隠されてきた親日国家 Vol.7〜Singapore2 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『Zipangu』Is Japanese 
Big Picture First.
Japan Is sanctuary .
J.FRB Hannichi Labo.
   Please Don't Korea❗️
   Long Time Ago・・
長い間、現実は歪められ、
情報は操作されて来た・・
   Truth ・・真実は動き始めた
The XX Files ・・・Fifth .
Future Generation !
真実と闘え・・・

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 I Want It . To Believe .(Funny !) 
Zipangu & Singapore
Independence Banzai⁉️
   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
   We Are Sumer‐Japanese・・
We Believe Batman ・・・
Even If Isn't You ⁉️
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■食事異文化
   シンガポールは、食通で懐に余裕のある人には涙が出る程嬉しい場所です。
   東京23区より小さい島国家でヨーロッパ各地、米国、日本、韓国、地中海周辺、ロシア、東アジア、東南アジア各地域の料理が食べられます。
   しかも、庶民料理から宮廷料理まで多種多様。日本人の味覚に合う味付けで出す飲食店も多くあります。
 
﹅朝食
   朝は、民族は違っても、近くのホーカーセンター(ホーカーズ)やフードコートと呼ばれる所に出かけて朝食を取る人も多いです。
   つまり出勤前に外食をすると言う事で、早朝から開店してる店、24時間営業のフードコートも多数あるという事です。
   華僑・華人達は、主にお粥やチーチョンファン、チュクイエという米粉を使った食べ物、中華揚げパンを良く食べています。
   マレー人は、ナシラマと呼ばれるココナッツミルクで煮たご飯に卵焼きや小魚、小エビのペースト・ブラチャンを添えた料理や麺に甘めのカレーをかけ、ゆで卵などを添えたミートボス。
   インド人は、ロティプラタやナンとチキンカレー、マトンカレー、豆カレーなど。
 
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﹅昼食
   近くのホーカーセンター(ホーカーズ)やフードコートで麺類や、ご飯に2、3種類のお菜をのせたものを食べます。
   それも、中華系、マレー系、インドネシア系のものが主流の様です。
   一口に中華と言っても、広東料理、福建料理、四川料理、北京料理、上海料理と幅広くそれぞれに独自の風味があり、私達に馴染み深いヤムチャやお粥は広東料理に入ります。
   ところで、ホーカーセンターとは、言ってみれば屋台村の様な場所の事です。
   ホーカーとは屋台の事。
   公営住宅地やバスターミナル、ショッピングセンター付近に出店している場合が多い様です。
   ホーカーセンターは、週末は勿論、平日の昼でも満杯となり、最早、シンガポール人には必要不可欠のもの、生活に密着したものとなっています。
 
   しかし、国民の生活水準が高くなるにつれ、エアコン付きのホーカーセンターがフードコートと呼ばれる様になります。
   一般的にフードコートは、ホーカーセンターよりも小規模で値段も高い場合が多い様です。
   衛生管理は徹底されているので、暑い気候にも関わらず食中毒は殆どありません。
   これだけ外食が浸透している理由として、高温多湿の気候が影響しています。
   食べ物が腐りやすい事です、また国民の7割を占める華人が胃に悪いという理由で家庭から弁当を持参しない事、低廉価格で食べられる事も理由として挙げられます。
   女性の就業率が高く、家庭で食事を賄う者がいない事も一因となっている様です。
 
﹅夕食
   夜は、家庭で大皿に盛った肉料理や魚料理、野菜やスープなど、3・4種類のお菜をつつきながら、ご飯を食べるのが主流です。
   華人は煮込み物の多い福建料理、広東料理。
   マレー人なら、ココナッツミルクベースでチリなどスパイスの効いたマレー風カレーで煮込んだ鶏肉料理や野菜の炒め物。
   インド人なら、ココナッツミルクやご飯を好む南インド料理、ヨーグルトをたっぷり使ったあまり辛くない北インド料理。
   という風に伝統的な食事をとる家庭が多いという事です。
   しかし、親しい友人が集まると、お気に入りの海鮮料理屋でエビ・カニ、魚介類を食べに行ったり、国境を越えて、隣のマレーシアの街ジョホールバルまで足を延ばす事もある程、国民の食に対する情熱は目を見張るものがあります。
   三度の飯とは言いますが、シンガポールには食道楽が多く、三食以外にブランチ、ティータイム、夜食を楽しむ国民も増えています。
   ただし、共稼ぎの家庭では、夕食もホーカーズやフードコートで外食、つまり一日の内、三食全て外食という事ですね。
 
