海軍艦上爆撃機「彗星」搭乗員 大野徳兵衛さんの戦争体験。その1 | 先人のお話

先人のお話

私が聞いた昭和史、戦争体験談をお伝えします。

 平成29年11月19日に京都霊山護國神社で大野徳兵衛元海軍上飛曹(上等飛行兵曹)のお話をお聞きしました。

 

 大野さんは大正15(1926)年、神戸市生まれ90歳を超える高齢ながら、背筋はピンと伸びはきはきとお話になる大変お元気な方でした。

 

 大野さんは、海軍飛行予科練習生(予科練)として海軍に志願されます、試験において、当初2000人いた志願者は一次試験で400人に絞られ、最終的には20人程の合格者という難関を突破されて入隊します。

 

 1年間の予科練生としての訓練を終え、いよいよ実戦かと思えば、よもやの徳島航空隊で教官という役職につかれます。

 

 20歳の若者が教官となるのですが、もう据え膳上げ膳、靴下まで履かせてもらうような生活、この教官生活はわずか3か月であったそうですが軍隊生活で一番楽な時代であったと回想されていました。

 

ただ教官生活で唯一苦労されたエピソードをお話になりました。

 

 今度は教官となり、予科練生をしごくわけですが、ついこの間まで、しごかれる立場の人間が入れ替わり狼狽していたそうで、海軍であったバッター(海軍では水兵達の尻をバットのような棒で思いっきり叩く罰直があった。)には抵抗が相当あったようです。

 予科練生の些細なミス、半ば言いがかりのような形でバッターを行います、これが大野さんは嫌で仕方なかったそうですが、古参の教官は容赦なく木の棒で叩きつける訳です。

 

 しかし大野さんは軽く打つものだから、予科練生はバッターの際には先を争うように大野さんの前に並んだそうです。

 大野さんの懐の深さを感じるエピソードでした。

 次は大野さんが急死に一生を得た戦闘での体験を書かせていただこうと思います。

 

急降下爆撃の様子を模型の彗星を使用して説明される大野さん。