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(무섭지 않아요)
Sub Title "旧約聖書と第二神殿破壊"
■旧約聖書の構成
聖書の筆写を行った者、即ち書記(ヘブライ語でソーフェール)が、高度に専門的な技術を持った人々で、極めて真剣に仕事をした事は、全ての証拠に照らしてほぼ間違いない事実だと言います。
一部の間では、彼等は書記の氏族と呼ばれていました。
聖書を後世に伝承していく作業は、モーセ五書の中でもこう表現されています。
『私が命ずる言葉に何一つ加えてはならない。又、それらを減らしてはならない』(申命記第4章2節)。
聖書の言葉は、神の意志によって修正する事を禁じられています。
その神の御意志に従って「書記の氏族」達は、まずモーセ五書から可能な限りの正確な書記に着手します。
モーセ五書とは、便宜上、5巻の巻き物に別々に筆写したところから、そのネーミングがつけられました。
⬛️モーセ五書
「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の5巻です。
この5巻に、「預言者」(ヘブライ語でネヴィイーム)が加えられました。
この中には、「前の預言者」と「後の預言者」があります。
﹅前の預言者
前者は物語と歴史書の種類、「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」「列王記」です。
﹅後の預言者
後者は予言を語る説教者の書物、「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ミカ書」「ナホム書」「ハバクク書」「ゼファニヤ書」「ハガイ書」「ゼカリヤ書」「マラキ書」です。
そして、第三分類としては諸書(ヘブライ語でケトゥヴィーム)があります。
これらは通常「聖なる書」(ハギオグラファ)として知られています。
◆聖なる書
この中には、「詩編」「箴言(シンゲン)」「ヨブ記」「雅歌(ガカ)」「ルツ記」「哀歌」「コヘレトの言葉」「エステル記」「ダニエル書」「エズラ記」「ネヘミヤ記」そして歴代誌上下が含まれます。
全体を3部に分けたのは、意図あってと言うより、むしろ歴史的発展を反映したものだと言います。
公の場での朗読がユダヤ教徒の礼拝で枢要な位置を占める様になるにつれ、更に多くの書物が付け加えられ書記がそれを筆写しました。
モーセ五書、或いはトーラーの一部は、BC622年に早くも正典とされています。
ほかの書物は徐々に正典として認められていきました。
その過程が完了したのは、BC300年頃です。トーラーを除き、正典編纂に当たってはどの様な基準が適用されたかは、今のところ分かっていません。
⬛️ヘロデ神殿
BC63年、ユダヤはローマ帝国の属州でした。
第一神殿破壊の後、イスラエルは新バビロニア、アケメネス朝、セレウコス朝、プトレマイオス朝、ハスモン朝と様々なネイションの統治を受けていました。
そして、第三次ミトリダテス戦争にローマ帝国が勝利した後、イスラエルはローマ帝国の属州に編入され「ユダヤ属州」と呼ばれる様になりました。
この場合、ユダヤ属州と言う呼称は第一次資料に基づく名称で、第一神殿破壊前のイスラエル統一国家とはイコールではありません。
ヘロデは、BC37年からユダヤ属州の国王に就任し、人々が帰還し再興されたユダヤの地を専制政治で治めていきます。
王は、ユダヤ人であるにも関わらず反ユダヤ主義者であり、ギリシャ・ローマ文明の理解者、支持者であり、残虐な暴君でもありました。
又、政治手腕に長けており寛大で建設的で極めて有能な政治家だったと言う評価も少なくありません。
しかし、同時に単純で、迷信に満ちており奇怪なほど自己中心的で、いつも狂気すれすれの精神状態であったと言います。
ヘロデ王は、多くのユダヤ人と同様、歴史的意識に富んでいました。
自分の事をソロモン王になぞらえたのは明らかです。
巨大な建造物、多額の寄付、公益の為の多大な出費、更に当時では珍しい福祉政策によって、自分の隆盛を轟かせようと考えていました。
王は、典型的ユダヤ人の元祖でもありました。利己的な慈善事業家です。
あの、ローマ帝国のシーザー皇帝の孫とされる アウグストゥス皇帝から、キプロス王の銅山を借用し、その産出収益の半分を受け取っていました。
ヘロデ王は、広大なエリアで税金を徴収し、アウグストゥス皇帝 と利権を分かち合いました。ユダヤ人達は真正の血脈の者、強制改宗された者共にラテン社会で急に人口増大へと繋がりました。
