石原Ism(イズム) | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・・Welcome To The Real Worlds!!! 
   Long Time Ago・・
長い間、現実は歪められ、
情報は操作されて来た・・
   Truth ・・真実は動き始めた
The XX Files ・・・Fifth .
Future Generation !
真実と闘え・・・
I Want It . To Believe .(Funny !) 
Zipangu Independence Banzai⁉️
   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
   We Are Sumer -Japanese・・
We Believe Batman ・・・
Even If Isn't You ⁉️
Sub Title. "超親日家 General Ishihara"
Last "70Years After The WW2"

 

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   将軍の足跡を追う事で、難解な「戦後レジームという知恵の輪」を解く事が出来ないのだろうか・・・以前からそんな想いがありました。
   苗字の読み方について、「イシワラ」と読むか「イシハラ」と読むか。
   つまり、「ワラ」か「ハラ」か、ですが、正直、「キシ・シンスケ」と「キシ・ノブスケ」程の違いの差はありません。
   古い所でいけば、ジンギス・カンの用例があります。「ジンギス・カン」「チンギス・カン」「チンギス・ハーン」。
   余り重要ではありません・・・
 
   ですので、今回、石原将軍については、あえて「ishihara」と読んで頂ければ幸いです。
 
■戦後日本予測していた‼️
   戦後・・間もなく米ソ・東西冷戦が始まり、世界が核戦争による「ハルマゲドン」を予想して戦慄していた時、その独自の戦争理論から米ソの核戦争はないと断言し、更にスターリンの死によるソ連崩壊を予見していた軍人がいます。
   彼の名は、石原莞爾(イシハラカンジ)。
   石原は、既に今日の日本の置かれた状況までほぼ正確に見通していました。
   それは、軍備を撤廃した日本がたどらざるを得ない苦難の道です。
 
   因みに抑止力としての核を持たない現在の自衛隊は「軍備」とは言えません。すなわち、軍備とは国の安全を守り、外交政策をバックアップし、戦争の際にはその戦争目的を達成し、かつ国がこうむる被害を局限する為の軍事力を言います。
   従って北朝鮮の核搭載可能ミサイル「テポドン」に対して効果的に対応出来ない自衛隊が軍備の名に値するかどうかは、あえて問うまでもありません。
   石原は、その日本が辿る苦難の道を『戦争をするよりも辛い状態』になると予言し、日本人は『ゴルゴダの丘に登るキリスト』の覚悟を持たなければならないとまで述べます。
 
   しかし、東西冷戦の狭間にいた日本の平和主義者達は、心理的には苦悩したでしょう。
   が、不幸中の幸いにも『ゴルゴダの丘に登るキリスト』的な苦悩を味わった国民は、まずいなかったと言ってもいいでしょう。
   むしろ、大多数の国民は、苦悩どころか『昭和元禄』を謳歌してきたと言うのが事実ではないかと筆者(佐治氏)は言います。
 
   では、石原の警告は的外れだったのでしょうか。残念ながら、そうではありません。
   徐々に矢が的に接近しつつある事は、冷戦終結後の日本を巡る国際情勢の変化が如実に示しているからです。
   「神風」ならぬ「逆風」が吹き始め、それが益々激しさを増している事を、国民は肌で感じているはずです。
   更には、今日の経済大国・日本についても、石原は戦時中に予測していました。
   つまり、石原は所謂、太平洋戦争開始と同時に、敗戦後の日本の再建についても研究していたのです。
   彼の日本再建構想のKey Point は日本人の「頭脳」でした。
   彼は、自身観察したWW1後のドイツの復興から、日本の産業施設が全て空爆によって壊滅されたとしても「頭脳(科学技術)」さえあれば、再建は容易と見ていました。
   即ち、国家予算の30~60%以上も費やしていた軍事費を、科学と技術の研究開発に投入しさえすれば、日本の再建は10年を待たずして可能と見ていたのです。
   実際に、戦後日本の採った再建構想は、石原の再建構想と良く似ていたと言われます。  
   但し、彼の構想の方がより徹底されたものだったと筆者(佐治氏)は指摘します。
   例えば経済援助同じお金をばら撒くにしても、そこに確固としたポリシーがあるのとないのとでは、その効果は全く異なります。
   外務省はODAを、或いは日本が国連安保理の常任理事国となる為の票集めの手段と考えているかも知れませんが、現実にはアフリカ諸国にさえ軽蔑されているのではないかと。
   タカリがいのある日本と言うイメージが、被援助国に定着しただけです。
   現在、我が国は、日本がコケたら世界が困ると言う状況を作り出す事に成功したかに見えます。
   しかし、いっそそれなら日本をそのまま併合してしまおうと考える国があっても不思議ではありません。
   必ずしもそれは、超大国とは限りません。
   人口僅か300万の満洲人が支那大陸を征服し清朝を建国した例もあります。
   石原が言った「戦争をするよりも辛い状態」とは、その様な周辺国からのユスリタカリ、更には間接的なものも含む侵略の脅威に晒され、孤立して耐えなければならない日本の未来かも知れません。
   彼は、最後まで愛する日本の危機を憂慮していたのです。
 
