・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
2019年(R1)、反日国家の悪癖増長は留(トド)まる事を知らず、独善的な特亜(Special Asia)3国は恨み、虚言、汚物に満ちて、互いに滅びの道を歩んでいた。
一方G7 Nationsは、更なるグローバルな弱肉強食の世界に突入しようとしていた。
The XXX Files ・・・19th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
We Are Sumer Japanese・・
Sub Title "Anti'Japanの向こう側"
Sumer-Japanese suite Lounge
(FunnyBomb).
■尾張の大うつけ
"人間、50年‼️。化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきかッ" 信長公がよく歌った、敦盛の一節です。
織田信長は、天分3年(1534年)5月12日、尾張の地方大名・織田信秀の三男として誕生しました。
信長と言えば、織田上総介信長、尾張の大うつけ、三郎信長、幼名・吉法師。
名前だけで沢山ありますね。
近代に入る迄名前は、つけ放題、変え放題だった様です。
元服前の信長は、家臣を引き連れて街を奇妙な服装でまかり通り、瓜や柿などを立ち喰いしながら闊歩していたと言われています。
また、生涯を通して、固定観念に囚われず予想できない言行に走る事から「尾張の大うつけ」と言う異名で侮蔑されていました。
尾張領国を制する以前の信長は、一般的に言われる所謂、気性が荒く、残虐冷酷で、苛烈な性格と言う事実は認められず、逆に気が長く慎重な性格で、情に熱い人物だと伝えられます。
その頃、信長は那古野(ナゴヤ)城々主で、尾張の領国経営には、父と共同で当たってましたが、両親も家臣も、家督は弟、信行に譲ると言う意図が透けていました。
家臣団も「うつけの三郎様が家督を継ぐなど、まっぴらだ」と言う。
母・土田御前は、四男信行をちょう愛し、信長は、そんな母親の愛情を微塵も受ける事なく成長したと言えます。
信長の女性観について、こういう見方があります。
信長は、生涯に渡って母、土田御前からの愛情を受けずに育った反動の為か、マザコンと批評する文献も見られますが、確かに、生駒吉乃や息子達の乳母、又、自身の叔母・岩倉殿などと言う年上女性やバツイチとの交流が多かったようです。
因みに、吉乃との間に出来た子が信忠、信雄(ノブカツ)、徳姫です。
又、苛烈、冷酷と言うイメージから読み取ると、一見女性にも乱暴狼藉や暴言を吐くかとも思いきや、それは、全くの思い違いで女性に対する配慮も充分確認する事が出来ます。
信長の目につくところで、女性にわいせつ行為や狼藉を働いた者は、不届き者として、即座に斬り捨てられた、とか。
秀吉の正室、後の北の政所(マンドコロ)、於祢(オネ)とは、安土の城下町に秀吉一家が越してきた折に手紙を送っています。
■信長と北の政所・於祢(オネ)
話がそれますが、この字からして、ネネと読むのはおかしいです。
信長は、筆まめでもありました。
安土城へ越した際、おねは、お土産を信長に届けました。
その土産について "見事で見栄えがして筆にも尽くしがたい程だ。その方の土産が余りに見事であるから、お返しする値の品が見当たらなく、今回は返しの品はやめる" とか、"見目ぶり形である容貌まで、いつぞや会った時より、美しく勝っている" と文にしたため女性の容貌を褒める事も忘れません。
これは、全て(現代の我々にとっては)実際の信長の言葉です。
また、女房の役目に対しての文章が "これ程才色兼備なおねに対し、藤吉郎が何か不足を申すなら言語道断で、あってはならない。" とか "藤吉郎程の人物とは二度と出会えないだろうから、身持ちをよく、寛大に如何にも神さまらしく重々しく振舞って、嫉妬がましい事があってはならない。ただし、女房の役目として言いたき事がある時は、申したい事を全て言うのでなく、ある程度に留めると良い。" などと諭(サト)しています。
信長の、秀吉とおね二人を気遣う姿が伝わってきます。
■正室・濃姫
