・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
2019年(H30)、反日国家の悪癖増長は留(トド)まる事を知らず、独善的なBig China、Small China(Special Asia)3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちて、互いに滅びの道を歩んでいた。
一方G7Nationsは、更なるグローバルな弱肉強食の世界に突入しようとしていた。
The XXX Files ・・・19th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
We Are Sumer Japanese・・
Sub Title "Anti'Japanの向こう側"
Han-nichi Key Words Laboratory .
(FunnyBomb).
■越前・朝倉氏
信長にとっては、軍事力拡大が威嚇の道具そのものになり、義昭を服従させる強制力となります。
将軍義昭は、京都をも楽市楽座によって手中に収めた信長に嫉妬心を抱いていました。
当時、織田軍は、尾張(織田家の領国)、美濃、伊勢、近江(オウミ)、三河、遠江(トオトウミ)、山城、摂津、和泉、大和を手中に収めていました。
このうち、山城、摂津、和泉、大和、河内を畿内と称します。
信長は、謀略戦も得意でした。
伊勢は、家臣、滝川一益を派遣して謀略戦により、敵将を獄門に晒す事なく、北畠具教の所領を織田家へ譲る事を認めさせ織田の領国となりました。
信長は、覇権拡大の為に最初の標的を越前の朝倉義景に絞ります。
当時、越前の朝倉家と織田家は奇妙な因縁がありました。
朝倉家は、越前守護代の家柄であり、織田家と言うのは、元々はその越前守護代の家老(部下)の家柄だったのです。
信長は、その朝倉義景に対し、今や自分の意のままである将軍・義昭の名義を利用して、勝手に京都への上洛命令(通達)を発しました。
当時において、将軍義昭と信長が反目しあっていた事は、公然の事実であったし、いくら将軍名義の通達が発せられたとしても、それが将軍の本意ではなく、ニセ文という事は火を見るよりも明らかでした。
朝倉から見ると、越前守護代の家老の家柄だった織田が、この朝倉家に偽の上洛命令を突きつけるとは不届き至極・・などと言った心境でした。
しかし、信長の立場から見ると、朝倉がその様なニセ文を突きつけられて、反発する事は織り込み済みで、十中八九朝倉は、上洛命令を無視する事も先読みしていたと言います。
しかし、朝倉が上洛命令を拒否したとしても、次の手として越前の領主は将軍の命令に背いたとして、信長が、朝倉家を討伐する正当な大義名分が整います。敵将に直接、刃を振りかざすのではなく、手を汚さずして、我が軍門に落とす事こそが謀略戦の真骨頂なのです。
この上洛命令に拒否した事を大義名分として諸大名を追討するという謀略戦術は、後の秀吉、家康も継承しています。
◼︎姉川の合戦と浅井長政
元亀元年(1570)4月20日、織田軍は、京都より、越前に出陣します。
将軍・義昭名義の上洛命令を拒否した越前・朝倉氏の領国を討伐する為です。
この時点で、信長にとって甲斐の武田信玄を討伐する事は、まだ時期尚早でした。
相手は武芸、馬術を極めた武田の騎馬軍。
源氏の義経軍以来、最高の騎馬隊なのですから。
しかし、信長には、ここで1つの誤算がありました。
近江(厳密には北近江)の大名・浅井長政は味方だと言う誤算です。
京都から、又、当時の信長の拠点・岐阜からでも、越前へ向かうには必ず近江を通過しなければなりませんでした。
近江を何事もなく通り抜けた信長でしたが、織田軍本隊が越前に到着し、戦闘を開始すると突如、浅井長政は、義兄でもある信長を裏切り、反旗をひるがえしたのです。
浅井長政と言えば、信長の妹、お市様の夫だからと信頼しきっていた為、信長は無警戒無防備の状態でした。
長政の裏切りの報を聞いた信長は、最初信じなかったと言います。
織田軍の本隊は、浅井・朝倉連合軍に挟み撃ちとなり絶体絶命となります。
窮地を脱出した織田軍は、一度本拠地、岐阜城へ命辛々退却しました。
シンガリを務めたのは、秀吉軍です。
元亀元年は信長にとって、更なる不運の年となりました。
摂津の石山本願寺が挙兵したのです。
信長の反対勢力は、浅井・朝倉軍だけではなくなっていました。
ほぼ同時に、甲斐の武田軍も挙兵します。
本願寺勢力は、浅井・朝倉連合軍に加勢し姉川の合戦に参戦しています。
信長は、岐阜城で戦略方針を再考します。
義弟の浅井軍もターゲットにせざるを得ませんでした。
信長は、近江に佐久間信盛軍、柴田勝家軍を配備します。
シンガリを務めた秀吉軍と、徳川軍が岐阜城へ帰還するのを待って、信長は、朝倉のみならず、浅井軍にも逆襲をかける為、織田・徳川連合軍となって、再度、越前の小谷城へ出陣します。
浅井・朝倉連合軍と、織田・徳川連合軍は、姉川を挟み、北側に浅井朝倉、南側に織田徳川が布陣します。
織田徳川連合軍が勝利します。
浅井朝倉連合軍は、再起を狙い退却、比叡山延暦寺に敗走します。
信長は、横山城を包囲し、またも秀吉軍を城番として駐留させ、自身は京都の義昭の元に帰還します。
これら、反信長勢力の挙兵は、将軍義昭の差し金でした。
浅井朝倉、武田、三好三人衆、叡山延暦寺、石山本願寺と結集した反信長同盟は、巨大な勢力ではありましたが、大きい組織であればある程、リーダーが必要となります。
彼等勢力には、リーダーが不在でした。
唯一、中心となって取り仕切る事が出来る立場の人間は、将軍義昭ただ一人でした。
しかし、義昭にその能力はありませんでした。
第一、義昭は秘密裏に反信長同盟を結集したものの、将軍職と言うポストは維持したいが、それには利害の反する信長の軍事力と言う後ろ盾が必要、と言うパラドックスの状態にありました。
義昭は、最終的に反信長同盟と織田軍との間に入り、和睦の仲介役と言う訳の分からない行動をとります。
義昭は、将軍のポストを手に入れたが早々、好意で贈った副将軍の地位を一蹴したり、殿中御掟と言う挑戦状を送ってくる信長が憎かったのでしょう。
しかし、信長の面前に出ると、恐怖の余り真正面から、反意を口にして議論する事が出来ないと言う状態だったのではないでしょうか。
が、しかし、そこは腐っても将軍です。
講和は進み、織田軍、反信長同盟の間に和睦が成立し、浅井朝倉の残党は、叡山を下山して、領国へ帰っていき、三好三人衆、一向宗石山本願寺も武装解除しました。
ただし、この講和は、一時的なものに過ぎませんでした。
信長と反信長勢力の緊張は、この後にも続きます。
一つだけ和睦に応じない反対勢力がいました。比叡山延暦寺です。
元亀2年(1571)1月1日、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちせよ❗️と下知を出します。
To be Continue
出典:逆説の日本史 井沢元彦著
Wikipedia Japan
天下人の夢 津本陽、二木謙一著
織田信長辞典 西ケ谷恭弘著
乱筆、乱文、長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)