■来歴
   石原莞爾は、明治22年(1889)1.18生。山形県鶴岡市の旧武家屋敷に生を受けた軍人です。
   幼年学校や陸大を首席で卒業する天才肌の持ち主です。
   戦後、軍国主義の権化の様に、メディアや学者から糾弾される石原は、実は日米戦争には全く関係していません。
   対立する東條英機に左遷させられた為、支那事変さえ関わっていません。
   彼(石原)は、日米戦争より4年も前、つまり支那事変開戦の年に、軍の中枢を追われ、以後二度と権力の座に帰る事がなかったのです。
   日米開戦の8ヶ月前には、東條の手によって、予備役に編入させられ、国内で立命館大学の教授となり、国防論の講義を行っていましたが、その一挙手一投足まで憲兵と特高に監視される生活を余儀なくされたのです。
   しかし、石原が日本のパワーエリートの一員であり、歴史のキーパーソンだった事は揺るぎないファクトであり、否定できる事ではありません。
   石原が深く関わった満洲事変、満洲国建国、国連脱退、二・二六事件の鎮圧、重要産業五カ年計画等々。
   彼は、支那事変を巡る論争から軍の中枢を追われ、東條政権に対立し、敗戦後も、世界最終戦争の切迫と非武装中立論を説きつつ病に没した一生は、日本が軍国主義を辿った昭和前期を回顧する時、彼の果たした重要な役割を考察せずに通過する事は出来ないとさえ言われます。
   彼は、支那との交戦を望んでいませんでした。
   彼は、米英との開戦にも局限まで回避に努力し、それらの努力は全て満洲事変以来の基本戦略「日本・満洲国・支那」の三国を中心とする『東亜連盟』を結成して世界最終戦争の決勝戦に残ると言う構想から導き出されたものです。
   が、しかし、激動の昭和史のベクトルは、石原の意図や努力とは正反対の方向に進んでいきました。
   昭和軍部や大本営は、彼の意図や努力をネガティヴに利用し、支那事変の泥沼戦にはまり、ついには米国の挑発にのり、破滅的戦局へと突き進んでいったのです。
   彼が構想した重要産業五カ年計画が閣議を通過し、ようやく始まろうとしていた矢先に支那事変が起こったのです。
   その五カ年計画の為に集積された施設や物資は近未来の最終戦争に備える為のものでした。しかし、現実には最終戦争の同盟国たらんとした支那との戦闘に浪費されてしまったのです。
   彼をメンバーから外した軍部首脳は、結局、石原がグランドデザインした「重要産業五カ年計画」を『物資動員計画』に転用する事によって支那事変から始まった所謂、大東亜戦争を戦ったのです。
   非力の日本が、支那事変の泥沼戦を戦う最悪の時点で、米国と開戦し、その巨大な物量を相手に、曲がりなりにも4年近い年月を戦い続ける事が出来たのは、その物量動員計画がそれなりに機能していたからで、その計画は石原の構想の盗作だったのです。
   その意味では、彼の意図とは別に、その計画と努力の成果を通じて、石原はWW2に最も深く携わった人物と言う事も出来ます。
 
   確かに支那人民を含め東亜(東アジア・東南アジア)数十億人の人々が一丸となってアジア解放戦争に参加した場合、米国がいつまでその戦争努力を継続できたかどうかは未知数で、事実、戦後のマレー半島における英国、インドネシアにおけるオランダ、ベトナムにおける仏国、そして米国の敗北がそれを証明しています。
   しかし、石原の構想は挫折していました。
   日本人の意識・民度が石原イズムに同調しきるまで高まっていなかったのかも知れません。
   石原の蹉跌(サテツ)は、そのまま日本の蹉跌につながって行きました。
(蹉跌~物事がうまくいかない事。挫折。失敗)
   それは、早すぎた日米開戦による当然の結末と言う事も出来ます。
   そして、それは日本だけの問題ではなく、『東アジア、東南アジア(東亜)』の、ひいては世界の運命も大きく変える結果となりました。
   現在の日米間に山積される諸課題の多くも、そこに胚胎(ハイタイ)しています。
   だから私達にとって、「彼が果たした役割」「果たそうとした役割」について冷静に検証する事が必要とされています。
 
