国破れてマッカーサー5 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・・Welcome To The Real Worlds!!! 

・・『Zipangu』Is Japanese 
Big Picture 。
The XX Files ・・・Fourth .
Future Generation !
真実と闘え・・・
I Want It . To Believe .(Funny !) 
Zipangu Independence Banzai⁉️
   Go Now ‼️ No Times、No Place⁉️
76Years After The WW2 
   Please Don't Korea❗️
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■マ元帥と昭和天皇の2ショット写真
   マッカーサーと昭和天皇は合計4回の会談をしました。あの有名なマッカーサーと陛下の2ショット写真はその時に撮影されたものです。S20.9.27のご訪問時のものです。
   宮内省(当時は庁ではなく省)は、陛下のご訪問を非公式なお出ましと国民に説明しましたが、日本人はこれまで陛下のこういった前代未聞の行動を聞いた事はありませんでした。
   外国人が陛下の方に訪問するのが当たり前だったからです。
 
   マッカーサーは、日本人による天皇批判を煽る為、また日本の最高責任者は自分であり、その権威は天皇より上なのだと言う事を日本人に知らしめる必要性から、陛下との2ショット写真を強行的に新聞に掲載しました。
   国務省のエマーソンは、「モーニング服を着た哀れな小男の傍にそそり立つ、開襟の軍用服のマッカーサー元帥」と揶揄しています。
   今よりも、ずっと愛国心の高い風潮にあった当時では、明らかな国体侮辱発言でした。
   アカヒ、毎日、読売報知の三代紙がこの写真を掲載しました。
   日本政府は、三紙が天皇の神聖を汚したとして、発行停止処分にしようとしました。
   しかし、マッカーサーは会談の同日、『新聞及び言論の自由の促進』と言う新たな指令を公布しており、それを根拠に報道を強行しました。
   その後、マッカーサーは「自分からの命令がない限り日本政府はいかなる新聞記事に対しても罰則を加えてはならない」と命令し、日本政府が戦前に作った報道規制する為の法規十二条を廃棄しました。
 
■マ元帥と武装解除と日本共産党
   東久邇宮稔彦総理大臣(任期S20.8.17~10.9)は、終戦の御詔勅、玉音放送から2日後の鈴木総理が退任した後、就任されました。言うまでもなく初の宮様内閣誕生でした。
   東久邇内閣の責務は、「降伏文書調印」「武装解除、軍解体」「民主化」など敗戦処理全般でしたが、中でも困難を極めたのが武装解除・軍解体でした。
   若い人達が、「戦争は終わったんだから戦地から戻って来なさい」と命令すれば軍人達は皆、喜んで帰って来る筈と思うかも知れませんが、現実はそう簡単ではありません。
   当時は、むしろ敵国の占領統治と軍事裁判の恐怖、虜囚の恥辱、無条件降伏への怒り、失望等の感情で軍人達の胸は張り裂け、敗戦を喜ぶ精神的余裕はなかった筈です。
   一般人は別ですが。
   東久邇総理は、各官庁の新採用者に、「まず第一に官吏は天皇陛下の官吏であると言う自覚を持って頂きたい。天皇陛下に奉公するのが官吏たるの本分である。」と訓示しました。
   マッカーサーは怒りました。敗戦国の首相の吐く台詞ではないと。
   山崎巌内務大臣は米軍機関紙の取材に次の様に回答しました。
   「思想取締の秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。
   又、政府転覆を企む者の逮捕も続ける。政治形態の変革、特に皇室廃止を主張する者は全て共産主義者と考えて、治安維持法によって逮捕される。」と断言しました。
   マッカーサーは、山崎大臣を即刻クビ(公職追放)にしました。
   東久邇政権が、「政治の自由」に関しては沈黙を続け「天皇の神聖さ」だけを強調している事に業を煮やしたマッカーサーは、かつてない程の広大な民権を日本人に与えると宣言しました。
   エマーソンが「占領下の最初の政治的爆弾」と名付けた指令です。
   この爆弾宣言は、東久邇総理にとって決定的な屈辱となり、政権は傾きます。
   この宣言は、『思想、宗教、集会及び言論の自由を妨げてきた法令を直ちに廃止し、天皇、皇室及び日本政府に関する自由な討議を奨励せよ。』と言うものです。
   事実上、これによって治安維持法等16の法令廃止、思想統制機関の即時解散、特高(特別高等警察)廃止、憲兵隊廃止、内務省まで廃止されました。
   政治犯釈放も始まります。
   この頃の政治犯と言えば、イコール共産主義者と極左(共産党シンパ)でした。
   爆弾宣言はこう続きます。
   『弾圧法令によって投獄され、拘禁されている全ての人を直ちに釈放せよ。この指令に従わない日本政府の全ての役人には、個人的に責任をとらせる』。
   日本の政治に計り知れない影響を与えた10月4日の指令は、日本のマグナカルタと呼ばれます。
   長く虐げられてきた共産党は、この指令を輝かしい新世界への宣言として大歓迎し、GHQを「解放軍」と呼びました。
 