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■マレーシア外交
   シンガポールにとって、国境を接する隣国マレーシアとの関係はインドネシアと並んで最も重要な関係です。
   シンガポール・マレーシア二国間の良好関係を示す象徴的プロジェクトとして「複合都市イスカンダル開発地域」があります。
   マレーシア政府が進める、マレーシア南端ジョホール州に、広大な工業団地、大学、病院等の集積区、テーマパーク、商業施設、住宅街などの複合都市を造成する一大プロジェクト、ジョホール州とシンガポールは、海峡を挟んで橋で繋がっています。
 
   毎日、多いと6万人もの人口がマレーシア・シンガポール間を往来しています。
   シンガポール政府のイスカンダルへの投資は活発化しています。
   二国間には、過去領土問題も存在しましたが、国際司法裁判所を介して決着し、最大の問題だった水供給の契約更新問題も決着するなど主要な未解決問題が決着した事があります。
   シンガポール国内の水の殆どは、マレーシア、ジョホール州から供給されます。
   つまり、マレーシア政府は、シンガポールの水の権利を握っているという事です。
   「水供給の契約問題」とは、マレーシアが旧マラヤ連邦時代、英国の自治領だったシンガポールとの間に締結した契約の事で、現在までシンガポールへの水はこの契約に基づいてマレーシアから供給されているのです。
   両国が対立する度にマレーシアは水供給停止を外交カードとしてちらつかせてきました。
 
   しかし、シンガポールは、下水再生水開発や海水淡水化事業の推進、そしてシンガポールは将来的に水の自給自足体制を確立すると発表します。
   水供給問題は、実質これらの事によって解消されます。
   両国は共に多民族国家で、ほぼ同じ歴史を共有します。
   しかし、分離後マレーシアはマレー系民族を保護する政策を進め、華人が7割を占めるシンガポールでは、全ての民族に平等の機会を与える政策へと異なる道を歩み、経済競争ではシンガポールが大きく引き離しました。
   こうした経緯は、両国を親密な関係にありながら、感情的な対立を引き起こす事もある二面性を持っている事を表しています。
 
■対中外交
   シンガポールと支那中共との関係は少し複雑です。
   と言うのは、先住民のマレー人よりも華人が殆どを占めるシンガポールの人口構成に起因した民族対立を国内的にも、国際的にも抑える必要に迫られていたからです。
   シンガポールにとって、対中関係は、支那との関係を意味すると同時に、国内に残る支那の影響力、つまり「支那中共の影」に対抗する政策という一面を持っています。
   対中外交では、シンガポールは支那・台湾のどちらとも国交を結ばず政治的側面での接触を最小限にとどめ、貿易面で経済交流を中心に実質的な関係を拡大する政経分離政策を取ってきました。
 
   支那中共は、経済開発のノウハウを小国シンガポールから学び、それだけでなく『シンガポールの国造り』の成功例を支那中共の近代化に利用(搾取)しようとしました。
   現在、シンガポールにとって支那Chineseは第二の貿易パートナーであり、最大の貿易相手国となっています。
   同じ支那人、漢人なのですから、当然と言えば当然の帰結とも言えます。
 