■石原大韓帝国
   会津若松連隊は、明治43年(1910)4月、韓国警備の為、横浜港を出港します。
   石原の連隊の駐屯先は、ソウルから北東25キロ先の春川と言う町でした。
   日韓併合の4ヶ月程前でした。
   この韓国駐留が石原にとって、最初のアジア体験でした。
   筆者の父と石原は同じ連隊に所属していました。
   当時の韓国警備の様子を筆者の父の回想が表しています。
   彼(佐治氏の父)は、5歳で小学校に入学、当時の表現で「読み書きソロバン」、四書五経の素読と習字、作文、初等数学のうち四則計算を学びました。それだけに若松連隊入営後、初年兵の中でもメキメキと頭角を表し、上等兵に進級しました。
   韓国警備の実態はと言うと、それは、暴徒と称した韓国軍隊の脱走兵から集落の村民の生命財産を守り、都市の治安を維持する事が任務でした。
   現代風に解釈すれば、暴徒も占領軍に対する「抵抗(レジスタンス)」と言う事になります。
   しかし、少なくとも当時の「暴徒」の実態は、とても「抵抗の英雄」と言えるものではありませんでした。
   勿論、当初は韓国政府の無能さに愛想をつかすとか、日本軍の支配下にある事への反発などからの脱走兵の集団で、それこそ植民地化反対の抵抗の烈士であり、義軍だったのでしょう。
   が、旧式の兵器しか持たない韓国義軍が、日露戦に勝利した日本軍に勝てる筈がありませんでした。
   その為、都市周辺部から次第に農村、山岳地帯に追い詰められ、義軍は匪賊と化し、ついには、一般の朝鮮人を襲う暴徒になっていきました。
   警備する日本軍は小隊に分かれて各地の村落に駐屯し、韓国軍暴徒から現地村民を守ります。筆者の父は、筆談(漢文)で集落の長老と話し合い、村民と日本兵とのトラブルを極力避け、集落民から信用され、若い男女の恋愛相談、夫婦喧嘩の仲裁、ほうとう息子の訓戒などまで依頼され、彼なりの善政を施したと言います。
   少尉に昇格した石原が最初に駐屯した春川でも、似たような状況ではなかったかと推察できます。
   少なくとも佐治氏の父の話からは、戦後の『三光作戦』的なイメージは全く感じられませんでした。
   それどころか、任期満了で日本に帰還と決まった時、現地除隊をしてそのまま村にとどまって欲しいと懇願された程で、彼と同じ体験をした日本兵も少なくありませんでした。
   後年、石原は東亜連盟構想の中で韓民族の占める政治的位置について、その不徹底性を批判されますが、にも関わらず彼の韓民族に対する同情と共感は、『民族共和は、民主主義的観念にして、日韓の分離を刺激するもの也』と東條派に攻撃されたと仁科悟郎は伝えています。
 
   さて、石原の2年間の韓国駐屯におけるピークは、M44(1911)10月、初代中華民国大統領・孫文が武昌で挙兵した『辛亥革命』でした。
   明治44 (1911)年、当時の清朝の武昌兵変が起こり第一革命が成功した時は、私は丁度韓国の守備隊に行ったが、かねてからの支那の新生に対する念願と革命後の支那に対する希望の余り付近にある山上に、当時の自分が教えていた兵と共に登り、万歳を叫んで新しい支那の前途に心から喜びを示したものである
   ・・・これは石原の当時の回想、S17の「満洲国・建国前夜の心境」と言う談話の一節です。
 
■石原板垣征四郎
   支那湖北省・漢口には、満洲事変で石原と名コンビを謳(ウタ)われた板垣征四郎将軍がいました。
   「ここで石原は、板垣征四郎少佐(当時)と共に、特務機関としての業務に従事し、中央方面の政情民情、支那の軍事情報の収集、兵器地誌の調査等の任務を担当する事になった」と横山臣平は言っています。
 
