源氏無双7 | box03のブログ

box03のブログ

 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2019年(R元年)、反日国家の悪癖増長は留(トド)まる事を知らず、独善的なBig ChinaSmall ChinaSpecial Asia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちて、互いに滅びの道を歩んでいた。

   一方G7Nationsは、更なるグローバルな弱肉強食の世界に突入しようとしていた。

   The XXX Files ・・・19th .

Future Generation ❗️

真実と闘え・・・

 

image
 

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   We Are Sumer Japanese・・

   Sub Title "Anti'Japanの向こう側"

   Han-nichi Key Words Laboratory .

FunnyBomb.

image

 

Back To

 

 

■第14代執権・北条高時

   正和5年(1316年、実質、最後の北条得宗家当主となる北条高時が、執権職に就任します。時宗の孫に当たります。

   北条得宗家は、鎌倉幕府の存続の為、謀反の匂いがする足利尊氏の妻子を人質にしていました。

   足利尊氏は、鎌倉幕府の筆頭御家人でもあり、完全に幕府側の人間です。

   しかし、源氏が中心となって起こした筈の鎌倉幕府が、数十年に亘って、北条執権政治の支配下となっている事に、同じ源氏の血脈として、長い間、疑念を抱いていました。

   当時の世情を第一次資料・太平記は、こう記録しています。

   天下国家は乱れに乱れ、1日として安穏な日はなく、民の多くが天寿を全うする事が出来なかった・・

   この背景には、13世紀(12011300中期から後期にかけて、悪党の勢力が台頭していた事が一因となっています。

   悪党は、一般常識や階級身分、社会常識に興味がなく、特に公家、天皇、幕府に批判的で、奇抜で派手な衣装をまとった、後の婆娑羅や、かぶき者と思想、主義は共通していた向きがあります。

   彼等は、夜討、強盗、山賊、海賊を働く不逞の輩でしたが、共通して、幕府や体制側に不満を抱く者ばかりでした。

   なお、悪党と言う語句の意味は、悪人とイコールではありません。

   彼等は悪事を働く以外にも、元寇などでは、戦場に赴き傭兵として幕軍に加勢する事もありました。悪党も、元は武士なのです。

   しかし、幕府は、警察業務も担っている為、悪党鎮圧業務は重点的に行われ、悪党と幕府は、基本的に利害が一致しません。

 

■後醍醐天皇即位

   文保2年(1318年2、後醍醐天皇が即位します。かねてから後醍醐は、朝廷にとって疎ましい存在、鎌倉幕府を倒す考えがありました。世論も、幕府に対する不平不満が募り、武家政権の屋台骨は傾き始めており、倒幕には絶好の機会です。

   後醍醐天皇は、そうした潮流に乗って、体制に不平不満を持つ悪党一団も倒幕派勢力として取り込んでいました。

   楠木正成は、商業や運輸業などを興して近畿で勢力を拡大した新興武士団の棟梁と言う顔を持つ反面、悪党の一団でもありました。

   楠木も、後醍醐天皇の呼び掛けに応じ、倒幕派朝廷軍に参加した一人でした。

   楠木は、後醍醐天皇が彼を重用した事をキッカケに、そのご恩に報いようと、倒幕に命をかけ、最後まで後醍醐天皇と運命を共にする事を心に誓います。

 

■土地問題が鬼門となる

   一方、執権・北条高時は、政治を顧みなかったと言います。こうした中でも、昼夜の別なく、田楽を催し、政治を正そうとしませんでした。

   幕府内では賄賂が行き交い、土地の紛争さえ満足に解決できない有様でした。

   この時代、土地の支配権は戦で命がけで手柄を上げた武士が、褒美として幕府から与えられるものでした。

   一所懸命とは、この時代に作られた言葉で、「1つの土地を命がけで守る」と言った様な意味です。

   それ程までに、武士にとって重要な土地の支配権を幕府はなえがしろにしていたのです。

   「ご恩と奉公」と言う言葉の意味は、戦が始まれば、幕府の為に駆けつけて一所懸命奉公する。

   その代わりに、手柄を上げれば、恩賞として土地を与えられると言う武士と幕府との信頼関係を意味します。

   時代は、再度公家衆と幕府の一部の人間に利権が集中すると言う、平安時代末期の状態まで逆戻りしていたのです。

 

   実のところ、鎌倉幕府は、元寇の戦以来、武士に恩賞を分配する事が出来ずにおり、その頃から武士団の不満は蓄積する一方だったのです。

   通常、国内の戦であれば、尾張の織田と三河の徳川が交戦し、徳川が勝利したとすれば、徳川は、尾張を自分の所領に収用し、軍功の高い三河武士に対し、恩賞として尾張の土地を配れば良いのです。

   元寇の場合、相手の領国は大中華、小中華、つまり海外だった為、領国を切り取る事自体叶いません。

 

   又、世が平和になり、秩序が安定すると戦による新たな所領が増えない為、恩賞を分配しようにも、その分配する筈の土地がありません。

   皮肉にも、平和になればなるほど、武士には恩賞が行き渡らず、それが世論の不平不満となり蓄積される。

   北条得宗体制が確立された時代とは、正にそういう時代でもあったのです。

   北条高時の代、それはピークに達していました。

 