■対米関係
   シンガポールは、1965年(S40)の独立直後一時期、非同盟中立外交を目指すだけでなく、極端な反米不信を露わにした事がありました。
   米国のCIA局員が、シンガポール政府役人を買収して秘密情報を入手しようとした事を暴露したのです。
   米国がこれを否定すると、シンガポールは米国務長官署名入りの謝罪文と、これをもみ消す為に米国が経済援助を申し出た事まで暴露したのです。
   しかし、これまでシンガポールにとって米国は重要な経済パートナーです。
   米国は、シンガポールにとって、第三位の貿易相手国であり、ASEAN、アジアの秩序を保ってくれる国であり、シンガポールの安全保障にも欠かせない存在である事を知っているのです。
   特に1990年代から増大した中共のASEANにおける影響力を抑制する為にも米国のプレゼンスは欠かせないと認識しています。
   しかしながら、シンガポールは、政治体制や社会的価値観に対して米国が干渉する事は断固として拒んでいます。
 
   1993年(H5)、マイケル・フェイ事件が起きます。
   シンガポールに住む18歳の米国人ら数人が駐車中の車60台以上を破損させ、道路標識などを壊すなどの罪で有罪、グループの中心人物だったマイケル・フェイに罰金3500シンガポールドル、禁錮4ヶ月、鞭打ち6回が言い渡されました。
   シンガポールには、現在も鞭打ち刑が存在します。
   無許可の銃を保有したり、強盗犯や暴行犯にも適用されます。
   ですが、米国はこの判決に猛反発しました。米マスコミも「鞭打ちは拷問であり人権侵害である」として一斉に糾弾。
   クリントン元大統領は「起こした犯罪に比べて刑が重すぎる」と発言し、国際問題に発展します。
   しかし、シンガポール政府は、「社会の長期的利益の方が個人の利益に優先する。社会の安定と秩序の確立こそ重要」として、鞭打ちの回数を6回から4回に減刑して執行しました。
   この様に、シンガポールは、米国を経済・安保上の重要なパートナーとしつつも、政治体制や社会的価値観では、断固として米国の干渉を排除する姿勢を貫いていると言えます。
 
■対アセアン
   1967年(S42)、ASEAN(アセアン)結成。
   シンガポールにとって、アセアン加盟のメリットは、第一に独立国家としての地位が国際的に認知される事。
   第二に東南アジアの国だけで構成される機構に加盟する事は、東南アジアの一員と言う立場を明確にする事ができる事。
   第三に、東南アジア諸国との友好関係を構築する事で、英軍撤退後の安全保障上の不安を少しでも減らす事でした。
 
   当時、独立直後のシンガポールは、華人が大多数を占める事から「第三の支那」という扱いをされ、インドネシアやマレーシア、
タイからも警戒されていました。
   分離に至る摩擦によってマレーシアともいざこざが絶えず、あらゆる面の協力は絶望的でした。
   これに加え、駐留していた英軍撤退が発表され、シンガポールは、軍事的にも経済的にも大きな打撃を受ける事になりました。
   そんな頃、インドネシアやタイ、マレーシアなど反共親米国家の手によってASEAN設立が現実化したのです。
 
   2010年(H22)でASEAN加盟国の貿易相手国は、域内が25%で、まだ域内貿易の比率は大きくありません。
   ただ、域内貿易の90%はシンガポールとインドネシア、マレーシアの間で行われており、ASEAN域内貿易で最も利益を上げているのは、シンガポールです。
   2000年(H12)に入り、ASEANは共同体構築に向けた議論を開始し、結成40年を迎えた2007年11月にASEANの法的な枠組みや規定を示したASEAN憲章を採択しました。
   この憲章は、ASEAN共同体の基本原則となるものです。
   しかし、ASEANがEUの様に国家主権の一部放棄を前提とする共同体になる事には、あまりに多くの障害があります。
   シンガポールを含めた加盟国は、ASEANの団結を保ちながら、域内協力を積極的に進め、できる範囲でゆっくりと共同体構築を進めていく事になります。
 