   生涯、石原の上官であり、友人であり、名コンビでもあった板垣将軍について、少し回想したいと思います。
 
﹅板垣来歴
   板垣将軍は、明治18年(1885)1月、岩手県岩手町、南部藩の家系に生まれました。
   祖父は、盛岡南部藩の漢学者、幕末維新の勤王派でもありました。
   南部藩は、戊辰戦争で官軍に敗戦し賊軍となりました。
   将軍の祖父は、官軍の支配する世の中を潔しとせず、自決する程の人物でした。
   板垣の父は、気仙郡や他の郡の郡長を永年勤務され、学校長の経験もあった人です。
   征四郎は、板垣家の三男として生を受けました。
   将軍の生後、間も無く実母は他界します。
   後妻と父との間に産まれた義弟は、海軍少将に昇進しています。
   板垣は、祖父とは特に仲睦まじく、生後間も無く実母と離別した孫を憐れみ、祖父は将軍の事を秘蔵っ子として育成しました。
   将軍の母校、盛岡中学。
   卒業生には、板垣征四郎、石川啄木、宮沢賢治、金田一京助、そうそうたるメンバーがいます。
   将軍は、又のあだ名を酒呑童子"シュテンドウジ"と言呼ばれる程の愛飲家(酒豪)でした。
   板垣将軍の飲み方は豪快でしたが、呑んでも呑まれる事などなく、酒乱でもありません。
   どれ程呑んでも、深酒をしても次の日の朝は、ケロッとした涼しい顔で勤務されていました。
   しかし、一人でいる時は、決して酒類は口にせず、ひたすら読書に励む教養の持ち主であったと言います。
   板垣が酒を呑むのは、あくまで人々と共に酒を酌み交わす時だけに限られていました。
 
■2人の特徴と共通点
   板垣将軍と石原将軍は、全く正反対の人物でした。
   かたやカミソリの様に研ぎ澄まされた天才肌であり、かたや茫洋として寡黙、一見とらえどころがありません。
   が、この二人には共通点があります。
   それは「私心がない」という事です。
   そして石原においては、金銭欲、物欲、出世欲がありませんでした。
   彼は、役職上、交際費、機密費等をふんだんに使える立場にありながら、公費での飲食などは彼の辞書では論外でした。
   その証拠に、石原は公費を使った宴会を嫌っていました。
   同僚達は、職務にかこつけて公費で贅沢な料亭に通い、芸者を上げてドンチャン騒ぎしていた時代です、石原はそれを苦々しく見ていました。
   石原は、満洲時代に関東軍参謀副長に昇進した際、星野直樹(当時は総務長官)が石原の為に盛大な祝賀会を催そうとした事がありました。
   その時、ある秘書官が星野に「石原閣下は宴会が嫌いなので、多分出席しないでしょう」と囁きました。
   それを聞いた石原が、星野に「私が宴会の出席を嫌うのは、官費での宴会の事で、星野長官の給料袋からお出しになる金で開く宴会と言うなら、いつでも出席する」
   相手が誰であろうと、この様な事を平気で言ってのけるのが、石原でした。
   花柳界で、豪快な女遊びをする高級官僚や高級軍人など当時は日常茶飯事でしたが、石原には浮いた話は殆どありませんでした。
   妻、テイ子(テイは金偏に弟)は貞淑な良妻で、石原の両親には良く仕え尽くして、内助の功に徹して石原を支えました。
   子供には恵まれませんでしたが、同じ日蓮宗に帰依していた同志であり、一心同体の夫婦でした。
   板垣と石原の出会いは、赴任先の支那・漢口でした。
   元々、相手によって好き嫌いが激しい石原でしたが、何故か板垣の事は気に入った様でした。
   板垣は、喜怒哀楽を余り表に出さない、傍目(ハタメ)には、何を考えているか分からない、部下から見れば、自分が好かれているのか、嫌われているのか、或いは評価されているのか、それらさえ察知出来ない人でした。
   しかし、石原の様に感情の起伏が激しく、カンの強い人間にとって、板垣の様な茫洋としたつかみどころのない人物は、底知れぬ奥深さと人間的魅力をたたえた人間に映ったのです。
   板垣は、銃剣術の達人で、数字にもめっぽう強く、記憶力も良かった、そんな事も石原を魅了したのかも知れません。
   後年の石原の板垣評に『足に釘が刺さって、1時間経ってから痛いと言う様な人だった』と言うものがあります。
 
■支那・漢口時代
   陸軍のエリートコースの陸大を、しかも「恩賜の軍刀」まで貰って卒業した超エリート候補の石原が、中国語科出身でもないにも関わらず、何故自ら漢口に赴任したのかが同期生たちには謎だったと言います。
 
   しかし、彼をよく知る満洲事変以来の同志の一人、山口重次によると、石原は、当時の支那駐在の情報関係将校が殆ど大都市だけに集中し、そこで入手した資料を元に報告書を提出するという状態に、隔靴掻痒(カッカソウヨウ)の感を持っていました。
   その為、直接自分が支那に行き、現地を調査して、生々しい情報を入手してみたいと考えたと言います。
   当時の支那の状況は、日米英の帝国主義と支那民衆のナショナリズムの高まりと、それに新興国ソ連の思想攻勢の渦中にありました。
   石原が赴任する前年の大正8(1919)年5月、山東問題(WW1で、日本が独国から引き継いだ山東省の利権を巡る日支間の紛争)で自国政府の弱腰を憤った北京の学生3千人のデモ(五・四運動)が起こり、それを皮切りに各地で激しい反日(抗日)運動が展開されていました。
 
