国破れてマッカーサー9 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。


・・・Welcome To The Real Worlds!!! 

・・『Zipangu』Is Japanese 
Big Picture 。
The XX Files ・・・Fourth .
Future Generation !
真実と闘え・・・
I Want It . To Believe .(Funny !) 
Zipangu Independence Banzai⁉️
   Go Now ‼️ No Times、No Place⁉️
70Years After The WW2 
   Please Don't Korea❗️
 
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■レッドパージ
   S25.6.26、マ元帥は、吉田総理に新聞赤旗を発行停止処分するよう命じました。
   又、在日米軍から戦闘機10機を韓国軍に与えると発表します。
   韓国戦争開戦後、早々米軍はF80戦闘機、ソ連軍はミグ戦闘機を空中戦に展開します。ミグが優勢でした。
   マ元帥は、GHQのホイットニー准将(民政局長)とウィロビー少将(諜報部長)を率いて韓国の最前線を視察しました。
   米軍爆撃機39機が平壌に空爆を始めます。オーストラリア戦闘機、英国艦隊、ニュージーランド軍艦も参戦しました。
   ソ連・グロムイコ外務次官は「戦争を始めたのは米国だ。米国は、朝鮮人に戦争を仕掛け、朝鮮並びに支那に対して直接的な侵略を行っている。米国は、朝鮮を極東における軍事拠点にする為、全朝鮮の支配を狙っている」と発表。
   韓国戦争は、S28.7.27の停戦までに576万4143人の米兵、その内3万3651人の戦死者を出しました。
   一方、吉田総理は「日本共産党は暴力革命を企てている。」と発言しました。S24年の夏、労使闘争を展開していた国鉄で、迷宮入りの鉄道事故が3件も起きたからです。
❶下山事件  国鉄の下山総裁が線路上でバラバラ死体で発見された。国鉄は9万5千人の解雇を通告していた。
❷三鷹事件  国鉄は、第二次解雇6万3千人を決行。その三日後無人電車が改札に突っ込み民家まで破壊。死者6名。吉田総理は共産党の仕業だと睨んでいた。
❸松川事件  東北本線の列車が、松川駅近くで脱線し、機関士等3名が即死。その日は、東芝の松川工場が1万4千人の解雇に反対するストを計画していた。
   日本政府は、労組の指導者達を次々に逮捕しました。
   GHQウィロビー少将は、マ元帥に報告します。
 
   「日本共産党中央本部の重要人物3名の密告者と通じており、ソ連大使館の隠れ蓑として動いているタス通信とも通じている我々の信頼できる情報筋が私に、ソ連は徳田が提案した攻撃的、革命的な色彩の指導性に強い不満を持っている、と告げてきました。」
   徳田球一は、マッカーサーが進駐直後行った政治犯釈放で出獄した共産主義者の一人で、18年間獄中生活を送っていた人物です。続けて
「日本と韓国の間を行き来している韓国人達の複雑な秘密連絡網があります。この連絡網は、日本にコミンフォルム(解散後に改名し再結成されたソ連の共産党本部)のスパイや政策指導案、資金などを送る為に利用されています」
 
   GHQは反撃に出ます。S24年4月、団体等規制令を公布。この法律は、反民主的と睨まれた団体組織に対し、責任者を尋問に呼び出す権利と、資料を提出させる権利を謳っています。
   マ元帥はこう言います。
   「日本共産党は、今や破壊宣伝に現を抜かし、外国の帝国主義政策の手先と成り下がり、略奪勢力の片棒を担いでいる。その様な共産党は、彼等が破壊しようとしている国家の法律の利益と保護を受ける権利がかるかどうか疑問であるし、憲法上認められた政治団体として存在する理由も疑わしい。」
   吉田総理も「私自身もマ元帥と全く同じ考えで、共産党を非合法としたかった」と発表しました。
 
   同年5月30日、皇居前広場で午前中に開かれていた共産党主催(民主民族戦線東京準備会)の人民決起大会に1万5千人が参加していた後、米兵4人が参加した日本人に殴る蹴るの暴行事件が発生しました。
   暴行事件直後、4人の共産主義者が逮捕されます。
   警視庁は、「当面の間、全ての屋外集会を禁止し、一切の集団行進、集会、集団示威運動等は行う事は出来ない」と発表しました。
 
