国破れてマッカーサー10 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・・Welcome To The Real Worlds!!! 
・・『Zipangu』Is Japanese 
Big Picture 。
The XX Files ・・・Fourth .
Future Generation !
真実と闘え・・・
I Want It . To Believe .(Funny !) 
Zipangu Independence Banzai⁉️
   Go Now ‼️ No Times、No Place⁉️
70Years After The WW2 
   Please Don't Korea❗️
 
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■日米安保
   アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留しています。これを米国による日本侵略とは言いません。
   二国間で合意された条約に基づいているからです。我が国は戦前支那大陸や朝鮮半島を侵略したと言われますが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものだとは誰も思っていません。
   日本は、19世紀の後半以降、朝鮮半島や支那大陸に軍を進める事になりますが、相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めた事はありません。
   現在の中共政府から日本の侵略を執拗に追求されますが、我が国は日清日露戦争などによって国際法上、合法に支那大陸に権益を得て、これを守る為に条約等に基づいて軍を配置したのです。
   これに対し圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから、条約そのものが無効だと言う人もいますが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在した事がありません。
   この日本軍に対し、蒋介石国民党は、頻繁にテロ行為を繰り返します。
   邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生します。
(通州事件、盧溝橋事件、第二次上海事変等)
   これは、現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地に自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人その家族などを暴行、惨殺する様なものであり、とても許容されるものではありません。
   これに対し、日本政府は辛抱強く和平を追求しますが、その都度蒋介石に裏切られるのです。
 
■蒋介石国民革命軍には・・・
   実は、蒋介石はコミンテルンに動かされていました。1936年の第二次国共合作により国民党軍には多数の中共ゲリラが潜伏していたのです。
   コミンテルンの目的は、日本軍と蒋介石国民党軍がぶつかり合い、日支両軍とも疲弊させ、最終的に毛沢東中共ゲリラに支那大陸を支配させる事でした。
   我が国は、支那国民革命軍の度重なる挑発にまんまと我慢しきれなくなって、1937年8月15日、日本の近衛文麿政権は、「支那軍の暴戻を、膺懲(ヨウチョウ)し以て(モッテ)南京国民党政権の反省を促す為に、今や断固たる措置を取る」と言う声明を発表しました。
 
■張作霖爆殺事件も盧溝橋も・・・
   我が国は、蒋介石によって支那事変に引きずり込まれた被害者なのです。
   1928年の張作霖爆殺事件も、関東軍の仕業であると永年言われてきましたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定出来なくなっています。
   最近では、コミンテルンの仕業と言う説が極めて有力になってきています。支那事変にの開始直前、1937年の盧溝橋についても、これまで日本の支那侵略の証みたいに言われて来ましたが、今では東京裁判の最中に中共の劉少奇が、西側との記者会見で、「盧溝橋の仕掛け人は中共で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していた事が分かっています。
   もし、日本が侵略国家だったと言うなら、当時の列強と言われる国で侵略国家でなかった国はどこかを問いたい。
   よその国がやったから、日本もやっていいと言う事にはなりませんが、日本だけが侵略国家と言われる筋合いもありません。
   我が国は、満洲も朝鮮半島も、台湾も日本領土と同じ様に開発しようとしました。当時、列強と言われる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本だけです。
   我が国は、他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治を行ったと言えます。
 