   マッカーサーの祝福を受け、夢心地の共産主義者は、出所してすぐ猛烈な宣伝活動を始めました。GHQは、自ら共産主義者達を釈放した一ヶ月も経たない内に後悔していました。
   アチソンは、トルーマンに宛てた書簡の中で「不幸にして、最も積極的で声の大きいのは共産党の連中です。
   共産党の指導者達の凄まじい気力は一目瞭然です。
   通常の人間の肉体と精神なら完全に破壊したであろう18年間の独房監禁にも耐え、釈放が決まると刑務所の外に出る前に演説を始めました。共産党はソ連との結びつきを否定しておりますが、今後、問題を引き起こす可能性が大いにあります。」と嘆きました。
   自信と野望に燃えている共産党は、終戦の年12月8日、東京神田で「戦争犯罪人追及人民大会」を開き、「食糧を奪い取った天皇の戦争責任を追及」する事を決議しました。
   マッカーサーは、共産党員に被選挙権の回復も行いました。
   S9年以来、発行停止処分になっていた新聞「赤旗」も、出獄を機に再開されます。
   日本共産党は、マッカーサー万歳を叫び、党員はうなぎ登りに増加し、革命の野望と積年の恨みを胸に、大日本帝国の精神的な支柱であった天皇への集中的な攻撃を開始します。
 
■米国人良心呵責
   GHQ労働局、ヘレン・ミアーズは、自著、アメリカの鏡・日本の中で次の様に語っています。
   「米国政府は、日本が朝鮮半島やアジア大陸へ侵略をしたから日米戦争になったと米国民と世界中に言いふらしているが、世界地図を見れば、どの国がアジアへ進出したか歴然としている。我々米国が、遠く離れたアジアへ乗り込んでいったのだ。
   日本は、アメリカ大陸へも、ヨーロッパ大陸へも進出していない。米国は、アジアで日本が邪魔になった為、無理難題を突き付け、日本を窮地に追い込んだ。日本は自衛の為に闘うより他に生きる道はなかったのだ。
   米国は、勝つ事が分かっていた戦争に日本を引きずり込み、日本を徹底的に破壊し、力尽き果てた日本兵と一般市民を殺しまくり、勝敗のついた後でも、原子爆弾を二発も使い、更なる大量殺戮を実行した。
   占領下、GHQは狂気の軍国主義・日本を民主平和国家にすると独善的な言葉を使っているが、素晴らしい文化と長い歴史を持っている日本に武力で米国様式を押し付けているだけだ。」
   この本は、マッカーサーにより発売禁止、翻訳禁止の烙印を押されました。
 
■マッカーサー憲法起草
   憲法は、国の魂。
   憲法を書く事は、国と言う肉体に魂を入れる事。
   憲法は、国の品性、人格を表す。
   マッカーサーは「東久邇内閣に憲法改正の草案を作る様に命じた。ポツダム宣言が要求している政府と社会が出来る様に、と命じた。」と言いました。
   近衛文麿(コノエフミマロ)は、マッカーサーとアチソンに面会し、日本の将来について助言を求めました。マッカーサーは、この時「憲法は改正すべきである。改正には自由化をふんだんに取り入れるべきである。」と言いました。
   近衛は、支那事変開戦時の総理で、東久邇政権の閣僚でした。
   マッカーサーの爆弾宣言によって、東久邇政権は総辞職に追い込まれますが、次期、幣原政権でも、近衛は内大臣府御用係と言う役職に就き、新憲法草案に尽力しました。
 
﹅東久邇内閣から幣原内閣
   東久邇内閣がGHQマッカーサーに見放されて、総辞職した後、次の総理を誰にするかと言う問題が出ました。東久邇内閣の外相・吉田茂が幣原を推薦しました。
   吉田は、兎に角、総理はGHQとりわけマ元帥のウケが良い人物でなければならない事を知っていました。
   幣原喜重郎総理大臣(任期S20.10.9~S21.5.22)は、外務官僚出身で吉田の外務省時代の先輩でした。超オールドリベラリストの総理が誕生しました。
   幣原政権時、陛下の「人間宣言」発言がありました。原案を起草したのは幣原です。
   外人にも納得出来る様に、「天皇は神話とは関係ない」「神ではない」という事を鮮明にしたのです。
   最も私達にしても、陛下が外国語の意味における「God」と同じなどとは思っていませんから、これで良かったのです。
   言い換えれば、「人間宣言」は欧米人が錯覚を起こしやすい神=Godの否定だったのです。
   日本で言う「カミ」とは、一神教で言うGodではなく、優れた力を備えているが故に、皆から恐れ畏(カシコ)まられる存在だからです。
   上に立つ人は皆「カミ」であり、それ故「カミ」は大勢居て構いません。
   女中が大勢いる家で一番偉いのが「お内儀さん」、頭の一番上にあるのが「カミの毛」、武蔵国で一番偉いのが「武蔵守(ムサシノカミ)」、一族が尊ぶのは「氏神」、左大臣は「一の上(カミ)」、その上の天皇は「お上」と言った具合です。
   だからこそ日本には「八百万の神」がいるのです。・・・
﹅明治憲法改正せよ
   マッカーサーは自らの行為で政権が交代した後、なおも後任の幣原総理に対して「明治憲法を改正せよ」と詰め寄ります。
   マッカーサー等GHQは、自らの意図する憲法を被占領国・日本に制定させようと目論んでいましたが、あくまで提案、議決、公布は日本人が自ら行う様に仕向けました。
   同じ頃、近衛は天皇から憲法草案に着手する様正式に命令を受けます。
   憲法改正の公式委員会(憲法問題調査委員会)も発足します。
   アチソンは「近衛の活動には奇妙なものがあります。彼は招待もされていないのに、マッカーサー元帥を訪ねました。私も同席しました。元帥は、政府の行政機構を改革すべきであると言いましたが・・・
 