その数・・694万4千人。彼等はローマ帝国にしがみ付いていました。
ヘロデは、自らの権威を高める為、神殿を再建し城壁、塔を建設する大事業を始めます。
「ゼルバベルの神殿」をベースにして、改修し再建された神殿は、金銀の板で覆われ明るい太陽の光に照らされると、反射してきらめき輝くのが、何マイル先からも見えたそうです。
これを『ヘロデ神殿』と言って、公にはヘロデ神殿を指して『第二神殿』と呼んでいました。
⬛️ギリシャのアンチ・セミティズム
当時、ユダヤ人自らが語る宗教史は攻撃的だと受け止められていました。
文書で表現される様になった反ユダヤ感情の多くは、それに対してなされた一種の応答でもあります。
BC3世紀には、ギリシャ語を話すエジプトの神官マネトが、祖国の歴史を書き記します。
その一部がヨセフスのユダヤ古代史の中に伝わっています。
この中でマネトは、旧約聖書にある出エジプト記の物語を攻撃し批判しました。
マネトや、他のエジプト知識人達が出エジプト記を非常に侮辱として捉えていたのは明白で、マネトは同じ方法、書き記す事でユダヤ人に対抗したのでした。
エジプトの反ユダヤ主義は、ギリシャ人によるエジプト征服より明らかに古いものでした。
マネトの時代以降、最初の反ユダヤ的中傷と捏造が始まりました。
そして、多くのギリシャ人作家は、それを模倣し脚色し、ユダヤ人はトーラーによって他の誰にも、特にギリシャ人には、好意を示してはならないのだと固く命じられていると説きました。ユダヤ人への批判は、ハスモン朝成立とそれに伴うギリシャ風異教都市に対する宗教的圧迫が強まるにつれ、益々増大します。
ユダヤ人は、いつでも流浪の民であり、ユダヤ人はイスラエルに古来住んでいた先住民を、小児殺し、人食い、殺人者など言葉ではとても表せない行為をする罪深い者だと罵り(ノノシリ)、「初めから呪われた人種」だと吐き捨てています。
◆ユダヤ戦争と第二神殿破壊
アレクサンドリアは、ユダヤ人の人口が非常に多く、アンチセミティズムの一大拠点となっていました。
当時、ローマ帝国の皇帝はあの有名な暴君ネロでしたが、ネロはユダヤ人に対する個人的敵意は何ら抱いておらず、むしろユダヤ教への改宗者でもありました。
しかし、ネロの死後、ユダヤ人とローマ人の関係は確実に悪化の一途を歩み始めます。
AD66年、エルサレムで騒乱が起きます。
ギリシャ人とユダヤ人の間で起きた訴訟でギリシャ人が勝訴すると、ギリシャ人等はユダヤ人居住区に行きユダヤ人に乱暴狼藉を働いて勝利を祝いました。
時のイスラエル総督ゲスィウス・フロルスは、エルサレム神殿の宝庫から金を強奪しようとしました。
あちこちで戦闘が起こり、掠奪は頻発します。ユダヤ人居住区は襲撃され、ユダヤ人の家は放火されました。
難民となったユダヤ人達は怒りに燃えて、ローマ軍を攻撃し、多くの兵士が殺されていきます。
この年に勃発した戦いをユダヤ戦争と呼び、ローマ軍は巨大な兵力を投入しエルサレムを包囲します。
この戦争は、AD70年になっても続いていました。
ローマ人は、ヘロデ神殿を奪取します。
ユダヤ人は、再び奴隷売買され、虐殺され、又は生きて捕囚されました。
包囲されたエルサレムは陥落し、廃墟となり、第二神殿(ヘロデ神殿)は破壊されました。7年に及ぶ戦争の末、ギリシャ人とユダヤ人との対立は終わる事はありませんでした。
ユダヤ戦争は、最終的にAD74年に終戦を迎えましたが、この年にローマ司令官は、ユダヤ反乱軍が大勢籠城しているマサダ要塞を攻撃しました。この要塞が、反乱軍最後の拠点となっていました。
陥落したマサダ要塞に避難し立て籠もっていた1000人弱のユダヤ人は集団自決すると言う壮絶な最期を遂げました。
これらの戦争は、第一次ユダヤ戦争と呼ばれ、破壊を免れ残った第二神殿の一部は、エルサレムにある「嘆きの壁」として現在も残っています。
「嘆きの壁」は、具体的にはヘロデ神殿本体の部分ではなく、神殿を取り囲んでいた「西の外壁」が残ったものだと認識され、ユダヤ人自身は「西の壁」とも呼んでいます。
出典:ユダヤ人の歴史(ポール・ジョンソン著)、Wikipedia Japan、Naver(まとめSite)
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ大脳真皮質は正常(だと思いますが)・・・
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