■桃源郷・満洲国
   満洲国は成立当初の1932年(S7)1月には3千万人の人口でしたが、毎年百万人以上の増加を続け終戦時(S20)には5千万人になっていました。満洲の人口が何故爆発的に増えたのか。
   それは、満洲が豊かで治安が良かったからです。侵略と言われる様な行為が行われるところに人が集まる訳がありません。
   農業以外に殆ど産業がなかった満洲の荒野は、僅か15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わりました。
   朝鮮半島も日本統治下で35年間の間に1300万人の人口が2500万人と約2倍に増加しています(朝鮮総督府統計年鑑)。
   日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠です。
   戦後の日本においては、満洲や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかの様に言われています。
   しかし、実際には日本政府と日本軍の努力によって現地の人々は、それまでの圧政から解放され、生活水準も格段に向上したのです。
   我が国は、満洲、朝鮮半島、台湾etcに学校を多く作り、現地人の教育に力を入れました。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残しました。
   又、1924年(T13)には京城帝国大学、1928年(S3)には台湾に台北帝国大学を設立させました。日本政府は、明治維新以降9つの帝国大学を設立しましたが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に作られました。その後、8番目が大阪帝国大学、9番目が名古屋帝国大学と言う順です。
   なんと日本政府は、大阪や名古屋よりも先に朝鮮、台湾に大学を作っているのです。
   又、日本政府は朝鮮人も支那人も陸軍士官学校への入校を認めました。
   戦後、マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身のホンサイク(洪思(立辺に羽))と言う陸軍中将がいます。
   この人は、陸軍士官学校26期生で朝鮮名のままで陸軍の中将に昇進した人です。1期後輩には金錫源(キンソグォン)大佐がいます。
   支那事変の時、支那で大隊長でした。日本兵約千人を率いて何千年も虐げられて来た元宗主国の支那軍を蹴散らしました。
   その軍功著しい事により、天皇陛下の勲章も頂いています。
   勿論、創氏改名などしていません。
   李氏朝鮮最後の殿下、李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校29期生です。
   李垠殿下は、日本に対する人質の様な形で10歳の時に来日する事になりました。しかし、日本政府は、殿下を王族として丁重に遇し、殿下は、学習院で学んだ後、陸軍士官学校をご卒業になられました。
   陸軍では中将まで出世されご活躍でした。この李殿下のお妃となられたのが、日本の梨本宮方子(マサコ)妃殿下です。
   この方は、昭和天皇のお妃候補にもなった高貴なお方です。
   もし、日本政府が李朝を潰す気だったなら、この様な高貴なお方を殿下の元に嫁がせる事はなかったでしょう。
   因みに、宮内庁はお二人の為に新居を建設しました。現在の赤坂プリンスホテル旧館です。
   また、ラストエンペラー溥儀の弟、溥傑殿下の元に嫁がれたのは、華族、嵯峨家の嵯峨浩妃殿下です。
   これを当時の列強と言われる国との比較で考えてみると日本の満洲や朝鮮、台湾に対する思い入れは、列強の植民地政策とは全く異なったものである事が一目瞭然だと思います。
   英国は、インドを占領しましたがインド人の為に教育を与える事などありませんでした。
   これは、オランダ、フランス、米国などの国々も同じです。
   ガンジー、マンデラ等の映画や、著書等を見れば、日本と列強国の植民地政策にどれだけの隔たりがあったのかがより詳細に理解出来るでしょう。昨今の日本で唱えられているレイシズムなど及ばない程の暴虐ぶりでした。
 
   一方、日本はWW2前から五族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満洲、蒙古の各五族が入り混じって仲良く暮らす事を夢に描いていました。
   人種差別が当然と考えられていた当時にあって、画期的な事です。
   WW1戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込む事を主張した際、米英から一笑に付されたのです。
   現在の世界を見れば、当時日本が主張した通りの世界になっています。
   時間は遡りますが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ、1901年に我が国を含む11ヶ国との間で義和団最終議定書を締結しました。
   その結果として、我が国は清国に駐兵権を獲得し、当初2600名の兵を置いたのです。
   又、1915年には袁世凱北京政府との4ヶ月に渡る交渉の末、支那の言い分も入れ、所謂、対華21箇条の要求について合意したのです。
   それは、日本の支那侵略の始まりとか言う人が居ますが、この要求が列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それ程おかしいものとは思いません。
   支那も一度は完全に承諾し批准しました。しかし、4年後の1919年パリ講和会議に列席を許された支那が、米国の後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べる事になります。
   それでも英国やフランスなどは、日本の言い分を支持してくれたのです。(日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一著・祥伝社))
   又、我が国は蒋介石国民党との間でも、合意を得ずして軍を進めた事はありません。常に支那側の承認の下に軍を進めていました。
   1901年から置かれる事になった北京の日本軍は、36年後の盧溝橋事件の時でさえ、5600名にしかなっていません。(盧溝橋事件の研究(秦郁彦著))
   この時、北京周辺には数十万人国民党軍が展開しており、形の上でも侵略には程遠いとは思わないでしょうか。
   幣原外務大臣に象徴される対支那融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も同じです。
 
 
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出典:自らの身は顧みず(田母神俊雄著)、国破れてマッカーサー(西鋭夫著)、渡部昇一の人物戦後史「裸の総理たち32人の正体」(渡部昇一著)、wikipedia japan
 
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 
 
(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ前頭連合野は正常(だと思います)まだ退行性脳疾患患ってないし(Funny)) 
 
Created by box01