﹅近衛の通訳はあの高級官僚・・・
近衛の通訳はとっさに正確な訳が思い浮かばず、脳裏をよぎった言葉『憲法は改正すべきである』と口走ってしまいました」とトルーマンに報告しています。
   この時の通訳は、奥村勝蔵です。
   あの真珠湾攻撃の折、在米ワシントン日本大使館で一等書記官をしていた人物です。真珠湾の折、米国の思惑と自らの怠慢によって、日本政府の発した宣戦布告の電文を日本側の攻撃が終わった後、米国政府に提出した確信犯です。
   彼等が宣戦布告の電文をしっかり攻撃前の定刻までに米国政府に届けていたら、太平洋戦争は「JAPによる卑劣な奇襲攻撃」と世界中から批難される事はなかったのです。
   保守系論客の間では、彼ら大使館員こそ真の売国奴であり、終戦時、他の軍人同様自決するか、若しくは極刑に値するとまで憎まれた人物です。
   しかし、奥村は東大卒のキャリアで、戦後、何のお咎めもなく、かえって帰国後外務次官など出世街道を歩みます。昭和天皇、マッカーサー会談の通訳も奥村が担当しています。
 
■GHQは日本側の新憲法草案を信用しなかった
   アチソンは「我々は、日本人筋から、近衛の(憲法)委員会が今月末までに政府に提出する草案を完成したがっている事を知りました。
   天皇のお墨付きを得た草案発表前に我々の考えを浸透させたいなら、即刻行動を取るべきです。天皇のお墨付きを得て公表された草案を修正するのは、大変困難であり、不幸な政治的結果を招き、我々の目的達成を妨げる事でしょう」とワシントンに報告します。
   近衛は憲法草案を完成させ、天皇に提出しました。明治憲法の最初の13条はそのまま残っていました。
   天皇大権も変更ありません。
   「近衛、役立たず」と思ったマッカーサーは荒療治を決断します。
 
﹅近衛文麿元総理の遺言
   マッカーサーは、近衛を286人の戦犯容疑者の一人に指名し、巣鴨プリズンまで出頭する様命令します。
   S20.12.16、近衛は自決します。青酸カリでした。知らせを聞いた米軍のMP達は、土足で近衛家に入り込み、日本人の弔問客を出入り禁止にしました。
   次の内容は近衛の遺言です。
   ・・僕は、支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。これに対して深く責任を感じているが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷において、裁判を受ける事は耐え難い事である。
   ことに僕は、支那事変に感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そして、この解決の唯一の道は、米国との諒解(リョウカイ)にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。
   その米国から今、犯罪人として指名を受ける事は誠に残念に思う。
   戦争に伴う昂奮(コウフン)と激情と、勝った者の行き過ぎた増長と、負けた者の過度の卑屈と、故意の中傷と誤解に基づく流言蜚語(リュウゲンヒゴ)と、これら一切の所謂、世論なるものを、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。
   この時初めて、神の法廷において正義の判断が下されよう・・・。
 
   近衛の残した言葉・・・『この時』とは、戦後70年の今、オバマ民主党政権で米国の国体が揺らいでいる今『この時』、なのかも知れません。
   近衛の死について、吉田茂は「何も分からない」と言ったそうですが、マッカーサーは自書「回顧録」の中で、自分の作った新憲法については長々と述べていますが、近衛の事は一言も触れていません。
   著者(西鋭夫)は、「近衛は、マッカーサーの期待に沿う憲法を書くのに失敗したが故、死に追い込まれた、と考えるのが自然である」と言っています。
 
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出典:国破れてマッカーサー(西鋭夫著)、渡部昇一の人物戦後史「裸の総理たち32人の正体」(渡部昇一著)