   石原の赴任直後には、上海、北京、広東で支那最初のメーデーが行われましたし、日本が後押しする段祺瑞(ダンキズイ)の安徽派(アンキハ)軍閥と米英が支援する呉佩孚(ゴハイフ)ら直隷派との支那内戦、安直戦争も起きています。
   T10(1921)年5月、日本政府は満洲軍閥の頭領、張作霖の満洲(東三省)独立宣言に対して、内政、軍備の改善だけは援助するが、支那本土、つまり万里の長城以南への進出については援助しない方針を決定します。
   しかし、張作霖はT11.4月、奉天軍を率いて長城を越え、直隷軍と交戦、第一次奉直戦争です。
   このような絶望的戦乱の状況は、かつて辛亥革命万歳を叫んだ石原のロマンチックな支那感を大きく揺さぶりました。
   そして、彼は「支那人の政治的能力に疑いを抱かざるを得ない様になっていった」
   即ち(スナワチ)、「漢民族は、高い文化を持ってはいるが、近代的国家を建設するのは不可能ではないかと言う気持ち」を持つまでになった事を、後年、「満洲国建国の前夜の心境」に書いています。
   石原の漢口時代は又、彼が多年にわたり研究を重ねてきた軍事学の思索を練る絶好の機会でもありました。
   研究主題は「戦争指導論」。
   この主題は、彼の幼年学校以来の近世欧州戦史の研究の発展とも言えますが、より具体的な動機は、日露戦争に対する疑惑でした。
   石原によれば、日露戦争の勝利は僥倖(ギョウコウ)と言う事になります。
(僥倖~偶然に得た幸運。思いがけない幸せ)
   即ち、日露戦争は、モルトケの直訳的戦略思想に従い「主作戦を満洲に導き、敵の主力を求めて遠くこれを北方に撃退し、艦隊は進んで敵の太平洋艦隊を撃破し、以て極東の制海権を獲得する」と言う方針の下に行われました。
   これは『武力を以て迅速なる屈服を企図する独国の対仏作戦』だったら問題ありませんでした。
   しかし、「日本のロシアに対する立場は、独国の仏国に対するものと全く異なっている。日本の対露戦には単に作戦計画のみでなく、戦争の全般につき明確な見通しを立てて置かねばならないのではないか、これが私の青年時代からの大きな疑問であった」。
 
   まだ学生時代に、歩兵第四連隊に出かけた時に石原が見た国民兵の惨めな姿。
   銃は勿論、剣さえ行き渡らない、靴ではなくわらじを履き、軍服もなく私服のままの老兵達の冴えない表情を見た時の衝撃。
   これが当時15歳の石原に「国力を超えての戦力はあり得ない」と痛感させた体験でした。
   彼は苦悩します。
   「日露戦争時代に、日本が対露戦争の、その本質を深刻に突き止めていたら、或いはかえってあの様にケッキする勇気を出す事が出来なかったかも知れない。それ故、モルトケ戦略の鵜呑みが国家を救ったとも言える」。
   これは、一つの歴史の逆説、歴史のIfとも取れますが、そうした僥倖は、そうそう期待出来るものではありません。
   石原の苦悩は、続きます。
   「今日、世界列強が日本を嫉視(シッシ)している時代となっては、正しくその真相を捉え根底ある計画の下に国防の方針を確立せねばならぬ。これは私の絶えざる苦悩であった」。
   彼はその苦悩を陸大時代から抱いたまま、漢口に赴任したのでした。
   そして、その研究の中間報告とも言うべきものが、『戦争には二つの形態~決戦的戦争と持久的戦争~がある事』。
   次に『東亜の現状に即して、日本は当然、後者に遭遇するものとして考察を進めてみる事』。
   石原にとっての「東亜の現状」とは、十月革命による帝政ロシアの崩壊とソ連の成立、支那統一内戦の激化、そして米国の極東への関心の増大です。
   石原は、米国の膨張するナショナリズムにも苦悩していました。
   「日米戦争の重苦しい空気は日に日に甚だしくなり、結局は東亜の問題を解決する為には、対米戦争の準備が根底を成すべきなり、との判断の下に、この持続的戦争に対する思索に漢口時代の大部分を費やした」。
   と彼は回想しています。
   石原は、自国の存在に必要な戦略資源を自国のコントロール下に置くという「自給自足」の点から、日本と大陸のシーレーン(海の交通路)の保全をまず考えます。
   その為には、日本が西太平洋の制海権を取らなければならないが、その点で米国の西太平洋、つまり米国の支那市場を目指す路線と衝突する。
   又、大陸の戦略資源確保の際、ソ連の帝政時代以来の南下政策、つまり満洲、朝鮮、或いは北支への侵入の意図とも衝突する事を考慮しなければならないと。
   従って、最悪の事態を考慮に入れれば、日本は米国の海軍とソ連の陸軍とを同時に防ぐだけの力を備えておかなければならないと言う事になります。
   米国の海軍とソ連の陸軍とを同時に相手にする事は、ナポレオンさえ敗れた「二正面作戦」の愚を犯す事だから、不可能です。
   従って、彼にはソ連と開戦するという積極的意図はありませんでした。
   この点で、戦後の石原批評家の多くが、彼を対ソ開戦論者の中に入れている事は大きな間違いです。
   恐らくは、恣意的に計算した石原のイメージダウン工作と考えて差し支えないでしょう。
 