信長が、正室・濃姫と結婚したのは、正直なところ、美濃を攻略する為の、父・信秀による政略結婚によるものです。
天文18年(1549年)2月24日に、二人の婚礼は行われました。
信長18歳、濃姫15歳の頃です。
濃姫の名の由来ですが、実際にそう呼ばれていたかどうかは不明ですが、ただ、信長の正室と言う身分ともなると、ファーストレディです。
ファーストレディに対して、「姫」と呼ぶのは、近代でも近世でも余り現実的ではないのです。First Lady に対して失礼な話です。
美濃の女性だから濃姫なのですが、仮に呼び名とすれば、お濃の方や、濃御前が正しい呼び方となります。
一番正しい呼び方があります。
日本人の名前は、殆どが実家の地名に由来します。となると、濃姫の正しい呼び名は "鷺山殿" (サギヤマ)です。
斎藤道三の居城が鷺山城だからです。
意外なエピソードがあります。
結婚した後の信長は、相変わらず大うつけとしての奇行を辞めようとしませんでした。
ある日、濃姫は毎夜深夜に寝床から抜け出す信長を不審に思い、思い切って尋ねます。
「夜中にどこに通っているのですか」。
すると、信長はこう言ったそうです。
「稲葉山城で、道三殿の家老が謀反する手はずあり、この謀反の知らせが狼煙で届くのだ。」と答えたと言います。
ただし、この話の真実は分かりません。
しかし、当時の政略結婚は、正に家同士の利害が相反し、夫婦は互いに家の為に、けん制し、配偶者の家の状況を実家に報告するのが通例だったようですから、夫婦仲もどこまでのものだったかは、想像に難くありません。
■消えた濃姫
濃姫の記録は、信長が美濃奪還の後辺りから、忽然と第一次資料から足取りが消えます。
信長が、生駒の吉乃と同居し始めるのも、この頃からと言われます。
吉乃様は、この頃から、事実上の信長の正室と考えられます。
濃姫は、どこへ行ったのでしょう。
唯一の手がかりは、お墓です。
京都の大徳寺に織田家のお墓があります。
その中には、「胡蝶の墓」と言う標示が近年付けられたそうです。
胡蝶とは、濃姫の別名です。
そこには、慶長17年(1612年)に没した旨、刻まれているそうです。
慶長17年だとすれば、本能寺の変から、30年後に亡くなったと言う事になります。
とすれば、単純計算で濃姫様の享年は、82と言う事になりましょうか。
父・信秀が、天文20年(1551)病により、床に伏します。
信秀には、信長を含め、総勢24人の子がいましたが、正室・土田御前との間の子は、僅か3人だったと言います。
天文21年(1552)3月に、信秀は後継者を明言しないまま急死します。
信長は、父の仏前に焼香を投げつけたと言われます。
父・信秀の居城、末森城は弟・信行が相続します。
■一家の出世競争を征し一国を征する
弘治2年(1556年)は、信長にとって最初の試練の年となります。4月に、義父・斎藤道三が息子の斎藤龍興との戦で討死、同年8月に、稲生(イノウ)の合戦が勃発し、弟・信行の軍勢と激突します。
軍配は、信長に上がりました。
これを機に、柴田勝家を主とした織田家の重臣は、信長に就くようになります。
柴田は、元々信行側に就いていました。
この時、信長は弟・信行を無罪放免にしましたが、尾張の既得権に執着していた信行は、母・土田御前や美濃の斎藤龍興等と密約し、何度も信長を暗殺しようとした為、3度目に信長は、病と偽り信行を清洲城におびき出して斬り捨てます。
織田家と言っても、弾正忠(ダンジョウノジョウ)家、大和守(ヤマトノカミ)家、伊勢守(イセノカミ)家とあり、それらは三奉行と呼ばれていました。
信長は、織田弾正忠家の血筋です。
やがて信長は、それら織田家中の兄弟、叔父、守護代等三奉行との紛争を平定し、織田家の家督争いに終止符を打ち、永禄2年(1559年)尾張一国の統一を果たします。
そして信長は、尾張に忍び寄る大軍勢を討つ為、危険極まりない戦に打って出ます。
信長にとって、親子二代に渡る仇敵、相手は駿河・遠江の大々名、今川義元です。
出典:逆説の日本史 井沢元彦著
Wikipedia Japan
天下人の夢 津本陽、二木謙一著
織田信長辞典 西ケ谷恭弘著
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