グットルッキングホース・ミスターシービー | Rosen Konig ローゼンケーニッヒ

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ブログタイトルは、シンボリクリスエスと、ローズバドの仔である、サラブレッドのローゼンケーニッヒ(ドイツ語で、薔薇(バラ)の王という意味・牡・毛色・黒鹿毛)に由来しています。

三冠を達成された、競走馬は、セントライト・シンザン・ミスターシービー・シンボリルドルフ・ディープインパクトと、5頭を数えるが、父内国産馬として活躍した、グッドルッキングホース・ミスターシービーも、三冠馬になった馬の1頭です。


1980年・4月7日・ミスターシービーは、北海道・浦河町の、岡本牧場で生まれた、父は、天馬・トウショウボーイ・母は、シービークインで、血統名は、シービークインの一だった。


父のトウショウボーイと、母のシービークインは、奇しくも、現役時代・東京競馬場で行われた、新馬戦でデビューした。


ミスターシービーが生まれた、1980年当時の、ミスターといえば、東京読売巨人軍の、長島茂雄で、引退の時「巨人軍は、永遠に不滅です。」という名言を残した。


シービークインの一が生まれた時、千明牧場の代表馬になってほしいという願いを込めて、この馬に、ミスターの称号を贈ったので、千明牧場で生まれた男馬という意味の、ミスターシービー(Mr.C.B.)と命名された。


1981年・2歳(現・1歳)になった、ミスターシービーは、北海道・浦河町の、岡本牧場を離れ、群馬県・利根郡・片品村にある、千明牧場に移り、幼年時代を過ごす。

(千明牧場は、マルヌマなどを生産した牧場で、1975年生まれで、1991年に、黒色腫の為、死去した、シービークロスもここで幼年時代を送っている)


1982年・3歳(現・2歳)になった、ミスターシービーは、産地馬体検査を受検、同時に、美浦で、新進気鋭の調教師であった、松山康久厩舎と預託契約を交わし、同年の秋には、入厩した。


11月6日、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、東京競馬場で行われた、サラ系3歳新馬戦(現・メイクデビュー・東京(サラ系2歳新馬戦))に出走し、初勝利を挙げ、デビューを果たした。


続く、黒松賞(中山競馬場)も制するが、ひいらぎ賞では、1着の、ウメノシンオーをかわすことができず、2着となり、初めての敗戦を帰した。


こうして、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、1982年の最優秀3歳馬に選定された。


1983年・牡4歳の逞しい男馬に成長した、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、共同通信杯4歳ステークス(現・共同通信杯)に出走し、ひいらぎ賞の勝ち馬・ウメノシンオーを抑えて、1着となり、4歳の初戦を制覇する。


ミスターシービーは、3月20日に、中山競馬場で行われた、報知杯弥生賞でも1着となり、皐月賞に駒を進めた。


4月17日、ミスターシービーは、第43回・皐月賞に出走した。


雨の中山競馬場に、姿を現し、環のり調整を行っていた、ミスターシービー、ボロ(うんこ)を、ボトボトを出しては、体を整えいたのでしたが、ファンファーレとともに、ゲートインを始めたのです。


ゲートオープンと同時に、第43回・皐月賞はスタートしたが、ミスターシービーは、後方からの競馬となった。


直線コースを向き、先頭に立った、ミスターシービーは、2着のメジロモンスニー以下を抑えて、一冠目を制覇した。


そして、5月30日に、東京競馬場で行われた、第50回・日本ダービーに出走し、ミスターシービーは、2着のメジロモンスニー以下を抑えて、優勝、2冠達成を果たした。


しかし、キクノフラッシュの進路を妨害したとして、グッドルッキングホース・ミスターシービーのジョッキー・吉永正人騎手(美浦トレセンで、調教師として、活躍中の、2006年9月11日に、胃ガンの為、64歳で逝去された。)は、6月30日まで、騎乗停止の処分を受けた、ほかに、メジロモンスニーの清水英次騎手ら、3人は、3万円以下の過怠金(競馬では、罰金のことをこう呼ぶ)を科せられた。


10月23日・グッドルッキングホース・ミスターシービーは、第31回・京都新聞杯に出走したが、夏カゼが響いたのか、カツラギエースの4着に敗れ、2度目の敗戦を帰した。


11月13日・第44回・菊花賞に、ミスターシービーは、参戦した。


京都競馬場の出張厩舎に、到着した、ミスターシービーは、いよいよ、本レースに挑む。


パカパカと、ミスターシービーは、蹄を鳴らして、パドックに現わした。


本場馬入場の時、ミスターシービーは、「ウウウウウー」とうめき声が聞こえた、そして、しっぽから、ボトボトボトと、ボロ(うんこ)をだした。


返し馬にはいり、ミスターシービーは、「パカッ、パカッ。」、淀のコースを走った。


ゲートオープンと同時に、第44回・菊花賞はスタートした、ミスターシービーだったが、またもや出遅れ、後方からの競馬となり、2周の京都競馬場・3000メートルを快走する。