■日本と中韓の違い
   カール・カワカミは自著(シナ大陸の真相)でこう言っています。
   ・・義和団事件で、外国人に対する殺戮が発生した原因は何だったのか。
   それは、支那人の主権を列強諸国が侵害したからだ、と支那人は答える。列強は、支那に不平等条約を押し付け、関税自主権を剥奪してしまった。彼等は無防備な沿海地域を砲撃し、何千という民衆の命を奪った。
   租界と言う形で治外法権区域を設定した。
   これらの蛮行を、いったいどうやって止める事が出来たのか。
   それは、外国人という悪魔を根絶する事によってのみ、可能であると支那人は主張する。・・・
 
   支那は、外国人の邪悪な点だけを指摘して、自分達の間違いは一切認めようとしていません。
   この様な態度の中に、日本とは異なる支那人の特異な国民性を探る糸口があると筆者(福井氏)は言います。
   それをお手本とし、古来から中華人と同化する事を喜びとして来た朝鮮人も支那人と同じ性質の種族だと断じなければなりません。
 
   一方、日本が開国して間もない頃、外国の勢力と対峙した経緯は、その支那の状況とまったく同じです。
   日本の無防備な海岸は外国の戦艦に砲撃されました。
   不平等条約を押し付けられました。
   治外法権の烙印が押され、日本は関税自主権を失いました。
   日本国内に外国人租界が作られました。
   しかし、日本はその時どう対応したでしょうか。
   答えは一つ。自己検証です。
   日本は、自分達の欠点を認めたのです。
   小さな小競り合いはあったものの、大きな排外運動を扇動する様な事はありませんでした。
   外国人を大虐殺する様な事は何一つなかったのです。
   むしろ、日本は西洋の優越性を全面的に認めました。法律を成文化し、司法制度も再編成しました。
   その上で、日本は列強の仲間入りを申し出て、国際法に準拠した国民国家への船出を果たしたのです。
 
■石原独国出張
   石原は、漢口から帰国後、陸大教官を勤めていましたが、教師などと言う職務は彼の肌にあわず、講義は一方通行、評判は余り良い方とは言えず、彼は大学内では孤立していたと言われます。
   結局、陸大勤務は1年足らずで幕を閉じ、再び、大正11年(1922)7月、彼は陸大教官の役職のまま、再び独国出張を命じられます。
   大正12年(1923)1月、石原は独国出張の途につく為、横浜港を出港しました。
 
   彼がベルリン到着後、間もなくドイツ駐在員となり、3年間ドイツに滞在する事になりました。
   当時の独国は、ヴェルサイユ条約成立の3年後、自国通貨マルクが大暴落している時期で、日本人留学生等にはいわば天国でした。
   独国民には、パン一斤を購入する為に、買い物カート一杯の札束が必要だったと言う凄まじさです。
   ベルリンでの石原はこう伝えられます。
   「日本では、石原はガンジガラメの抑圧の中にあった。その出生、その経歴、どれ一つ取っても、そこにはその言葉本来の意味における自由(解放感)は全くない。そうした息苦しさから抜け出そうとする抵抗だけがそこにはあり、それが人には『自由奔放』に見えた」と。
   石原が、欧州、独国に滞在した時は、WW1のいわば戦勝国側としてのエリート将校と言う立場でした。
   彼と親交のあった里見岸雄の証言では、里見が外遊準備の為、国柱会館に泊まっていた時、石原が訪ねてきて「自分は、従来何回も独国に派遣される機会がありましたが、行こうとは思いませんでした。しかし、今回里見さんが欧州に行く事を知ったので、自分も急に行こうと言う気になったから春には必ず出発し、彼の地でお目にかかります」と言ったそうです。
   彼は、里見が英国滞在中、彼にこんな手紙を送っています。そこには、独国初体験の彼の心境だけでなく、彼のパーソナリティも表されています。
 