■怒るマッカーサーと吉田総理
   S25.6.6、マ元帥は、日本共産党が事件を起こすのを待ち構えていたかの様に、吉田総理に日本共産党中央委員24人をレッドパージ(共産党追放)せよ❗️と命じました。
   吉田総理は、この赤狩り命令をマ元帥本人から直接手渡されました。
   同日、増長した日本共産党は元帥と総理大臣を敵に回し声明を発表しました。その声明は、現在の民主党やTaro Yamamotoと愉快な仲間達などの主張と酷似しています。
   「世界の歴史は、ヒトラー、東條の様に、共産党を粉砕しようとする者は、逆に粉砕されて、墓場に追いやられる事を教えている。全国の愛国者諸君、我々と共に決起して、自由、平和、独立の為に、敵の陰謀を粉砕し、新しいヒトラー、東條を墓場に追放せよ❗️
   マ元帥と吉田総理は、ヒトラー、東條と比較された事を大変な侮辱と見なしました。翌日、マ元帥は吉田に赤旗の編集者17人を逮捕する様に命じました。
   マスゴミの赤狩りも徹底しました。
   各TV局と新聞社は、自主的に共産主義の職員を解雇しました。「アカヒ」72人、「変態毎日」49人、「日経」20人、「東京新聞」8人、「NHK」99人、「時事通信」16人、「共同通信」33人。
   やはりダントツでNHK、アカヒがパージされています。この2社は昔から変わってませんね。
   レッドパージは効果的でした。赤狩りの恐怖の輪は、教育界にまで波及しました。
   戦前の危険思想弾圧の痛々しい記憶はまだ新しく残っていました。
   イールズ博士(スタンフォード大学准教授)の報告によれば「S23年、約1200人の共産主義の教師、又はシンパの教師が、辞職勧告され、殆どは辞職した」とあります。
   マスコミに司直の手が入ったのは、何か現在の放送法に抵触しているNHKとTVアカヒの状況と似てますね。
 
■吉田総理南原東大総長
   S25年、サンフランシスコ講和条約を目前に、吉田は日本の国際社会復帰を準備していたが、ソ連、中韓などの特定国が不在の為、西側諸国だけの条約にしかならないので、これを「単独講和」と呼び、南原総長はソ連等を含む「全面講和」を提唱しました。
   南原の主張は、共産党と同じ内容でした。南原は、明らかに吉田の親米的、ワンマン政治に反対する人間でした。吉田は、S25.5.3、自由党両院議員秘密総会で「南原総長の全面講和の主張は、曲学阿世の徒の言葉にほかならぬ」と言いました。扉が開いていたのか、その言葉は報道にすっぱ抜かれました。
   南原が記者会見で反論します。
吉田のやり方を、「満洲事変以来の''軍部とその一派''がやったのと全く同じだ。」更に
   「それは学問の冒涜、学者に対する権力的強圧以外のなにものでもない。全面講和や永久中立論を封じようとするところに、日本の民主政治の危機の問題がある」と。
   全学連中央執行委員会は、南原声明を強く支持しました。
 
   これに吉田スクールの愛弟子、佐藤栄作、当時、自由党幹事長は、言います。
   『南原総長が講和問題について、自由な判断をするのはいいが、南原氏などにとやかく言われるところではない。もとより学問の自由を尊重するが、この問題はすでに政治の問題になっているので、ゾウゲの塔にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である。
   学問への権力的強圧を加えるものであるとか、学問の冒涜であるとか言うのは、それこそ学問の独善的判断と言わざるを得ない。政治問題について学問の立場からかくの如き反論を出す事自体、非民主的と言われてもやむを得まい。これは全く地位を守られている学究の徒として、その自由な立場を乱用するものであり、国民諸君も南原氏の所論には耳を貸すまいと信ずる』
 
   天野新文相は、GHQホイットニー民生局長に表敬訪問しました。
   ホイットニーは「あなたの最も重要な任務は日本の学生が、政治に立ち入らない様にする事と、目下の事態に安全をもたらす事である。
   共産主義が大きな脅威とは思われないが、共産党がその目的を促進する為、未熟な学生を道具として利用しようとしている事は事実である。
   学生の団体は、とかく過激な運動の温床となりやすい。毅然たる態度をもって情勢に対処される事を希望する」と語りました。
 
■サンフランシスコ講和条約締結。
   1952(S27)4.28、サンフランシスコ講和条約発効、同時に日米安全保障条約締結し、GHQの日本占領も終了します。
   かくして、米英をはじめ、世界の49ヶ国が講和条約締結に賛成しています。49ヶ国と言うと、随分少ない様に思うかも知れませんが、当時、アフリカ各地は英仏等の植民地のままで、まだ独立していませんでしたので、この49ヶ国というのは「世界の殆ど全ての国」と言って差し支えありません。
   日本にとっては、占領が終わって国としての独立を回復する事ですから、これ程有難い事はありません。
   それにも関わらず、日本国内には妙な動きがありました。
   ソ連とポーランド、チェコが条約に反対している事を種に日本が結ぼうとした条約に反対したのです。
   49ヶ国との講和条約に「単独講和」と言う名前を付け、ソ連とその衛星国を入れた講和を「全面講和」と呼び、我が国は全面講和を結ぶべきだとゴネたのです。
   ソ連、ポーランド、チェコというたった3ヶ国の社会主義国を加えたものを全面講和と呼んだわけですから、まさに言葉遊び、悪意あるレトリックでした。
   そんな詭弁を弄したのが当時「進歩的文化人」と呼ばれた左翼系知識人達でした。
   彼等全面講和論者の事務局は、たしか岩波書店に置かれていたと思います。
   時の東大総長、南原繁も全面講和論者でした。
   「全面講和を支持せよ」と言うのはスターリンの命令、少なくとも希望と言われていますから、ソ連の意向に沿った共産党或いは社会党、そして社会主義を正義と思っていたインテリ達、そういう勢力が講和条約を阻止しようとしたのです。
   そこで「全面講和」をふりかざし、我が国の独立回復の邪魔をする東大南原総長に対して「曲学阿世の徒」という言葉を投げつけて批判したのが吉田でした。
   「学問を捻じ曲げて世間におもねる輩」と言う意味です。
   この時また「曲学阿世」と言う言葉が流行語になりました。
   平和条約がサンフランシスコで締結される事になった時、吉田総理は各党に調印式への参加を求めました。
   が、ついに社会党は参加しませんでした。
   これは、今でも忘れてはいけない事実です。
   社会党及びその賛同者は、日本の独立に反対だったのです。
   そして、その系譜が現在の民主党、社民党です。
   米国が独立戦争を戦った時(1775~83)、「祖国英国と戦争するのは嫌だ」と言った人達がいました。ワシントン軍が勝って独立を果たした時、その人達は大抵米国を追われ、カナダなどに移住しています。
   そのひそみに習って厳しい事を言えば、サンフランシスコ講和条約に反対した全面講和論者達は皆支那かシベリアに行ってもらうべきでした。
   そうしていたら、その後の日本は非常にすっきりした国になったのではないかと思います。
 