直線コースを向いて、ミスターシービーは、左右を確認してから、先頭に進める。


「大地が弾んで、ミスターシービーだ。」の、実況放送とともに、ミスターシービーは、先頭に立ち、2着の、ビンゴカンタ・3着のシンブラウン以下を抑えて、1着となり、1964年(昭和39年)の、シンザン以来19年ぶりの三冠馬に輝いた。


ミスターシービーは、「ヒヒ~ン・ヒヒヒ~ン・ヒヒヒヒヒヒ~ン」と、勝利のいななきを鳴らし、逞しい男馬に成長する馬になった。


そして、ミスターシービーは、毛色・黒鹿毛の、美しく顔立ちの良い馬に成長したのである。


そして、1983年の、優駿賞・年度代表馬に選出された、ミスターシービーは、5歳のおとなしい顔立ちの良い馬として、1984年を迎えることになったが、蹄(ひずめ)を痛めて、秋の、毎日王冠(東京競馬場)で、レースに復帰したが、カツラギエースの2着となり、3度目の敗戦を帰した。


そして、10月28日に、行われた、第90回・天皇賞・秋に参戦した、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、2着の、テュデナムキングの追撃をものとせず、1分59秒のレコードタイムで、優勝、完全復活を果たすとともに、四冠馬に輝いた。


それが、グッドルッキングホース・ミスターシービーの、最後の勝利レースとなった。


グッドルッキングホース・ミスターシービーは、その後、ジャパンカップに、ゼッケン番号1番で出走したが、10着、続いて出走した、グランプリ・有馬記念では3着と、連敗続き、6歳の逞しい男馬に成長した、1985年の初戦・サンケイ大阪杯(現・産經大阪杯)では、ステートジャガーの2着に敗れるなど、低迷した。


グッドルッキングホース・ミスターシービーは、1985年4月29日・京都競馬場で行われた、第91回・天皇賞・春では、第90回・天皇賞・秋に、続く、連覇を果たし、五冠達成を狙って、出走したが、同じ、三冠達成馬で、翌年の、第45回・菊花賞・優勝馬の、皇帝馬・シンボリルドルフの、5着に敗れた。


それが、グッドルッキングホース・ミスターシービーの、最後の戦いとなった。


グッドルッキングホース・ミスターシービーは、その後、函館競馬場での休養中に、骨膜炎を発症、回復は2~3週間はかかるとのことで、管理厩舎の、松山康久厩舎と協議した結果、8月28日・現役引退を決定した。


1985年10月6日、あいにくの雨の中、グッドルッキングホース・ミスターシービーの、引退式が、東京競馬場で行われ、1984年10月28日に、東京競馬場で行われた、第90回・天皇賞・秋で、2着の、テュデナムキングの追撃をものとせず、1分59秒3のレコードタイムで優勝、4冠を達成するとともに、完全復活を果たした時の、ゼッケン13番(単枠指定馬)で、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、登場したのです。


1982年(昭和57年)・11月6日の、デビュー以来、4年間の、競走馬生活を送ってきた、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、思い出の東京競馬場で、日本ダービー・天皇賞・秋と、2回制覇するなど、活躍してきた、黒鹿毛の馬で、主戦騎手として、手綱を、とってきた、吉永正人の鞍上で、誘導馬に促されて、本馬場に入場したのです。


「ヒヒ~ン!」


グッドルッキングホース・ミスターシービーは、鋭い雄たけびで、長く走ってきた、ターフに別れを告げたのです。


グッドルッキングホース・ミスターシービーは、東京競馬場のコースを、直線コースを、誘導馬と一緒に走り、一気に駆け抜け、ゴール板を、通過し、走りきりました。


「ヒヒ~ン・ヒヒ~ン・ヒヒヒヒヒ~ン!」


ミスターシービーは、鋭い雄たけびで、歩めながら、首を振って、いななき続けました。


グッドルッキングホース・ミスターシービーは、ウイナーズサークルで、首飾りを贈呈されて、無事に、終了した、東京競馬場の本馬場を後に、出張厩舎に戻りました。


「ブルルルルルル!」


ミスターシービーは、鋭い鼻息を鳴らし、英気を養い、引退式の疲れをいやしました。



私生活でも、ミスターシービーは、鋭い雄たけびを鳴らし、生まれ故郷・日高の空を想い出しながら、体を振り続け、ボトボトと出す、ボロを出しては、体を養っていました。


そして、ミスターシービーは、砂で汗を落としてきれいな体にしていました。


洗い場に連れて行かれた、ミスターシービーは、洗った後、ヒヒ~ンといういななきで、雄たけびを鳴らしていました。


ミスターシービーは、「ファーッ!」あくびをしながら、休めていました。


ミスターシービーとは、千明牧場で生まれた男馬という意味、千明牧場を代表する馬になってほしいと意味を込められている馬で、父・トウショウボーイ・母・シービークインの仔として生まれた血統背景、そして、鋭い丈夫な脚、毛色・黒鹿毛の、美しい体をもつ、顔立ちの良い馬、それが、ミスターシービーであるのです。


