国破れてマッカーサー4 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・・Welcome To The Real Worlds!!! 

・・『Zipangu』Is Japanese 
Big Picture 。
The XX Files ・・・Fourth .
Future Generation !
真実と闘え・・・
I Want It . To Believe .(Funny !) 
Zipangu Independence Banzai⁉️
   Go Now ‼️ No Times、No Place⁉️
76Years After The WW2 
   Please Don't Korea❗️
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(シベリア抑留体験)
   「遅い春が来ると、死体を埋葬しなけらばならない。凍った土も解けツルハシで掘れる様になる。死体はまだ凍りついたままなので、素手では動かせない。だからツルハシで遺体を分けるんだ。戦友達の遺体を解体するなんて誰もやりたくない
   「ソ連兵の看守達も、それを十分理解していて、遺体を処理した者にはジャガイモを特別に与えると言った。俺は解体を始めた。そしてジャガイモを食べて生き残った」
   「500人中、生き残ったのは7、80人位だったかなぁ。生き残って恥ずかしいと思ったよ。でも生きたかった
   シベリア抑留者の総数は、明確になっていませんが、70万から90万人と推定されています。
   井原一雄弁護士からお聞きした話を紹介します。
   この当時の日本人の心理を良く表していると思います。
・・・僕が疎開していた長野の小さな村から、戦前満洲へ移民した日本人がかなり居ました。
   家族全員で移民した人達もあり、村には空き家もあった。
   戦争が終わり、引揚者が次々と舞鶴に帰ってきたが、この村の人々は帰って来ない。小学校の先生が僕達に、マッカーサー元帥に手紙を書いて、早く帰して貰える様にお願いしましょう。と言われ、僕達生徒全員が、平仮名で『まっかーさーげんすいさまどの』宛に手紙を書いた。
   殿と様を一緒に付けるとより丁寧になる❗️と先生が指導していた」
   この様な嘆願書が、毎月13,000通程マッカーサーに寄せられているとGHQは発表しました。
   スターリンにとって、日本人捕虜を
50万、60万人殺す事など朝飯前です。スターリンは、1937年、38年の2年間で自国民200万人を殺したと伝えられます。
■終戦・厚木飛行場、マッカーサー立つ
   1945年8月15日、マッカーサーはサングラスをかけ、コーン・パイプを咥えて日本に上陸しました。
   トルーマン大統領は、マッカーサーに史上空前の全権を与えていました。これについて、マッカーサーの補佐役として国務省からGHQに配属された政治顧問のシーボルトは「物凄い権力だった。米国史上、1人の手にこれ程巨大で絶対的な権力が握られた例はなかった」と発言しています。
   トルーマンは、「もし各国間(連合国)に意見の相違が生じた時は、米国の政策が事を決定する」とマッカーサーに伝えていました。
   GHQは、連合国軍総司令部と言う意味ですが、実態は連合国協同ではなく、既に米国主導の日本占領機関だったのです。
   米国が日本を統治するのです。
「米国の国旗を掲げよ。東京の太陽の下で、栄光溢れる我が旗をなびかせよ。抑圧された人々の希望の象徴であり、正義の勝利の印となる様に」
   日本国民よ。米国の星条旗を見て、新たな希望に燃え、米国が正義の国であると思い知れ❗️と言っている様でした。
   日の丸は悪の象徴として、掲揚を禁止されました。
   他の連合国は、米国独占の日本占領を妬みました。特にソ連と英国は、日本占領で同等の役割を強く要請、ソ連はマッカーサーから独立した軍隊によって北海道を占領する事を要求しますが、マッカーサーはこれを一蹴します。
■1945年9月2日、ミズーリ号にて
   S20.9.2、降伏文書調印日。
   この日、東京湾洋上の米戦艦ミズーリ号甲板で降伏文書調印式が行われました。
   尚、米国でこの日はVJ Dayと呼ばれています。
   また英国でのVJ Day は8.15で、朝鮮でも8.15とされますが、韓国では、この日を光復節と命名し国民の祝日となっています。
   マッカーサーは、戦艦ミズーリ号で正式に日本が降伏文書に署名調印した数分後、米国民に向かってラジオ放送しました。
   ・・・「今日、銃声は止んだ。大きな悲劇は終わった。偉大な勝利が勝ち取られた。空は、最早死を降らせる事はなく、海は商業の為にのみ使われ、人々は明るい日差しの中、怯える事なく堂々と歩く事が出来る。
   今、全世界は平和の静けさを味わっている。今、ここに神聖な使命は達成された。
   今日、我々は92年前のペリー提督の様に東京に立っている。彼の目的は友好、貿易、商業に対して鎖国のベールを取らせ、日本に文明と進歩の時代をもたらす事だった。
   しかし、悲しいかな、西洋科学の知識は人間の抑圧と奴隷化の道具となった。
   表現の自由、行動の自由、思想の自由は、教育の抑圧や迷信の強制によって、更に暴力によって否定された。
   今日、自由は攻勢に出ている。民主主義は前進している。今日、ヨーロッパでもアジアでも屈従から解き放たれた人々は、自由の甘き香りと恐怖からの解放を味わっている」・・
 
■日本大改造、始まる
   第一に、軍事力を破壊せよ。戦犯を処罰せよ。議員内閣制を確立せよ。
憲法を近代化せよ
自由選挙を行え
女性に選挙権を与えよ
政治犯(主に共産党員)を釈放せよ
農民を解放せよ
自由な労働運動を確立せよ
自由経済を奨励せよ
警察官による弾圧を廃止せよ
自由で責任ある報道を発展させよ
教育を自由化せよ
政治権力を地方行政化せよ
宗教を国家から分離せよ❗️
   マッカーサーは、「日本の降伏」を軍事的敗北だけでなく、「信仰の崩壊」と見ました。
 