﹅自分一人の責任で調印
   吉田は、サンフランシスコ講和条約を締結すると同時に、個別に米国と日米安全保障条約も締結しています。
   この時、吉田は安保調印の場には誰も連れて行かず、たった一人で姿を表しています。
   講和会議には、前述した様に都合6人の全権団で出席しましたが、安保条約の方は自分一人で責任を負うつもりだったからです。
   日本で気勢を上げる安保条約反対派の攻撃から全権委員を守る為の行動だった事は明らかです。吉田スクールの優等生を自認していた池田勇人蔵相は、そんな吉田の水臭さに憤慨し、強引にタクシーに同乗したといいますが、会場までは同行出来ても、ついに調印の場には入れませんでした。
   吉田が入れなかったのです。
 
﹅東條・マッカーサー史観
   マッカーサー元帥の有名な言葉があります。「彼等(日本人)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られての事だったのです」
   東條首相の東京裁判での宣誓供述の中で「日本はじわじわ首を絞められる様になって自衛の戦争に立ち上がらざるを得なかった」と言う趣旨の発言があります。
   東條もマッカーサーも同じ事を言ってるのです。
   これは、昭和史前半については、「東條・マッカーサー史観」が成り立つと言って差し支えないものです。
   ところが、これ程重要なマッカーサー証言が当時の日本のマスコミで報道される事はありませんでした。
   いかに当時からマスコミが左翼偏重、国民の知る権利を侵害していたかがこの事例でも分かります。
   では、何故戦後日本が左翼的だったかと言うと、その根源は公職追放にあります。
   公職追放は、鳩山一郎のパージという形でドラマチックに幕を開けましたが、その後も多くの人々が追放された事には触れましたが、その時、空いたポストを埋めたのが「赤い人達」でした。
   戦前であれば日本帝国を呪っていた人達、戦後であれば日本をソ連の様にしたいと思っていた人達が非常に多く公職追放された人々の後釜に座ったのです。
   マスコミを牛耳る様になったのも、そんな赤い人達でした。マッカーサー証言を肯定すると、戦前の日本も大東亜戦争も決して悪くなくなってしまいます。
   だからジャーナリズムを握っていた彼等左翼は、わざとマッカーサー証言を黙殺したのです。
   公職追放で空いた椅子に座った大学教授達も口を閉ざしたままでした。
   実際、大学関係は一番公職追放の被害を被りました。
   曲学阿世の徒、東大の南原総長は全面講和論者ですから絶体に左翼です。
   共産党員かどうかは別として、その影響下にあったと言っていいでしょう。
   一方、なおも続く韓国戦争の中、ほぼ''北朝鮮・支那中共・ソ連共産軍に攻撃してはならない''と言うにも等しい、トルーマン大統領の政策と、韓国の戦線を任されていたマッカーサーとの朝鮮政策は最後まで一致する事はありませんでした。
   S26.4.12、アカヒ新聞に社説が踊ります「マックアーサー元帥を惜しむ」。
   マッカーサー元帥は民主党のトルーマン大統領によって解任されました。
   後任の総司令官に、マシュー・リッジウェイ中将が就任し、リッジウェイは就任と同時に大将へ昇格します。
   翌年、S27年にサンフランシスコ講和条約が発効され、日本は主権を回復します。
   同時に、GHQの日本占領は終了しますが、日米安保条項によって、GHQの占領軍は、その一部が在日米軍に姿を変え、戦後70年の現在まで東アジアの帰趨を見極めているのです。
 
 
 
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出典:国破れてマッカーサー(西鋭夫著)、渡部昇一の人物戦後史「裸の総理たち32人の正体」(渡部昇一著)、wikipedia japan
 
乱筆乱文長文を
ここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 
 
(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ視覚野は正常(だと思います)まだ退行性脳疾患患ってないし(Funny)) 
 
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