■対日関係
   1962年(S37)にシンガポール東部で大量の人骨が発見され、対日戦後賠償要求は「血債問題」と呼ばれ、再び大きな運動となりました。
   虐殺の真相究明と犠牲者の調査、日本による賠償を求める10万人の反日大集会が行われました。
   集まった人々は、「真相究明と賠償が行われるまでは日本製品を買わない、日本人を入国させない」と涙ながらに叫んだそうです。
   しかし、シンガポール政府は、この血債問題を抑え込みました。
   当時、シンガポールは英国自治領で、政府は、隣国マラヤ連邦への統合による独立を最重要課題とし、工業化推進の為に日本との協力を進めたいと考えていたからでした。
   その後、マレーシアから分離独立すると、日本との経済関係強化が必要不可欠となりました。
   政府は、血債問題の解決を急ぎ、5000万マレーシアドルの経済援助と交換にこの問題を集結させたのです。
 
   1970年(S45)、皇太子殿下、妃殿下がシンガポール訪問、リー・クアンユー首相は、最大級の歓迎をしました。
   日本はシンガポールにとって、最大の援助国、貿易国となり、リー首相は親日政策をとり続けました。
   続けて、リー首相は、「日本に学ぶ運動」を展開し、「日本の職業倫理」を学ぶ様に国民に訴えました。
   また、日本式経営、企業別組合、交番(地域密着型の警察制度)なども学習します。
   1980年代に入ると、反日感情は薄らぎます。日本占領期を知らない戦後世代が増えたからだそうです。
   若い世代は、日本の大衆文化を無条件に受け入れ、アニメ、TVゲーム、ドラマ、映画、Jポップ、サンリオ商品、寿司、お好み焼き、天婦羅などの日本食、ラーメン店などがシンガポール人に幅広く受け入れられました。
 
   1993年、シンガポール国立大の社会学者が、若い華人の多くが日本人や白人になりたがっていると言う調査結果を公表します。
   ただ、21世紀に入り、高い経済成長を遂げたシンガポールに、今後も日本が必要な存在でいられるがどうかは未知数です。
   今、シンガポールに対する最大の貿易国は日本ではありません。日本に代わり最大の貿易国となったのは支那中共です。
   シンガポールが日本を必要としなくなった時、これまで通りの関係を維持できるかどうかは少々不安です。
 
■外国人移民政策
   よくシンガポールは、数少ない移民政策に成功した国として紹介されます。
   実態はどうなのでしょう。
   シンガポール政府は、1990年代から外国人の移民を積極的に受け入れてきました。
   外人は、当初高学歴や高所得者、メイドなど、年々豊かになる国民が従事しない職種に就く低熟練労働者かのいずれかに集中していましたが、2000年代になると外人の受け入れをあらゆるレベルで拡大しました。
   その背景には何があったのでしょうか。
   その一つには、当日政府が盛んに指摘していた世界の頭脳をめぐる国際人材獲得競争があります。
 
   移民の主な調達先であるインド、支那は急速な経済発展をしており、これら国々が経済発展を果たしてしまえば、国内で就職した方が有利となり、シンガポールが人材を調達出来なくなります。
   シンガポールが好景気の時期に人材を確保しなければ人材獲得競争で負けてしまうと主張したのです。
   しかし、急速に増える外人に、住宅、公共輸送などの国内インフラ整備が追いつかず、公営住宅の価格高騰、物価高騰、電車の混雑など、元々外国人移民への反発が強かった国民感情を逆なでしました。
 
   また、世界経済危機の影響で雇用市場が一転して落ち込むと、給与の安い外国人に職を奪われると国民の不安が一層強まります。
   所得格差も発生します。
   高度人材を獲得すると言う目標を掲げながらも、安い労働力確保の為の人材も大量に受け入れていた事が裏目に出たといえます。
   国内に占める外国人の割合は増加の一途をたどり、少子高齢化も止まりません。
   2011年(H23)、ゴー首相は、市民との対話の中で、外国人移民政策の影響により、安い外国人労働者と競合する事になる自国の低技能労働者の国民所得は伸びないと断言。
 