  合掌
   仏国に約2週間滞在し戦績等の見学をして、和蘭(オランダ)を経由し当地に参りました。
   国境にて税関の為、ごたつき、遂に座席を失い8時間寒天の廊下に立ち詰めた為か、伯林(ベルリン)到着後直ちに激烈な風邪に犯され、本日ようやく平熱に戻りました。
   マルセイユ宛お手紙2、3日前当地にて拝見、ご無沙汰し、何とも恐縮に不堪(フカン)、早速お返事を申し上げ考えました。
   (現代語翻訳が難解の為中略)
   士官学校以来、全く放置していた独国語、ja 及びNein 以外は全く不通なもので閉口しています。
   軍事上の研究方針もいよいよ確定した為、死力を尽くして努力し、読書力は殆どない為、これまた大難関に衝突した次第にあります。
   住居は、当分ベルリン郊外ポツダムを選びました。
   実は、更に田舎へという事も思いましたが先生との連絡上、是非当分ベルリン付近を必要と言う考えが生まれ、以来、かつて経験した事のない「運動」を行い、しばらくベルリン付近にとどまる事と相成りました。
   何卒(ナニトゾ)、ご用件ご遠慮なくどしどしご下命お待ち申し上げます。
   未だ散歩もしない為、市内の状況も把握しておりませんが(中略)国境の税関には「官吏に贈賄する者は厳罰なるべし」という生々しい告示もあるものの、税吏などは殆ど公然と賄賂を要求する有様、ボーイが酒の席で手を強請るなどの光景は、憐れに感じられます。
   目下、最も物価が高く、ベルリンにて月150円もあれば、人並みの生活は出来るかと存じます。
   但し、このホテル(三流位の所)では病中とはいえども牛乳を調達する事が困難、砂糖、バターなど上等料理屋に行かなければ口に出来ないとの事です。
   尚、詳しく後日報告致します。
恐々
      3月24日    石原莞爾・・ 里見先生へ
 
   当地は、日本料理店が2軒ありますが、支那料理店(この表現原文のままです)はありません。
 
   この手紙から伺えるのは、里見に対する丁重さ、そして配慮です。
   例えば彼は、通関の際の自分の失敗例、つまり税関に贈賄しなかった事による嫌がらせを受けた事を語りながら、通関の際の揉め事を避けるコツを示唆し、物価、住宅、食糧事情、ホテルのボーイに対するチップ、日本料理店の数に至るまでの配慮です。
 
   又、この手紙で示されているのは謙虚さです。
   例えば独国語のja(ヤー)→「はい」、やNein(ナイン)→「いいえ」、以外はダメだとか、読書力も殆どないと書いていますが、これは明らかに謙遜です。
   ドイツ参謀本部職員との激論や、金髪の女友達らとの華麗な交遊などから見て、彼の語学力がハイレベルだった事にはほぼ間違いありません。
   駐在武官としての石原のベルリン生活は、毎朝5時起床、8時まで戦史研究、朝食後愛用のライカを下げて大使館に出勤、昼から街に出て、カフェでモカを飲み、買い物、映画、郊外散策と言う一見、優雅なものでした。
   又、彼がオシャレだったと言う証言は、当時の彼を知る者は皆が指摘するところですが、武官室主催のパーティーでは、紋付袴と言う純日本式の礼服で出席し、集まった外国人夫人や令嬢などに家紋について説明したり、自分が幼年学校(カンデンシューレ)出身の士官である旨を付け加える事を忘れませんでした。
   欧州では、幼年学校と言えば貴族の子弟が入学する事から、彼女らは石原を貴族出身と錯覚していたと言うエピソードもあります。
 