﹅精神を破壊せよ
   そしてマッカーサーは、こう言います。「この崩壊により、日本国民の中に道徳的、精神的、更に肉体的にも完全な空白が生まれた。この空白状態の中に民主主義を注ぎ込んだ」
   日本を完全武装解除し、軍国主義者達の権威と軍国主義の影響を、政界、経済界、社会生活から完全に抹殺する。
   軍国主義と侵略を推進した諸機関を徹底的に潰す。日本は、陸軍、海軍、空軍、秘密警察機構を持ってはならない。いかなる形でも民間航空を持ってはならない。
 
・・・これらは米国政府の公式宣言です。この政策を実行する為、マッカーサー司令部は「逮捕、拘留されるべき日本人」と「廃止する団体」のリストを作りました。日本潰し作戦は猛スピードで進んで行きました。
 
   負けた日本を米国の支配下に押さえ込むのは、難しい事ではありません。しかし、日本が敗戦の悲劇から立ち直り、占領の屈辱を克服し、国土の復興に成功した時、日本はより一層強い国になっているのではないかと米国は恐れていました。
   日本国民が誇り高い民族である事は、この戦争で恐ろしい程解りました。再び強力になった日本は、米国に復讐を仕掛けて来るのではないか。
   日本から根本的に愛国心を取り除く方法はないものか。
   この様な不安に駆られたマッカーサーと米国政府は、「狂信的な軍国主義」を抹殺すべし❗️と全力を尽くしました。
 
﹅公職追放
   GHQに指導され、日本政府は公共企業体の職員5520人、衆議院選挙の立候補者3384人を審査しました。
   政策立案に携わる者のうち814人、国会議員9人、衆議院選挙立候補者252人は追放され、「治安維持法廃止の指令」で引っかかった6202人も公職から追放されました。
   官僚18万6千人が配置転換となり、陸海軍人全員が公職追放されました。
   その上で、マッカーサーは新たな衆議院選挙を実施します。
   戦前の選挙では、投票権は25歳以上の男性のみでしたが、GHQ占領下での投票権は、20歳以上の男女に改められました。結果、投票者の人数も戦前の3倍に跳ね上がりました。
 
﹅報道の自由と言う言論統制
   GHQは、9月10日報道・思想の自由に関する指令を発しました。
   日本のマスコミは、このマッカーサー民主主義を「何を書いても自由」なのだと勘違いし、とたんにGHQ司令部や連合国の戦争責任等を批判し始めました。
   GHQの思惑にまんまと引っかかったのです。
   マスコミのこの動きを、GHQは、「民主主義の為の検閲」を実施する為の絶好の理由にしました。
   民間検閲主任・ドナルド・フーバー大佐はこう指摘しました。
   「マッカーサー元帥は、日本政府及び新聞、ラジオの9月10日の指令に対する対応について満足しておられない。元帥は、報道の自由に強い関心を持ち、連合国もその為に戦ってきた。
   しかし、お前達は報道の自由を逸脱する行為を行っており、報道の自由に伴う責任を放棄している。
   従って、マッカーサー元帥は、より厳しい検閲の実施を指令された。元帥は、日本を対等とみなしていないし、日本はまだ文明国の仲間入りをする資格はない、と考えておられる。
   この点をよく理解しておけ。新聞、ラジオに対し百%の検閲を実施する。嘘や誤解を招く報道、連合国に対するいかなる批判も絶対に許さない。」と通告しました。
   マッカーサーが、日本の将来について自由な論議をせよ❗️と言ったのは、日本国民の間で、天皇陛下の批判が巻き起こる事を期待したからでした。
   ところがアカヒ新聞は、天皇批判ではなく、「原爆の非人道性は、もとより全人類の認める所である、我々は敢然とその非を鳴らさなければならない」と断言しました。
   戦後、間も無い頃はアカヒ新聞も保守系新聞だったのです。
   GHQは、「フィリピン戦における日本軍の典型的残虐行為」と言う報告書を日本で大々的に公表しました。読売報知の掲載でした。
   アカヒ新聞は、二日間の発行停止処分を受けました。
   たった二日間の発行停止と言っても、その被害額は莫大なものでした。アカヒ新聞はその日、その恐怖から反日極左新聞となり、戦後70年経った今でもそれは続いています。
   マッカーサーは、9月21日にプレスコードを発令しました。
ニュースは絶対に真実でなければならない。
公安の治安を乱す事は、掲載してはならない。
United Nations に関して、破壊的又は誤った批判をしてはならない。
等々・・・
   プレスコードは、10項目に及ぶ規制条件でした。そして、プレスコードの適用範囲は『あらゆる新聞のニュース、社説、広告は元より、日本で印刷される全ての出版物に適用される』と発表されました。
   マッカーサーは、電波を厳しく支配しラジオコードまで発令します。
   海外放送開始の許可を日本政府は要請しますが、それは速やかに拒否されました。
   海外放送が許可されたのは、朝鮮戦争(1950(S25)-1953)の最中、サンフランシスコ講和条約(1952(S27)4.28)が発効された後、それも1日5時間まで、言語は日本語、英語の2ヶ国語のみと言う制約付きでした。
 
 
出典:国破れてマッカーサー(西鋭夫著)、渡部昇一の人物戦後史「裸の総理たち32人の正体」(渡部昇一著)
 
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 
 
(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ前頭連合野は正常(だと思います)まだ退行性脳疾患患ってないし(Funny)) 
 
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