   また、ゴー首相は、外国人が増加する事によって、自国民から雇用や治安の悪化を不安視する声が高まっている事を挙げ、移民政策の転換について言及しました。
   これにより、
・外国人労働者と自国民の平均賃金の差別化
・外国人に社会保障・特に生活保護を許可しない
・不況になれば外国人から解雇
・失業者は即刻帰国
・家族の呼び寄せは許可しない
・若い女性に半年毎の妊娠検査義務化、妊娠が判明した場合は国外退去・・・
   等の具体的抑制策を強化し、国内事情と移民政策の負の側面との均衡を図っている模様です。
 
■故リー・クアンユー首相
(Lee Kuan Yew)(李光耀)
   1959年(S34)から1990年(H2)まで初代首相を務め、2004年(H16)からは閣僚顧問の地位にあり、第2代首相、ゴー・チョクトン首相からは「現代の孔子」と賞賛された人物がリークアンユー元首相です。
   リーは1923年(T12)、客家(ハッカ)商人の家に生まれます。
   (客家とは、元来支那西部に住んでいた漢人の事で、始皇帝の秦朝より前の古代支那王朝・殷(イン)がルーツと言われます。   殷王朝(BC1600)は別名「商」とも呼ばれており、少なくともアジア人類史上で初めて商人と呼ばれ商売を始めたのが客家だと言われます。
   リークアンユー以外では李登輝、鄧小平、孫文らも客家の家系らしいです。客家は、支那西部から4~19世紀に南下を始め、支那から東南アジアまで拡散しました。)
   曽祖父の時代からシンガポール在住のリーの家系は、早期に祖国支那との感情的な絆を断ち切り、英語を学んで英国の文化に親しんできました。
 
   彼らの様な華人を周囲は「海峡華人」と呼んでいました。
   彼は地元のラッフルズ・カレッジに進み、戦後奨学金によってケンブリッジ大学で弁護士資格を取得、最優秀の成績でケンブリッジを卒業します。彼の妻、クワァ・ゲォクチューもケンブリッジ大学を最優秀で卒業しています。
   最も、彼の様に英語を学び、大学教育を受けたシンガポール華人は、ほんの一握りのエリートだけで、一般の華人は華語教育を受けるか無学で、祖国支那との感情的絆を強く持っていました。
 
   1959年(S34)、シンガポール初の総選挙が行われて、リーは36歳の若さで首相に就任。
   その直後、マラヤ連邦との統合が始まります。
   1965年(S40)、マレーシア連邦からシンガポールが独立すると同時に、人民行動党が覇権を確立、リーはシンガポール初代首相となり絶大な影響力を持ちます。
   民主主義よりも、開発を優先する「開発体制」の典型と言われる社会を作ってきました。
   日本の軍政時代を回想し、リー(李)はこう言っています。
 
   『その日から私は、我々自身の運命は我々自身で決める決心をした。外国勢力の走狗や玩具になってはならない。我々が国家の主人になるのだ。欧米外国勢力の統治下に受けた恥辱は充分な苦しみだった。
   日本の統治下では更に苦しかった。私は再び我が国土を外国人の手に渡してはならないと誓った』と。
   また、日本の軍政時代の事を『暗黒で残酷な日々は、私にとっても最も大きな、かつ唯一の政治教育であった』と発言しています。
 
   リー・クアンユーは、シンガポールの分離独立の際、TV Camera の面前で、こう宣言しました。
   『私にとって、今は苦渋の時です。生涯、私は二つの領域の合併と統一を信じてきました。私リー・クアンユーは、自由と正義の原則、多くの人々の福祉と幸福の探求、平等な社会を築くことに基づき、本日1965年(S40)8月9日にシンガポールが永久に主権民主主義並びに独立国家であることを宣言いたします』
   それまで衆人環視の眼の前で、涙など流さなかった剛直な首相が、ハンカチで目を拭きながら独立宣言する姿に国民は驚嘆したそうです。
   リーは、決して国民に親しまれた首相ではありませんでした。時には国民を強引に引っ張っていく国家リーダーで、どちらかと言えば権威主義者です。
   シンガポールは、天然資源はない、隣国マレーシアとの関係は最悪。
   吹けば飛ぶ様な、独立時の都市国家、そんなシンガポールを生存繁栄させる為に、徹底した介入を国民生活に対して行い(新自由主義)、批判勢力を合法的に封じ込める為の法案を次々と制定し民主主義より、開発を優先する「開発体制」の典型といわれる社会を作り上げたのです。
   その結果、東南アジアで稀な民主主義国家の成功例として経済成長したのです。
 
