明るい南の国フィリピン。
反日感情の無いこの国に対して、日本人は思い違いをしやすいようです。
フィリピンに関わる人の中にはこの国の歴史を知らず、いい齢をして「日本がフィリピンをアメリカの植民地支配から解放した」などと馬鹿を言う爺様も少なくありません。
一時はWikipediaがそのように改竄されたことも一度ならずありました(美しい歴史やニッポンスゴイに縋りつきたい人も多いのでしょうか?)が、第二次大戦でフィリピンは1600万人の国民のうち111万1900人が亡くなりなりました。
来月9日は“The day of Valor”(勇者の日)ですが、この日は有名なバターン死の行進が始まった日です。
- 第二次大戦前、アメリカの植民地下にあったフィリピンですが、首都マニラは東洋の真珠と呼ばれていました。
- アメリカ議会では1934年3月24日に10年後にフィリピンの独立を認める“フィリピン独立法”が制定され、1944年7月4日にフィリピンは独立する事が決まっていました。
- そして1935年11月、独立準備政府 (“フィリピン・コモンウェルス”) が発足し、マニュエル・ケソンが大統領に就任していました。
- 日本軍がルソン島に上陸した1941年12月22日には、フィリピンは独立までに2年半を残すだけになっていました。
1941年(昭和16年)12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である、本間雅晴中将率いる第十四軍が、ルソン島リンガエン湾に上陸した。
- フィリピン防衛の任に当たっていたのは、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)でした。なお我が家の近くを走っている道路はマッカーサーハイウェイと言いますが、スペインは教会を残しアメリカは学校と道路を残したなどとも言われます。
- マッカーサーは12月24日、マニラの無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島とコレヒドール要塞に立てこもりました。
- そしてコレヒドール島とバターン半島で激しい戦闘が行われ、1942年4月9日、7万8千人のフィリピンコモンウェルス軍とアメリカ軍は日本軍に降伏しました。
このバターン半島陥落と犠牲者を追悼するのが4月9日の勇者の日です。
- 1942年4月9日、バターン死の行進が始まりました。
- 元々疲れ果て、飢え、病み、弱っていた、非戦闘員を含め推定8万人、大部分はフィリピン人のPOWs(Prisoner of War)はバターン死の行進の途中多くが倒れ、Capasの Camp O'Donnell に着いたのは54000人でした。さらにCAPASのCamp O'Donnellで30000~31000人が亡くなりました。
フィリピンは太平洋戦争における日本軍の戦争犯罪の頂点のひとつとして糾弾された‟マニラ市街戦”(死者12万人中、10万人が市民)を始め、第二次大戦で最も大きな傷を負った国のひとつと言って良いと思います。
一方、日本軍の兵士もこの地で約51万8000人が亡くなり、うち約36万9000柱の遺骨が送還されていません。
フィリピンで最も高額の1000ペソ紙幣に描かれているこの3人は、実は抗日の英雄で日本軍によって処刑されています。
一番上;“ホセ・アバド・サントス”(José Abad Santos)
右側; ‟Vicente Lim”
下 ; ‟Josefa Llanes Escoda”
なお20ペソ紙幣は独立準備政府 (“フィリピン・コモンウェルス”)のマニュアル・ケソン大統領です。
新1000ペソBanknoteはポリマー紙幣であることが大きな特徴ですが、そのデザインから抗日の英雄の肖像画が無くなりました。
第2次世界大戦の英雄であるビセンテ・リム氏、ホセファ・リャネス・エスコダ氏、ホセ・アバド・サントス氏を交代させた理由を尋ねられた中央銀行のディオクノ氏は、記者団に「新シリーズはフィリピンの動植物に焦点を当てる」と答えましたが、第二次大戦から79年、ようやくフィリピンの戦後が終わったのでしょうか。
表面に描かれているのは国鳥と国花です。
この鳥は国鳥のアギラ(Agila:フィリピンワシ)ですが、下に書いたように世界にフィリピンだけの、絶滅危惧されている非常に貴重な鳥です。
そしてその左側の花は国花のサンパギータ (Sampagita) で、 タガログ語でジャスミンの一種の「アラビアジャスミン(Jasminum sambac)」のことですが、「サンパギータ」という名前はロマンチックな昔話に由来しています。
■フィリピンワシについて
以下‟地球にひとつの生命 熱帯雨林の猛者 フィリピンワシ”より引用
フィリピンワシ(学名: Pithecophaga jefferyi)は世界最大級のワシであり、世界で最も絶滅を危惧されているワシでもある。現在、生息が確認されているのはフィリピンのミンダナオ島、ルソン島、レイテ島、サマール島の4島だけだ。野生で生息しているつがいはおそらく数百組しかいないと科学者たちは推測している。
両翼を広げた幅は約2メートル、体重6キロ以上のフィリピンワシは、堂々とした影を落としながら熱帯雨林の上空を飛翔する。長い尾を使って巧みに飛行しつつ、ヒヨケザルやジャコウネコなど機敏な獲物をみごとに捕らえる。
しかし、この世界最大級の猛禽類にとっても、獲物を確保するのは年々難しくなっている。フィリピンで進行する伐採と開発に伴う森林破壊が、フィリピンワシを絶滅の瀬戸際に追い込んでいるのだ。現在生息しているフィリピンワシは、生き残るために十分な食料と生息地を見つけるのに必死だ。生息地の減少になんとか適応しようとしているが、開発による環境破壊がその存在を脅かしている。
■サンパギータについて
「サンパギータ」の花名は、長い間言い伝えられている昔話に由来しています。 その昔、ラカンビニという若くて美しい姫がいました。父を亡くしたラカンビニは、別の王国から若い王子のラカン・ガリンを迎え入れ恋に落ちました。満月の日に、海が見える丘で二人は、「スンパキータ(=タガログ語で「永遠の愛を誓う」の意味)」という言葉を交わしたのです。
しばらくすると、ラカン・ガリングは敵国の兵士と戦うために軍隊を引き連れ船に乗って王国をあとにします。残されたラカンビニは、毎日のように丘の上から海を眺め彼の帰りを待ちわびていました。しかし、ラカン・ガリングが戻る前に失意のうちに亡くなってしまうのです。ラカンビニはいつも登っていた丘に埋葬されます。すると墓に小さな白い真珠のような花が咲き甘い香りを放つように…そして満月になると、風にそよぐ葉が 「スンパキータ」という王女の言葉を響かせました。「 後に、この白い花は「サンパギータ」と呼ばれるようになり、愛を約束し合うためこの花を交換する習慣が根づきます。最近では、海外旅行客に歓迎の印としてレイを渡すことが一般的になりました。
こういうお国柄ですからフィリピン人はラブラブが大好きです。
まだ日本に比べると貧しい国ですが、現在も人口増加中でこの先も少子化の心配はなさそうです。