■元弘の変勃発、後醍醐天皇挙兵

   元弘元年(1331年、後醍醐天皇が倒幕の為、挙兵します。元弘の変の勃発です。

   幕軍は、鎮圧の為、近畿に20万余の軍勢を出陣させます。尊氏は、その時、幕軍の大将として参戦します。

   幕軍は、朝廷軍倒幕派が立て籠もる河内の赤坂城(三重県熊野市)へ向かいます。

   朝廷軍の大将は、楠木正成でした。

   数の上で、幕軍が優勢でした。

   戦力では叶わない朝廷軍は、劣勢となり、楠木は城に火を放ち、逃走します。

   後醍醐天皇は、捕らえられ、流刑に処され隠岐に幽閉されます。

 

   しかし、尊氏はこの一連の合戦で、幕軍の将でありながら、幕府に不満を持つ勢力が全国に広がっている事を実感します。

   尊氏は、最早幕府には、武士団の心を繋ぎ止める事は不可能だと悟り、密かに倒幕の想いを募らせて行きます。

 

■鎌倉幕府終焉

   元弘3年(1333年、後醍醐天皇が流刑地の隠岐を脱出する事に成功し、再び挙兵します。

   幕府は、再度鎮圧の為、幕軍を出陣させます。

   尊氏は、この時も幕軍として参戦します。

   尊氏は、進軍の途中、三河の足利の所領に立ち寄ります。

   ここで足利の重臣達に倒幕に方針転換すべきか否かを打ち明けます。

   重臣達は、こう言ったそうです。

   今迄、一同、尊氏様のご決断をまだかまだかとお待ちしておりました。めでたい事でございます。」と。

   尊氏は、これによって倒幕を決意します。

   決断するや否や、素早く後醍醐天皇の元へ使者を送り、倒幕の許可を取り付けると、全国の武将に密書を送りました。

   各地の有力武将が、続々と尊氏軍に合流し、三千だった尊氏の軍勢は、瞬く間に五万を数えました。

   倒幕朝廷軍の中には、東国の武将、新田義貞や、新興武士団の棟梁、楠木正成も参戦しています。

   57日、尊氏の軍勢は、京都の六波羅探題を襲撃します。鎌倉幕府は、新田義貞の軍勢が攻め滅ぼしました。

   この合戦によって、幕府は約3週間で崩壊します。

   執権・北条高時は、多くの家臣達と共に、自害し果てます。

   元弘3年(1333年5、北条高時永眠、享年30歳。

 

■建武の新政施行、北条時行の逆襲

  鎌倉幕府の崩壊により、元弘3年(13336月より、平安時代以来の朝廷直轄の政治が始まります。

   後醍醐天皇による、建武の新政です。

   翌年から、元号を建武に改名します。

   余談ですが、尊氏の名は、元々高氏でした。

   後醍醐天皇が、建武の新政に成功したのを機に、尊いと言う意味の尊を下賜され、尊氏に改名したものでした。

   建武2年(1335年7、中先代の乱が勃発。   

   北条高時の遺児、時行が鎌倉幕府再興を目指して挙兵し、鎌倉を占拠します。

   時行の挙兵に呼応する様に、陸奥や北陸でも、鎌倉幕府の残党や新政権の反対派が武装蜂起しています。

   尊氏の軍勢は、すぐさま北条の軍に応戦します。尊氏軍は圧倒的でした。

   鎌倉は、尊氏が再び奪還します。

   時行は、この時、捕らえられる事なく、落ちのびますが、この後も、建武4年(1337年文和元年(1352年)と、時行は鎌倉奪還を狙い挙兵した為、最終的に、文和2年(1353年鎌倉で捕らえられ処刑されました。

   これら鎌倉幕府崩壊から、室町幕府が発起されるまでの間を南北朝時代と言い、朝廷が2つに割れた時代(南朝:後醍醐天皇勢力、北朝:足利尊氏、光明天皇勢力)でもありました。

   この後、後醍醐天皇は、自身が目指した、公家中心の朝廷直轄政治に失敗します。

   膨大な政務処理や、土地問題の解決が自身に集中し過ぎた事が一因とも言われます。

   土地問題が解決できなければ、武士団の支持を獲得できずに、政権の支持率は得られません。やがて、後醍醐は公家衆からも見限られます。

   又、武士団の期待を一身に背負っている尊氏は、新政権に失敗した後醍醐天皇勢力を見限り、倒幕派として共に働いた両雄は、やがて敵味方の関係となります。

   新たな時代の源氏、尊氏の勢力(北朝)と、南朝・後醍醐天皇勢力の武将・楠木正成は、建武3年(1336年5に勃発した湊川の戦いで激突する事となりますが、一度は同盟軍となり戦友でもあった楠木に、尊氏は中々トドメをさす事が出来ず、降伏するのを待ちましたが、死期を悟った楠木は自害を選びます。後醍醐天皇と運命を共にする道を選んだのです。

   尊氏は、この後、武士による武士の為の政治、頼朝公以来の源氏直系の血脈による武家政権を再興する為、室町幕府、初代征夷大将軍への道を歩み始め、南北朝時代に終止符を打つべく奔走します。

 

To be Continue 

 

出典:その時歴史が動いた

逆説の日本史 井沢元彦著

鎌倉幕府滅亡と北条氏一族 秋山哲雄著

Wikipedia Japan