■白人至上主義の長い植民地国家の終焉
   後に陸将となった第25軍作戦参謀・国武(クニタケ)少佐は、シンガポール攻略戦を次の通り回想しました。
   『その戦の目的は、石油を中心とする資源を南方地域で確保し、日本の経済的生存を維持するにある。この為には、南方の中心地シンガポールを速やかに我が手に入れなければならない。従って、マレー作戦が南方地域の作戦の中で最重要と考えられた』・・
 
   英国領マレー半島は、香港、インドと言う大英帝国植民地のほぼ中間に位置し、日本への重要な海路・マラッカ海峡に面しています。
   そんなマレー半島、そしてアジアの要塞と謳われたシンガポールを制する事は、英国のアジア植民地の心臓部へ楔(クサビ)を打ち込む事になります。
   更に英国をこの地域から駆逐する事は、欧米列強の圧政と搾取に苦しむ東南アジアの解放の第一歩でした。
   「マレーの虎   山下奉文の生涯」の著者、ジョン・D・ポッター氏はシンガポール攻略戦の意義について、こう綴っています。
 
   『彼は(山下将軍)、天皇の為に、英国最大の要塞を征服したのである。また、東洋における白人の支配を永遠に破壊したのである。彼がこの事に気がついていたかどうかは知らない。
   しかし、この日本軍の将軍が、1942年(S17)2月の夜、シンガポール攻略戦に成功した事を持って、世界の事情は一変したのである』と。
   また、仏国のシャルル・ドゴール将軍は、シンガポール陥落の日にこう日記に記しています。
   『シンガポールの陥落は、白人(植民地)主義の長い歴史の終焉を意味する』・・・
 
﹅西欧型植民地から解放され現在を生きる
 
今・・・
   シンガポール、マレーシア、ベトナム、フィリピン、インド、インドネシア、パラオ等が自主独立国家となったのは、間違いなく日本軍の功績があったからなのだと、私達は肯定的視点に立って、歴史を評価しても良い時期に来ていると私は思います。(勝手に)
   間違っていた事は間違っていたと認識し、しかし、過去については清算済みと言う立場で構わないのではないでしょうかとも思います。どちらが上でも下でもないと言う関係構築が必要です。
 
   そうでなければ、サンフランシスコ講和条約も、国交回復も意味をなさないのですから。
   Japaneseのエゴと言われても構いません。
   少なくとも、あの時の戦争で白人宗主国が撤退しなければ、東アジア、東南アジア諸国の運命は、現在のアフリカや一部のイスラム国家と同じ末路をたどった事は火を見るより明らかでしたから。
   私達Asian Peopleは、米国やカナダ、英国に行けば蔑視される格下の存在です。黒人よりも格下の扱いです。今でも、それは残っています。
 
   公共交通機関で・・レストランで・・
   劇場で・・学校で・・・職場で。
   あの時、大東亜戦争をせずに植民地に甘んじていれば、間違いなく今でも白人を頂点にしたアジア社会の中で、召使いやメイドをしながら、字も読めず書けずに、恥辱の中で虐げられた一生を送っていたでしょう。
   しかし、現実はそうなっていません。
   白人の主人の豪邸で、嘲笑されながら庭師やメイドで生計を立てるアジア人はいません。
   東南アジア諸国の多くの国民は、それが大東亜戦争の功績だと、内心は許容しているのです。それが高い親日度に表れるのです。
 
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出典:シンガポールを知るための65章(田村慶子著)、wikipedia japan、AWAY MEDIA、日本が戦ってくれて感謝しています2(井上和彦著)、AMEBRO、Yahoo 知恵袋
 
 乱筆長文駄文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
 
To Be Continue
(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ大脳皮質は正常(だと思います)認知能力は曖昧ですけど(Funny)) 
 
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