義昭に用意させ、徳川軍と合流し、六万の軍勢を率いて、岐阜城を出陣、京に上洛を果たします。

   永禄11年(15689月の事です。

   当時、岐阜から京都へ大軍勢を率いての遠征は、20泊程の日数を要しました。上洛の途上で、足利将軍家の命を狙う三好三人衆等の勢力を、信長は柴田軍等を出撃させ三好三人衆等が潜伏する芥川山城、池田城を落城させます。

   その上で、義昭を京に向かい入れて、上洛を見事に成功させました。

   義昭は、朝廷から正式に第15代征夷大将軍に任ぜられます。室町幕府、最後の将軍です。

   信長の本隊は、将軍・義昭と柴田勝家軍、羽柴秀吉軍、佐久間信盛軍を警備隊として京に残し、先に岐阜城に帰還します。

   義昭は、要請に応じた信長に感謝し、副将軍職を要請しましたが、しかし信長は一蹴します。

   翌年の1月4日、三好三人衆(三吉長逸、三好政康、岩成友通)、美濃の信長の義弟、斎藤龍興等が足利義昭を襲撃します。

 

   信長は、何故か、襲撃直後すぐに、殿中御掟(デンチュウオンオキテ)を、明智光秀を介して義昭に突きつけます。

   上洛から三好三人衆等による反将軍勢力の襲撃までの、一連のストーリーが信長による謀略だったのかは分かりません。

   証拠はないのですから。ですが、襲撃から五カ条の御掟発行までのタイミングが余りに早い。

   殿中御掟は、実質、信長が義昭の行動を制限する為の条文でもあり、信長の将軍に対する事実上の挑戦状でもあります。

   この殿中御掟は、数々の写本が発刊され、又、畿内の各所に同じ条文を記したお触れが立てられました。

   当時は報道機関と言うものがなかったので、大々的にとは行きませんが、写本が各地に存在するという事は、信長は、これを上層部だけの秘匿事項とせず、社会に公表していた証拠だと筆者は言います。

   その事で、信長は世論を味方につける事を狙っていたと言うのです。

   この五カ条の御掟は、ほぼ将軍を操り人形とする意図が明らかでした。

   日本史上、御掟の書かれたお触れを出し、世論を味方につける事を実行に移した武将は、信長が最初、また、そこに信長の先見性、偉大さがあります。

   新しい権力を確立する為に、必要となる諸条件の中に、人事権と賞罰権があります。

   人事権、賞罰権は、同時に、生殺与奪の権利であり、それを実行する為には強制力、つまり軍事力が伴わなければなりませんでした。

   

■信長楽市楽座

   信長は、将軍(義昭)を政治的に封じ込めておき、その間に軍事力を蓄積して自らの政治理念・天下布武を成就しようとしますが、将軍は絶対にそれを認めようとしませんでした。

   将軍は、リーダーの資質がどうであれ、室町幕府の最高責任者である事に変わりはなく、信長は、義昭にとって部下なのです。

   この時代、将軍職は公方様(クボウ)とも呼ばれていました。

   信長は、義昭を将軍に擁立した時点で、自分の利用する道具程にしか考えていませんでしたが、だからといって、簡単に切り捨てる事も、暗殺する事も出来ませんでした。

   何故なら、信長が天下(国政)の中枢に居続ける事が出来るのも、征夷大将軍という権威のおかげであると言う事を信長自身がよく分かっていたからです。

   信長は、織田軍と言う最新の軍隊、軍事力によって、他国の諸大名を討伐し、軍事力を拡張する事により領国を拡大していく事で、義昭をも懐柔させようとしていました。

 

   余談ですが、何故、織田軍が武田軍と並び称される最強の軍団だったのか。

   一つには、兵農分離を行なう事により、武士が農業労働から解放されて、軍事専門職となった事。

   現代に当てはめると、転職と同じ意味と思っていいと思います。

   武士の起源は鎌倉時代にあり、武士とは、一部を除けば、その殆どが元々武装した農民です。

   ところが、時代が下り戦国時代になると、農民以外の、どの職種も自衛の為に武装する様になっていました。

   とかく、応仁の乱以後の政権は不安定、ほぼ無政府状態に近い環境であり、日本は、極度に治安が乱れていた為、武士ではない多くの民衆が刀を持って自衛していました。

   その意味でも、兵農分離は、農家だけを指すものではなく、商業者、流通業者、漁業者なども同じでした。武装商人は、武士専門職となるか、商業専門職になるかを迫られます。

   信長が楽市楽座(主に信長が進めた近世日本の経済政策)を成功させ、城下町に経済力を付けていくと、城下町に移住した生産者は、武装する事を禁じられ、農業や漁業、商業専門職となり、武士専門職となった者は、生産活動の繁忙期や農繁期であっても、いつでも戦場へ出撃出来る様な、武士専門職となる事が領国経営をより成功の循環に繋げていきました。

   つまり、楽市楽座と兵農分離が相乗効果によって軍事力、経済力が同時に向上し定着していくのです。

   この信長が始めた政策によって生まれた武士専門職が、やがて戦国時代末期から幕末にかけて侍(samurai)、士族などと言われるようになっていきます。

 

   織田家以外の諸大名が統治する領国では、兵農分離などを行なっていなかったので、農繁期や、収穫時期まで合戦が食い込む事は、領国経営に打撃を与えると同時に、農家の不平不満を募らせ、戦場の士気統率力低下を招いた末、合戦の勝敗にも影響します。

   越前の朝倉軍、甲斐の武田軍は正にその最たるものです。

   次に大きいのは、合理的な鉄砲隊の編成や兵士の背丈よりも高い長槍の装備など最新鋭の武装と部隊を備えていた事などが挙げられます。

 

◼︎意外な人間像

   信長の意外な側面。信長は、ひょうきんな側面も持っていた様で、謡曲「敦盛」を舞うなどと言う光景は、ドラマでもよく紹介されていますが、基本的に踊り(能の舞や猿楽の事)は好きだったらしく、又、周囲の人間にあだ名をつけるのが、お得意だったと言われます。

   一番有名なあだ名は、ご存知の秀吉で、猿やハゲ鼠。加賀百万石の前田の殿様は、幼名からとって「犬」。光秀はキンカ頭。キンカとは金柑の事です。子供達には、全てあだ名をつけていた様です。

   信忠は奇妙。信雄(ノブカツ)は茶せん。信秀は大ボラ。信高が小洞、と言う具合です。

   前述の通り、能の舞や猿楽の他にも、趣味が多彩な殿様で、特に相撲、馬、鷹狩りは好みだったようです。

   基本的に、芸能にはよく通じていたと言われます。

   中でも、猿楽、狂言や田楽といった、こうした生の舞台による芸能は、当時、全て寺社で取り仕切り、催すのが主流だったそうです。

 

 

出典:逆説の日本史 井沢元彦著

Wikipedia Japan

天下人の夢 津本陽、二木謙一著

 

織田信長辞典 西ケ谷恭弘著

 

   乱筆、乱文、長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

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