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■教会・モスクの原形、シナゴーグ
バビロン捕囚時代に、ユダヤ人の信仰心が増大した、その際たる象徴が、シナゴーグです。
それまで、歴史上、その様な宗教施設はこの世に存在しませんでした。
なにしろ、キリスト教も世の中に存在しない時代です。
やがて、時代が下り、シナゴーグがキリスト教のチャーチ(教会)や礼拝堂になり、イスラム教のモスクの原形となっていきました。
史上初のシナゴーグは、バビロン捕囚の時代に生まれたのです。
そこでは、組織的に旧約聖書が朗読され教授されました。
ヨシヤ王の時代に行われた宗教改革の結果、バビロン捕囚以前にそれに近い場所が存在した可能性はありますが、その完成型が出現したのは、やはり捕囚時代を迎えてからでした。
指導者層と国民が一体的に築いたエルサレム神殿は、とうにアッシリアに潰され、存在しません。
指導者層には、祈るべき神殿がもうありません。
シナゴーグは、破壊されたエルサレム神殿の代用の役割を果たしていました。
又、旧約聖書は編纂され製本されていく過程でより一層便利に布教する事が可能となり、正典化、均質化を増していきました。
そして、顕著な禁欲的原理主義的色彩が見られる様になりました。
ユダヤの歴史では、厳格主義者がいつも勝利を収める傾向にありました。
ヤハウェの宗教を他の部族に広めたのは、モーセと言う律法主義の厳格者でしたし、又ヨシヤ王の宗教改革の際にも厳格主義者は勝利を収めていました。
アッシリアやバビロニアなど他国の侵略に耐えて生き延びたのは、妥協的な北のイスラエル国民ではなく、厳格主義者が多い南のユダ国の民でした。
捕囚が解かれた時、再度ユダヤ教の布教を再開したのは、そんな厳格主義者、律法主義者でした。
彼等には、運命の第一神殿破壊の際には、持ち合わせていなかった、正典化された旧約聖書とシナゴーグがありました。
■帰還とゼルバベルの神殿
19世紀になり、バビロンの宮殿跡から発見され、その後大英博物館に所蔵されている「キュロスの円筒」には、キュロスが自分の政策を次の様に記していました。
『私は世界の王キュロスである。偉大な神マルドゥクは、わが敬虔な行いを喜びたもう。私は、彼等全ての民を集め、彼等の故郷へ導き返した。そして、神々を偉大なる主、マルドゥクの命を受け、私は喜びの内にその聖所に置いた。私がその都市に送り返した全ての神が、我が治世の弥栄(イヤサカ)を日々祈り給わん事を。』。
ほぼこの時代に編纂された第二イザヤ書は、「キュロスにユダヤ人を帰還させる様命じたのは主である」と述べています。
エルサレムへの帰還を物語る書物、エズラ記の中ではキュロスはバビロニアのユダヤ人にこう語ります。
「天の神、主は地上の全ての国を私に賜った。この神がユダのエルサレムにその神殿を建てる事を私に命じられた。お前達の中で、この神の民に属する者は誰でも、神が彼と共にあれ、ユダのエルサレムに上っていって、イスラエルの神、主の神殿を建てるがよい」(エズラ記第1章2節-3節)。
BC538年、最初の帰還が試みられましたが、失敗に終わりました。
故郷に留まった(トドマッタ)貧困層のユダヤ人とサマリア人、エドム人、アラブ人等が協力して、捕囚民の帰還者が城壁を築くのを邪魔したからです。
BC520年、キュロス王の子ダレイオスの全面的な支援の下第二の帰還事業が試みられます。
その正式な指導者が『ゼルバベル』です。
彼は、ダビデの子孫である事に加えペルシャのユダ総督に任命された事によって、その権威は高まっていました。
4万2360人の捕囚民がゼルバベルと共に帰還しました。
神殿再建の事業が直ちに開始されます。
新しい神殿はエルサレム神殿(ソロモン神殿)よりも質素な様式で建築されました。
BC458年、エルサレムの居住区は、エズラに率いられる第三の帰還事業の波によって増強されます。
しかし、これも土地の所有権を巡る紛争が勃発し失敗に終わります。
BC445年、第四の帰還が始まります。
新たな一隊がエズラの下に到着しました。
今度のユダの総督は、ユダヤ人の指導者ネヘミヤが任命されました。
彼はペルシャ国の公務員でもありました。
外交官であり、政治家でもあり、行動力に富み、素早い速さでエルサレムの城壁を再建しました。第四の帰還では、ユダヤ人居住地も確立され大成功を収めました。
神殿再建も帰還事業も相変わらずの妨害工作に襲われる中での出来事だった様です。
神殿建築は、妨害を最小限に抑える為に夜間作業に徹し、作業員は武装しての工事となりました。
こうしてゼルバベルの神殿、所謂、第二神殿の原形は建立されたのでした。
⬛️そしてユダヤに平穏が訪れた
BC400年から200年までは、ユダヤ史の失われた世紀と言われています。
その間だけ殆ど記録がないからです。
シオンの地への帰還が果たされ、神殿が再興された為、彼等は幸福だったからなのかも知れません。
ユダヤ人は、自分達を統治してきた為政者の中でも、とりわけペルシャ人を好んでいた様です。
一度も反乱を起こさなかったからです。
それどころか、ユダヤ人の兵士は、ペルシャ人がエジプトの反乱を鎮圧するのを手伝っていました。
この頃、ユダヤ人はユダヤ教を故国ユダでもペルシャ帝国のどこでも自由に信仰する事が出来たのです。
黙して語らない時代、その「失われた世紀」は決して実りのない歳月ではありませんでした。
何かと言えば旧約聖書が、現代の形に纏められたのは、正にこの時代だったからです。
■カノン・正典化
ユダヤ人は、代々職人や絵かき、建築家になる者が少なく、代わりに書く事が好きな民族で、それは彼等の民族的習慣となり、それが故に古代最高の文学を創造した種族、その最高傑作が「旧約聖書」だという事が言えます。
「アピオンへの反論」の著者、ヨセフスは述べています。
「我々の間では、誰もが記録を残す事を許されている訳ではない。預言者だけがその特権を有しており、遥か彼方、遥か昔の歴史についての知識を、神の導きにより霊感を通じて得るのである。我々は、互いにつじつまの合わない矛盾した内容の書物を無数に有しているのではない。正式に認定された書は、全部で22あって、全ての時代の記録を網羅している。」。
正式な認定とヨセフスが述べたのは、「カノン」即ち「正典」を示唆しています。
カノンと言う語句は極めて古く、シュメール語で「葦」を意味した語です。
故に、「真っ直ぐな」とか「まっとうな」と言う意味も持っています。
ギリシャ人は、規則、境界、基準を指して使っていました。
各書物を記述し、一つに纏めた人々と、バビロン捕囚から帰還後正典が編纂された時それを筆写した書記達は、神から受けた霊感によって古代の文献が成立した事をつゆほども疑いませんでした。
そして、尊敬を持って可能な限りの正確さを込めて書き写しました。
出典:ユダヤ人の歴史(ポール・ジョンソン著)、Wikipedia Japan、Never(まとめSite)
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ大脳真皮質は正常(だと思いますが)・・・
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