国破れてマッカーサー7 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。



・・・Welcome To The Real Worlds!!! 
・・『Zipangu』Is Japanese 
Big Picture 。
The XX Files ・・・Fourth .
Future Generation !
真実と闘え・・・
I Want It . To Believe .(Funny !) 
Zipangu Independence Banzai⁉️
   Go Now ‼️ No Times、No Place⁉️
70Years After The WW2 
Every Thing . Live On This Way .
Sorry . change the world・・・。
   Please Don't Korea❗️


■開廷、東京裁判
   S21.5月からS23.11月、所謂、東京裁判が、およそ2年半かけて行われ、多くの先人達が裁かれました。
   S23.12.23、A級戦犯の罪として死刑執行7人。卑劣にも、GHQは今上陛下のお誕生日に死刑執行したのです。
   永遠に忘れない様にと・・・
   7人だけじゃありません。
   B、C級戦犯の罪として、6百人余りが絞首刑、3百人余りが銃殺刑にされています。人数の後ろに「余り」とつくのは、何人執行したか正確に把握されていないからです❗️
   死刑執行された軍人の中には、冤罪だった人も多く含まれていると言われています。何故か❓。復讐を遂げる為、一方的に訴追し、弁護も審理もなかったからです。
   インドのパール判事は、唯一の国際法の専門法律家として当該裁判に参加し、全員無罪判決を出しています。また、反対意見書を法廷に提出しています。
   ニュルンベルク裁判と東京裁判の共通点として遡及法で勝者が敗者を断罪した点が問題視されています。

   およそ国家間に友好条約が存在するというのは、過去の事について示談が成立したという事です。そして示談という言葉から、ただちに分かる様に、当事者双方に言い分があったという事です。
   子供同士の喧嘩ならいざ知らず、国家と国家が戦争状態に入るに当たっては、開戦に至るまでの経緯があり、又開戦する上での言い分があった筈です。
   勿論、だからと言って戦前の日本を全面的に擁護するつもりもありません。
   しかし、どの様な言い分があって開戦の止むなきに至ったかという事について、少なくとも日本人だけは知っておく必要があります。
   ところが戦後の日本では、今日に至るまでこうした「言い分」について話したり書いたりする事が一種のタブーとなって来ました。
   戦前の日本が行った行為は全部悪であり、弁護の余地はないと言わねば、その人は言論界や教育界に身を置く事が出来ない様な状況が続いてきました。
   昨今の「反日日本人」が横行する事となったのも、その為です。
   いったいこの様な状況がいつから生まれたのか。やはり、その最大の原因は敗戦直後に行われた東京裁判にあるでしょう。
   およそ2年7ヶ月に及ぶ東京裁判において、戦争指導者として25名がA級戦犯とされた訳ですが、「戦後の日本」=「犯罪国家」という印象は、この裁判によって日本の内外に広められ、それが戦後日本の思想と教育の大筋になってしまいました。
   しかし、この東京裁判ほど非文明的裁判はありません。
   東京裁判とは通称で、正式名称は「極東国際軍事裁判」です。
   国際という名称があるから、何か国際法に基づいたものだと思っている人も少なくありませんが、それは全くの誤りです。
   この裁判の根拠となっているのは、占領軍が公判直前に作った「極東軍事裁判所条例」(S21.1.19布告)という一片の文書に過ぎません。
   それどころが裁判官と検事がグルになっているのですから、これは裁判と呼べる代物でもありません。
   検事が全て戦勝国の人であるというのはまだしも、裁判官も全て戦勝国か、その植民地国出身で中立国の人は1人もいないのです。
   つまり、これは裁判と言う名を借りた復讐の儀式だったのです。 

﹅何故、石原将軍は被告にならなかったのか
   この東京裁判を思う時、著者(渡部)には必ず思い出される事があります。
   それは、あの満洲建国の中心的存在として知られる石原莞爾将軍の事です。
   たまたま将軍は、著者と郷里が同じで旧制中学でも将軍は、著者の先輩に当たります。だから、子供の頃から将軍の話は良く聞かされていました。
   その将軍が敗戦後、郷里に隠棲される事になりました。何しろ田舎の事ですから将軍の日常生活について著者も色々な噂を聞きました。
   その中でも印象に残ったのは、隠棲中の将軍が常に昂然としておられると言う周辺の人達の話です。
   当時は既に東京裁判が始まっていました。政治家や軍人は元より、普通の日本人でさえ戦犯として連行されるのではないかと脅えていた時代に、石原将軍は平然と過されていたといいます、聞くところによれば、石原将軍は、周囲にこう言っておられたそうです。
   ・・満洲国を作ったのは自分である。その人間を呼ばないで、どうして戦犯裁判などが始められようか。
   私のいない東京裁判など滑稽の極みである。・・・
   なるほど将軍の言う事は、至極最もな話です。満洲建国が悪質な犯罪であるならば、その首謀者こそまず訴追されるべき人物でしょう。
   しかも関東軍において、石原将軍と並び称せられた板垣征四郎将軍はA級戦犯として死刑になっているのですから。