11月28日、ミスターシービーが、繋養先の、北海道・勇払郡・早来町(現・安平町)にある、社台スタリオンステーション・早来へ旅立つ時がきた、登録抹消の日を迎えた。


「ヒヒ~ン!」


ミスターシービーは、やさしい鼻声でいななき、所属厩舎の松山康久厩舎と別れることになったのです。


「ブルルルルル!」


ミスターシービーは、鼻息を鳴らして、英気を養いながら、馬運車の到着を待ちました。


いよいよ、馬運車が到着し、ミスターシービーは、馬運車に乗り込み、1982年の秋に入厩以来、4年間の生活を送ってきた、松山康久厩舎に、別れを告げ、美浦トレーニングセンターを後に、繋養先の、社台スタリオンステーション・早来に向けて、出発、2度と戻ることのない、美浦トレーニングセンターを離れて行きました。


1986年・2月、7歳の美しく、逞しい男馬に成長した、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、ここ、社台スタリオンステーション・早来で、種牡馬としての生活を、スタートしました。


「ブルルル!」


ミスターシービーは、初めて見る、早来の牧草を見ながら、鼻息を鳴らしました。


「ヒヒヒ~ン!」


ミスターシービーは、北海道の空に、鋭い雄たけびを鳴らし、脚を飛び跳ねては、戯れました。


「パカッ、パカッ、パカッ。」


ミスターシービーは、早来の放牧場を走りだして、回りだして行きました。


いよいよ、ミスターシービーは、初めての種付けをし、成功しました。


ミスターシービーの、初年度産駒・第1号は、コックピット(COOKPIT=操縦席・英)で、乗馬として今は、送っています。


その後、ミスターシービーは、ヤマニングローバル・シャコーグレイド(45戦3勝・その後、誘導馬となり、2000年から、乗馬として、つま恋乗馬倶楽部で送り、現在は、八ヶ岳ライディングファーム(→エル・ミオーレ八ヶ岳)で、乗馬生活をしている。)・スイートミトゥーナ(繁殖牝馬として、繋養中。)を輩出した、その後、1991年には、同じ、北海道・静内郡・静内町(現・日高郡・新ひだか町)にある、レックススタッドに移り、サンヨウアロー(ウイングアロー=WING ARROW=イギリス語で、翼の矢という意味・ジャパンカップダート・優勝馬(現在は、種牡馬として、繋養生活中)の、母)を、輩出したが、10年前の、1999年、秋の種付けシーズンを最後に、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、種牡馬生活に終止符を打ち、引退しました。


2000年から、千葉県・成田市・本城にある、千明牧場・三里塚分場で、功労馬となった、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、母・シービークイン、そして、グルームドウターと、生活していました。


その後、同年の9月になり、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、蹄葉炎を発症、一旦は回復したが、11月になり、再度、蹄葉炎を発症、12月10日には、容体が急変し、12月15日の朝7時15分・蹄葉炎による衰弱の為、息を引き取りました、享年・牡・20歳で、人間に例えれば、60~70歳前後になります。


ミスターシービーは、通算成績・15戦8勝の成績を残しており、1983年の優駿賞・年度代表馬・最優秀父内国産馬に選出されるなどの功績が認められ、1986年には、顕彰馬にも選ばれています。


今年は、ミスターシービーが、第90回・天皇賞・秋を制覇してから、25周年という記念すべき年で、10月28日には、その日を迎えようとしています。


来年は、グッドルッキングホース・ミスターシービーが、北海道・浦河町の、岡本牧場で、父・トウショウボーイ・母・シービークインの仔として、シービークインの一として、生まれてから、30周年という、記念すべき年を、迎えようとしています。


ぼくの心の中には、現役で、三冠レースで勝利を果たす、ミスターシービーが、います。


今年の12月15日で、息を引き取ってから、9年になろうとしており、今も、天国で安らかに眠っている、グッドルッキングホース・ミスターシービーを、見守っていこうと想い、願っています。


グッドルッキングホース・ミスターシービーの、さらなる、ご冥福を、お祈りしたいと想い、願っています!