オッペンハイマーよりもトルーマンとスターリンじゃない? | 夢老い人の呟き

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映画オッペンハイマーが日本で公開され、SNSでもずいぶん話題になっているようですね。

 

異国の地でアンドロイドTVとYouTubeだけが娯楽の私(以前はNetflixも楽しんでいたが円安のため解約)には映画の内容など知る由もありませんが、原爆被害が描かれていないとか原爆に対する責任がどうこうとかいうコメントを見ると、「被爆国として原爆被害と責任を考えるなら、ちょっとそれは筋違いじゃないか?」と思ってしまいます。

 

たしかにオッペンハイマーはロスアラモス国立研究所 の初代所長として マンハッタン計画 を主導して原爆を開発しましたが、それは彼だけの責任ではないし、彼がいなくても原爆は完成したと思います。

そして広島と長崎への投下の責任を考えるなら、なぜ原爆投下が決定されたのか、第二次大戦末期の歴史をもっと見て考えるべきだと思います。

 

 

第二次大戦末期の流れを簡単に纏めると、1945年2月ヤルタ会談ソ連が対日参戦する秘密協定が結ばれました。

しかし7月16日にアメリカの原爆の実験(トリニティ実験)が成功したことにより、以後の歴史が変わりました。

  • 4月にルーズベルト大統領急死の後を受けたトルーマン大統領は、7月17日から8月2日に行われたポツダム会談ではソ連抜きで太平洋戦争を終結させる方針に変わり、7月21日に原爆実験成功の詳しい報告を受けると、ソ連に対し断固とした態度を示すようになりました。
  • 7月26日に出された「ポツダム宣言」ではソ連は入っていません。
  • 8月15日に対日参戦を決めていたソ連は、長崎に原爆投下される前日の8月8日対日宣戦布告しました。
  • またこの日、ソ連もポツダム宣言に署名しました。

 

 

ヤルタ会談から原爆投下とソ連対日参戦まで

 

ひねくれ爺が原爆投下の原因ではないかと考えるのは、ヤルタ会談からポツダム宣言までの間のアメリカの方針変更です。

 

■ヤルタ会談とヤルタ秘密協定

 

1945年2月4日~11日にクリミヤ半島のヤルタ近郊で、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦による 「ヤルタ会談」 が行われました。

 

その会談で千島・南樺太(南サハリン)のソ連帰属、モンゴル人民共和国の現状維持などを条件としてソ連が対日参戦する”ヤルタ秘密協定”が結ばれました。

※この後、4月12日ルーズベルト大統領は急死し、トルーマンが後を継ぎました。これが日本にとっては不幸だったかも知れません。

 

ヤルタ会談では米英はソ連にも手伝ってもらって、早く日本を降伏させようとしています。

ところが、それから5ヶ月後のポツダム会談ではその姿勢が変わり、ポツダム宣言はソ連抜きで勝利する方針に変っています

 

 

■ポツダム会談と「ポツダム宣言」

 

ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日(アメリカの原爆実験の翌日)から8月2日にかけ、ソ連占領状態となったベルリン郊外のポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の首脳が、第二次大戦の戦後処理について話し合う 「ポツダム会談」が行われました。

 

その会談中、7月26日に米トルーマン大統領、英チャーチル首相、中華民国蒋介石主席の共同声明として、日本に対する降伏勧告戦後処理方針「ポツダム宣言」 が発表されましたが、この内容には太平洋戦争をソ連抜きで勝利しようという意図がありました

 

ここに大きなポイントがありますが、なぜ米英はソ連抜きで太平洋戦争を終結する方針に変更したのでしょうか?

 

 

■ポツダム会談前の日本政府の動きと原爆実験成功

 

戦争に勝てないと判断した日本政府は、ポツダム会談に先駆ける7月12日、ソ連にいる日本大使宛に、ソ連に和平の仲介を依頼する特使を派遣する予定であることを伝えるよう打電しましたが、その暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされました。

 

トルーマンはスターリンからソ連がヤルタ会談での密約通り、8月15日に対日参戦すると聞かされていました。

 

アメリカは7月16日に原爆実験(Trinity test )が成功していましたが、トルーマンは、7月21日原爆実験成功詳しい報告を受け取り、その威力を知ると態度を一変し、東欧問題などで、ソ連に対し断固とした態度を示すようになりました。

 

そして原爆投下はポツダム宣言前日の7月25日に決定されたとされます。

 

 

■トルーマンの愚挙

 

さらにその裏話として、共和党の 大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせたとのこと。

 

共和党や共和党系 と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の2日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。 

 

この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。

 

アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。 

 

 

この流れを見ると、トルーマンがソ連が対日参戦する前に太平洋戦争を終結させたかったのが、原爆を投下させた理由ではなかろうか?

 

一方8月15日に対日参戦するとしていたソ連は、長崎に原爆が投下される前日の8月8日対日宣戦布告し、8月9日以降満州国日本領樺太にソ連軍が軍事侵攻した。 これも原爆投下がソ連に対日宣戦を急がせたのではなかろうか?

また逆にソ連の対日宣戦布告がアメリカに、さらに戦争終結を急がせたのではなかろうか?

 

 

 

リトルボーイとファットマン

 

広島に落とされた原爆リトルボーイはウラン型ガンバレル型といいます。

 

ガンバレル型は構造が簡単で作動が確実ですが、核兵器に使用可能な60%を超える(普通は80%以上)濃度軍用ウランを精製するには大量の電力が必要です

 

このためウラン型(ガンバレル型)原爆は、広島に落とされたリトルボーイの1発だけで終わりました

 

 

 

次に長崎に投下された原爆ファットマンはプルトニウム型インプロ―ジョン(爆縮レンズ)型といいます。

プルトニウムの周りを爆薬で包み、中心のプルトニウムを圧力で臨界させ爆発させますが、技術が難しくアメリカも長崎に投下したファットマンが本当に爆発するか確信が無かったようです。

 

 

疑り深い捻くれ爺はこのファットマンが本命で、投下して実験したかったのではないか?と考えております。

しかし最初にこちらを投下して、もしも爆発しなかったら面目丸つぶれです。

 

そこで陰謀論的に考えると、まず作動が確実なリトルボーイで威力を見せつけておいて、次に主目的のファットマンを投下したのではなかろうか?

 

 

 

ソ連による北海道占領の機器

 

しかし1945年8月15日で戦争が終わったと思ったとしたら、あまりにも甘いです。

 

その後、日本は北海道を失いそうな、かつてないほどの大きな危機を迎えました。

 

大平洋に繋がる不凍港を持たないソ連

そのため北海道を是が非でも手に入れたいスターリンは、日本が降伏文書に調印する前に占領して既成事実としようと侵攻し、北海道を死守しようとする日本軍の第5方面軍との戦闘が続きました。

 

出典:2019.1.27読売新聞「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男

 

 

結果論ですが、もしもっと早くポツダム宣言を受諾していれば、原爆投下は無く、ソ連の対日参戦も無く、北方領土は守られたのではなかろうか?

 

そして日本兵と民間人57万人超シベリアに抑留され、5万5千人が飢えや寒さで亡くなることも無かったのではあるまいか?

 

戦争の愚かさ悲惨さを知ると二度と戦争を起こしてはならないと感じますが、歴史を知らず歴史を美化すると愚かな考えを持つようになるかもしれません。

 

戦争を知らない世代にかつて悲惨な戦争があった事を伝えてゆくのも、我々ジジイ世代の努めではないでしょうか。