﹅WW1 独国敗戦に関する石原の考察
   石原の理論によれば、独国がシュリーフェン作戦を変更したのは、彼等の心の中に無意識の内に持久戦争への予感が芽生え、それに左右されたからだと言います。
   決戦戦争は男性的で力強い、持久戦争は女性的でしぶとい。
   故に、決戦戦争を戦う時は、統帥権が独立していて、政治の介入を許さず、軍の強力な指導の下に、断固とした態度で戦争を遂行するのが望ましいと。
   逆に持久戦争の場合は、軍の独走を許さず、政治家の主導の下に外交交渉などを駆使しながら、柔軟な戦争を行うのが望ましいと。
   独国がWW1に敗れたのは、持久戦争であるにも関わらず、ヒンデンブルクやルーデンドルフと言った軍部が国をリードし、政治家を寄せ付けず、最後まで決戦戦争にこだわったからだと石原は指摘しています。
   独国が、無併合、無賠償の原則を受け入れてさえいれば、敗戦までには至らず、講和に持ち込めたと。
   その独国と同じ轍を日本は大東亜戦争で犯したと言う事になります。
 
■板垣征四郎連隊長
   板垣は、1927年(昭和2年)3月、陸軍歩兵大佐に昇格し、第三十三連隊長を命ぜられました。
   連隊長と言えば、地方では知事並みの名士の扱いです。秋の秋季演習で彦根に休止した時の板垣は、この地の名家に泊まり、演習の疲れを休め、松茸狩りに興じた事もありました。
   板垣の第三十三連隊は、地元民に見送られ、三重県鳥羽港を出港し、大連に向かいました。
   満洲事変の起こる2年前、支那大陸での不穏な情勢と来たるべき嵐の予感は、全員が心中でひしひしと感じており、その緊張感を吹き飛ばすかの様に、船上では連日の猛暑の中、酒宴が催され、将兵一同が気勢を上げました。
   板垣は、これから過ごす支那大陸での心構えを訓示します。
   「今や、この日支間の空気では、いつどんな事が起こるかも知れぬ。軍人は、文官や民間人と異なり、いざとなったら身命を捨てて働かねばならない。この為、死生観を十分につかんでおかなければならぬ。諸君、死を恐れぬ為にはどうしたらよいか。人間の勇怯(ユウキョウ)は、個人により異なるが、それだけではいけない。例えば宗教に凝り固まって、迷信的に狂信して命を惜しまぬ場合もあるが、これは例外で、それよりも唯々(タダタダ)所命必遂(ショメイヒッスイ)、責任を重んじる使命感に徹する精神こそ、真の勇気であると信じている」。
 
■大連から奉天旅順へ
   大連に到着した板垣は、居留民の大歓迎を受け、奉天に入ります。
   現地は、相当な緊迫感に包まれ、正に一触即発の険悪な空気に覆われていました。
   奉天は、反日(抗日)攻勢に燃える張学良の大軍閥の本拠地だったからです。
   兵力では、張学良の軍が関東軍よりも圧倒的優勢でした。
   板垣は、僅か1ヶ月で奉天の連隊長を辞任し、旅順の関東軍高級参謀に赴任しました。
   ここで、石原と再会します。
   ここから、石原、板垣の満洲組の名コンビの関係が始まります。
 
■石原、板垣の再会
   長春名古屋ホテルの一室で石原は講演を行っていました。
   石原は中佐になっていました。
   観客は関東軍参謀本部の職員です。
   石原の軍事的才能は、更に切れ味を増していました。
   この日の講演で石原の語る、快刀乱麻を断つ様な明快かつ明晰で壮大な軍事理論に、板垣もすっかり魅了され、聞き入りました。
   大陸の6月は初夏で、昼間は焼け付く様な暑さですが、夜は乾いた風が心地良い季節です。
   石原は、神経が高ぶったのか中々寝付けずにトイレに向かいました。深夜一時。
   ホテルの廊下を歩くと深夜なのに、板垣大佐の部屋から煌々(コウコウ)と明かりがともり、戸が半開きになっていた為に誘われる様に石原が部屋に入ると、板垣が机に向かって一心不乱に書き物をしています。
   背後から覗き込んだ石原は、思わず息を飲みました。
   同時に板垣も気が付きます。
   「おお、君か。どうしたのだ、こんな夜更けに」。
   そう言う板垣に石原は聞きます。
   「板垣大佐、何を書いておられるのですか」。
   板垣が答えます。
   「君が昼間の講演で語った戦略理論が、余りにも素晴らしい内容で深い感銘を受けたので、それを忘れない様にと思って、要点を思い出しながら整理し纏めているところなのだ」と言います。
   石原は感動を覚えたそうです。
   石原は、漢口時代に板垣の事をある程度理解していたつもりでしたが、この瞬間、別の板垣を垣間見た様に、板垣が持つ底知れぬ人間性の奥深さに、石原はすっかり圧倒されてしまいました。
 
出典:天才戦略家としての肖像・石原莞爾(佐治芳彦著)、板垣征四郎と石原莞爾(福井雄三著)
 
 
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 
 
(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ大脳皮質は正常(だと思います)(Funny)) 
 
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