■マッカーサー新憲法が国会提案
   S21.6.26、マッカーサー新憲法草案は、日本政府自らの草案として国会に提案されました。
   マ元帥の声明が付け加えられていました。
   『今、国会に提案された政府憲法草案は、日本の文書であり日本国民の為のものである』と。
   それから70年後の現在・・・私達は、一度も公式の戦争を布告していません。一度も憲法改正してません。
   韓国戦争、越国戦争にも参戦していません。湾岸戦争、中東戦争然りです。
   新憲法には二つの大きな特徴がありました。
   第一には、日本史上、前例のなかった人権、市民権の保障です。
   GHQは、国民の人権をめぐって日本政府が示した態度を次の様に批判しました。
   「日本政府は、国民が自由を乱用するのではないかと恐れ、行き過ぎを防止する法的措置が取られなければ、行政が麻痺してしまうのではないかと心配ばかりしている」と。
   日本人は、乱用出来る程の自由を手にした事はなかったのです。

■第9条
   第二の特徴は、「戦争放棄」の第9条です。特徴と言うより、最早マッカーサー新憲法の基礎となっています。
   敗戦直後の虚脱状態にあった日本人から、平和と言う甘い言葉を使い、「愛国心」と「誇り」を誘い出し、マッカーサーは素手で扼殺しました。
   その死体が第9条です。
   マッカーサーは、自分には責任はないと何度か釈明しています。
   マッカーサーがトルーマンに解任された年、S26.5.5、米議会の公聴会で、9条は「幣原総理が書き入れた」と証言します。
   マッカーサーが、9条と自分との関わりを否定しようとしたのは、自分の名声にとって不都合な現実が次々と出てきたからでした。
   冷戦が激化し、支那が共産主義革命を成功させ、ソ連が原爆実験に成功し、朝鮮が今にも戦争の危機を迎え、あたかもアジア全土が共産主義の下に屈服させられるのではないかという情勢が目の前に展開した為で、吉田総理に命令して警察予備隊を創設し、共産主義者に対して国防・自衛をする様にという指令まで出しています。

﹅第9条はマッカーサーの呪い
   9条は、マッカーサーの亡霊が戦後日本に呪いをかけるかの様に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と呟き続けます。
   この意味不明な日本語故、マッカーサーの呟きがより恐ろしく聞こえるのでしょうか。
   9条の非現実性が明白になっている今でさえ、富国日本はマッカーサーの呪いに縛られ、身動き出来ず、かつての敵軍に国土を守ってもらっています。
   9条がある限り「戦後レジーム」は終わりません。
   9条は、「生きる本能」、命を守る「自衛本能」を否定しています。
   男が、女子供を守る、親が子を守ると言う自然的本能を、「戦後」「武力の行使」と卑下した稚拙な空想が第9条。
   人間の本能を無視している為、9条の非現実性が我々の日常生活を脅かし、歪めています。
   女子供を守る本能を忘れさせられた日本の男が、戦後日本を勇気もなく信念もない情けない群衆にしてしまいました。
   情けない国民は、強い用心棒を雇います。高いお金を出し、強い米兵を雇います。
   日本を守る為、米兵がこの異国の地日本で血を吹いて死んでいっても、日本の男達は平気なのでしょうか。
   恥ずかしくもないのでしょうか。
   罪悪感も感じないのでしょうか。
   この状態を平和と呼び、平和教育、平和憲法と、あたかも平和踊りを輪になって舞っている日本人は、賢いのか、ズルいのか、それとも狂気の「亡国踊り」をしながら奈落の底へ堕ちていってるのでしょうか。

﹅決断力・統率力に欠けるリーダー
片山哲総理大臣(S22.5.24~S23.3.10)のニックネームは、グズ哲と言ったそうです。
   政権の座にあった吉田自由党が、片山・社会党に敗れ、社会党が第一党になりました。
   第一党とはいえ自由党との議席差では僅かでしたから、社会党は連立を組まなければなりませんでした。
   そこで社会党幹事長だった西尾は、四党連立を考え「閣僚は社会党が多くを占めるが、首相は自由党総裁の吉田続投でも構わない」と言う奇策を打ち出しました。
   この策を吉田は拒否しました。
   『首相は、第一党から出すのが憲政の常道である』と言うのがその理由でしたが、そこで当時、憲政の常道と言う言葉が流行しました。

