ソ連の野望は北海道北部ではなく北海道全部だった。さらに対馬や済州島も。 | 夢老い人の呟き

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昨日は終戦記念日。

しかし実は、この日はまだ第二次大戦は終わっていませんでした。

 

そう言うと9月2日の、東京湾上で米戦艦ミズーリ号の甲板で行われた“降伏文書”の調印が行われるまで、戦争が終わっていないのは当たり前というかもしれませんし、さらに言えば1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約が結ばれるまでは日本は占領下にあり、本当に戦争が終わった言えるのは1951年9月8日でしょう。

 

しかし、そのことではなく1945年8月15日以降も、実際にまだ戦闘が続いていたのです。

 

 

太平洋に繋がる不凍港、拠点が欲しいソ連

北海道を狙うスターリンは、是が非でも日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたく、北海道を守ろうとする日本軍の第5方面軍との戦闘が続いていたのです。

 

 

広島に原爆が投下された翌々日の8月8日、突如ソ連は対日宣戦布告をしました。

そして長崎に原爆が投下された8月9日未明、ソ連は‟「日ソ中立条約」”を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始しました。

 

 

そして一億玉砕の危機を乗り越えて玉音放送がされた翌日。

 

1945年8月16日スターリン米大統領トルーマン北海道北部の占領を要求

第5方面軍司令官樋口季一郎中将北海道を守るため南樺太死守の命令を出しました

  • 18日、大本営はマニラのマッカーサーにソ連を停戦させるよう要請しましたが、ソ連は拒否
  • 同日トルーマン大統領がソ連の北海道道北部占領を拒否し、ソ連の北海道北部占領は防がれました。

出典:2019.1.27読売新聞「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男

 

ここまでが従来知られていたことです。

 

 

ところが今回判ったことは、ソ連の野望は北海道半分ではなく、北海道全部でした。

宗谷海峡津軽海峡も、函館、小樽、室蘭などの港も、太平洋に繋がる戦略的拠点は全て押さえたかったのです。

さらに朝鮮半島、済州島津島占領も望んでいました。

 

 

以下引用

 第2次世界大戦の日本の敗戦を機に、当時のソ連軍が北海道全島をはじめ、対馬や朝鮮半島南部の港など広範囲の占領を検討していたことが、ロシア連邦外交政策文書館がオンラインで公開している公文書に記録されていた。記載内容を、岩手大の麻田雅文准教授(東アジア国際政治史)が確認した。

 確認されたのは、1945年8月16日にソ連首相のスターリンが、北海道北半分をソ連軍の占領地域とするよう米側に要求した内容の基になった草案。ソ連の赤軍参謀総長アレクセイ・アントーノフらが同日にモロトフ外務人民委員に提出したもので、「日本の主要な島々を、連合国のための占領地域に分割し、特にソ連には北海道を割り当てる」と、北海道全島占領を求める内容が記されていた。

 

 トルーマン米大統領は要求を拒否したが、麻田准教授は「北海道北半分の要求は、スターリンの欲深さを示すとされてきたが、見つかった草案ではソ連軍部が大きな野心を持ち、スターリンはそのうちの一部をアメリカ側に伝えたにすぎないことが分かった」と話す。

 

 一方、同8月27日、海軍軍令部国際法部長ニコライ・ボロゴフが作成した文書では、「海軍としては日本の以下の地域の管理に関心を抱く」として南樺太、千島列島、北海道、朝鮮半島北部、釜山港、対馬が挙がっていた。北海道全島がソ連の占領地域となれば、宗谷海峡津軽海峡に加え、函館、小樽、室蘭などの港を自由に利用できるとも記載されていた。

 

 また、赤軍参謀本部特別部長ニコライ・スラヴィンが同8月29日に作成した報告書は、朝鮮半島はソ連が北緯38度から北を占領する形で連合国で二分し、個別の占領地域として対馬済州島も含めるべきだと提言していた。

 

 こうした点について麻田准教授は「ソ連軍部は太平洋の出入り口となる海域で、航行の自由につながる戦略的拠点は全て押さえたかった」と分析する。

 

 ロシア政治外交史が専門の防衛省防衛研究所の花田智之主任研究官は「ソ連の対日戦後構想を理解する上で、目覚ましい発見だ」と評価している。史料は10月末に開催される日本国際政治学会で発表される予定。

引用終了

 
 

何でもかんでもアメリカの陰謀、アメリカ=悪の図式で片付けようとする人達がいますが、北海道が今、日本の領土であることはアメリカに感謝すべきでしょう。

ロシアのウクライナ侵攻で、日本には1960年代、70年代の新左翼の亡霊のような高齢者が多い事にも驚いたが、我々はもっと歴史に学ばなければいけないと思います。

 

 

第二次大戦前の日本には文民統制のような考え方はなく、特に“2.26事件”以降はシビリアンは軍を恐れ、軍部の専制でした。

そして8月15日の終戦は本土決戦、一億玉砕を強行しようとする陸軍に対し、“首相官邸襲撃”や日本最後の“軍事クーデター宮城事件”を乗り越えて、天皇陛下の玉音放送を成し遂げてのもの。

 

 

民主主義と文民統制を如何にして守るか、歴史に学び生かしてゆくことが戦争の悲劇を防ぐために必要な事だと思います。