﹅秀才の悲運
芦田均総理大臣(S23.3.10~10.15)
   筋金入りのリベラリスト。
   片山内閣が党内分裂の為、総辞職します。それこそ憲政の常道から言えば、第二党の自由党が政権をとるのが当然でした。
   ところが片山から政権を禅譲されたのは、民主党総裁、芦田均でした。
   この禅譲劇を仕組んだのは、GHQ民政局でした。ウィロビー准将と連携を取り続ける保守派の吉田を嫌っていたケーディス大佐は、何としても自由党内閣の成立を阻止しようと片山をそそのかしたのです。
   そして吉田は、今度は「政権のたらい回しだ」と言ってこの禅譲を批判しました。ここでまた、「たらい回し」と言う言葉が日本中で流行する事になります。
   先の「憲政の常道」といい、労働運動の指導者達に向かって投げつけた「不逞の輩」といい、或いは後の講和条約締結を巡って南原総長を罵倒した「曲学阿世の徒」といい吉田と言う人は、キャッチコピーを作る天才でした。

■戦後日本の礎・第二次吉田政権始動
   S23年に相次いで発覚した「西尾献金問題」「昭和電工疑獄事件」に直撃され逮捕者が出た芦田内閣はわずか220日で崩壊してしまいます。
   芦田総理自身も総辞職の後、逮捕されてしまいます。
   そして、ここから第二次吉田政権がスタートする事になります。
   吉田は、第二次政権発足のS23.10.15からS29.12.10の第五次吉田政権終了までのおよそ6年間総理を歴任します。戦後日本で二番目に位置する長期政権となります。
   第二次吉田政権で特筆すべき事は、佐藤栄作を官房長官に起用した事です。吉田スクールの愛弟子である佐藤、当時まだ代議士経験のない佐藤を官房長官に起用するという抜てき人事をやってのける、前例に囚われない、如何にも意表を突いた吉田らしさが表れています。
   戦後、一番の長期政権を築いたのは、佐藤栄作総理、安倍総理の叔父です。
   因みに、二番目に吉田茂、三番目に小泉純一郎、四番目・中曽根康弘、五番目・池田勇人、六番目・岸信介、そして現在七番目に位置しているのが安倍総理です。
   こうしてスタートした第二次吉田内閣ですが、吉田としては一日も早く解散総選挙をしたがっていました。
   前回の総選挙では、自由党は第二党で少数与党だった為、何とか早く解散して自由党の党勢を拡大したいと考えていたからです。
   さて、S24.1月の総選挙の結果は
・民主自由党  264議席
(S23結党した吉田自由党と元民主党から離脱した民主クラブが合流した政党、第三次吉田政権時、自由党に改名)
・民主党  69議席
・日本社会党  48議席
・日本共産党  35議席
・国民協同党  14議席
   吉田自由党の単独過半数、圧勝でした。
   圧勝の理由は何かと言うと、国民が吉田に安心した事が第一でした。
   第二党に落ちた時、吉田は連立政権での首相就任を求められましたが、憲政の常道に従うと言って下野しています。
   政権の座に恋々としなかった。それが国民の目には潔く見えたのです。
   第三次吉田内閣の仕事で、一番大きかったのは何と言ってもサンフランシスコ講和条約です。
   これによって日本は被占領国から独立国へと復帰する事が出来たのですから、サンフランシスコ講和条約締結の意義は幾ら強調しても強調し過ぎる事はありません。
   米国は、当初生意気な有色人種の国、日本が二度と立ち直れない様に、25年ないし50年位占領して、アメリカ、インディアン並の国にしてしまおうと考えていたとさえ言われています。
   それが嘘でない証拠に、被占領国日本は本当にそう言う方向に向かっていました。
   実際、終戦直後はドイツ解体計画とも言うべき「モーゲンソープラン」が本気で考えられていました。
   このプランは大体次の三つの柱からなっています。
一、ドイツは2つの独立国家に分割される。
一、ドイツの主要な鉱工業地帯は、国際管理下におかれるか、近隣国家に割譲される。
一、ドイツの重工業は、全て解体されるか破壊され、軽工業と農業の国にする。
   日本にもこれと同じ様な措置を適用しようという動きがあったのです。
しかし、米国がふと気が付いたらアジア大陸はみな共産圏になっていました。
   支那大陸も満洲もシベリアもみんな共産圏です。
   そしてスターリンと毛沢東の後援を受けた北朝鮮軍は、怒涛の如く韓国へ攻め込んできて、朝鮮半島を席巻します。
   韓国へ駐留していた米軍は、釜山まで追い詰められてしまいました。
   そんな状況に立ち入った時に、マッカーサーは「ああ、東京裁判で日本の弁護側が主張していた事は本当だったんだ」と実感します。
   満洲国をソ連勢力との緩衝地帯として確保しておけば、朝鮮半島まで攻め込まれる事にならないと言う事が良く分かりました。
   そこでマッカーサーも「戦前の日本は決して悪くなかった」と言う基本的な認識が生まれた為、又米国政府にも同じ見方が支配的になった為、占領政策を180度転換すると同時に日本の独立を回復させる平和条約を急いで締結する事にしたのです。

出典:国破れてマッカーサー(西鋭夫著)、渡部昇一の人物戦後史「裸の総理たち32人の正体」(渡部昇一著)、かくて昭和史は甦る(渡部昇一著)
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乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ前頭連合野は正常(だと思います)まだ退行性脳疾患患ってないし(Funny)) 

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