ロシア革命とソ連の歴史  スターリンの野望「北海道占領」を阻止したのは誰か? | 夢老い人の呟き

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これから書くことについては多分、ロシアとソ連は違うという人がいると思います。

しかしソビエトとは評議会または勤労者代表者会議の意であり、それはロシアそのものといって良いと思います。

また歴史を観てもロシアはソ連から15の構成国が離れただけで、ソ連そのものだと思います。

 

 

 

第一次大戦とロシア革命(2月革命・10月革命)

 

1914年オーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年によって殺害された、サラエボ事件がきっかけとなり始まった第一次大戦。

当時のロシア帝国は人口1億7千万人、国の産業は鉄、石炭、石油などがありましたが労働条件は過酷で、国民の大半は貧しい農民でした。

 

1914年に始まった第一次大戦は、オーストリアを支持する「ドイツ、オスマン帝国の同盟国」と、セルビアを支持する「ロシア、イギリス、フランス、日本の連合国」が戦いました。

しかし ロシアの戦況は悪化し、長引く戦争の中で工業生産の殆どは戦争に向けられ、食料は戦線に送られ国内の物資不足は酷く、戦争中止を求める国民の不満は爆発しました。

そして1917年、第二次ロシア革命が起こりました。

 

□2月革命

1917年2月(現在のカレンダーでは3月)、2月革命が起き、労働者と兵士による評議会(ソビエト)が誕生し、皇帝ニコライ2世が退位しロマノフ王朝が倒れ、臨時政府による共和制となりました。

 

この政権は「ブルジョア中心の立憲民主党」、「農民中心の社会革命党」、「労働者中心のロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ:多数派とメンシェヴィキ:少数派からなる)」の4つの政党によりました。

 

二重権力

この政権は臨時政府は立憲民主党中心であるのに対し、ソビエト(評議会)社会民主党メンシュヴィキボリシェヴィキで構成され二重権力となりました。

  • 立憲民主党:ブルジョア支持層
  • 社会革命党:農民支持層
  • ロシア社会民主労働党メンシェヴィキ(多数派):労働者支持層
  • ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ(少数派):労働者支持層

レーニンとソビエト

  • そんな中でボリシェヴィキのリーダーレーニン「全ての権力をソビエトに集中する(4月テーゼ)」と「即時講和」を主張しましたが、受け入れられず国外に亡命することとなりました。
  • レーニンの4月テーゼと同じころ、ソビエトである社会革命党のケレンスキーが臨時政府の首相につきました。これによってソビエトが政権につき、臨時政府の二重権力は解消されました。
□10月革命
ソビエトの社会革命党が政権についたことで人々は戦争が終わると期待しました。
ところが臨時政府は戦争を継続します。
そのため民衆の不満は収まらず、9か月後に世界初の社会主義革命である10月革命(ボリシェヴィキ革命)が起き、レーニン率いるボリシェヴィキが政権につき、世界初の社会主義国家が誕生しました。
 
ところがここで農民にとっては大きな問題が生じます。
農民にとって大事なのは農地です。
ですから2月革命は農民にとって嬉しい革命でした。
しかし全てが平等の社会主義では農地は国のもの・・・・・農民の苦難の歴史が始まります。
 
 
ロシア内戦とソ連誕生、レーニンとボリシェヴィキによる独裁政治とスターリンへ
 

こうしてレーニンとボリシェヴィキによる独裁政治が始まりました。

そして1922年 4月、スターリンロシア共産党書記長就任。

  • 同年12月30日、ロシアウクライナ白ロシア(ベラルーシ)ザカフカス(南コーカサス:現在のアゼルバイジャン,アルメニア,ジョージアの3共和国 を統合し 、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生しました。
10月革命以降のイベントは多すぎて書ききれませんので、この動画をごご覧ください。

 

 

 

 

ソ連の対日参戦

 

1945年8月6日、原子爆弾「リトルボーイ」が広島市に投下されました。

ところが広島に原爆が投下された翌々日の8月8日、突如ソ連は対日宣戦布告をしました。

そして長崎に原爆が投下された8月9日未明、ソ連は‟「日ソ中立条約」”を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始しました。

 

 

これは終戦に対する諸々の記述を読むと、米英は‟「ヤルタの密約」”でソ連に対日参戦を依頼していたが、アメリカは原爆の実験成功を背景に、ソ連抜きの対日降伏勧告「ポツダム宣言」を提案し、それに反発するスターリンの領土への執念が瀬戸際での対日参戦となりました。

ヤルタ秘密協定では南樺太(サハリン)と千島のソ連帰属であって、国後島や択捉島などの4島は入っていません

 

 8月14日、日本はポツダム宣言を受諾、これを受けて、アメリカは停戦命令を出しました。

しかし、ソ連は、その後も攻撃の手を緩めず、南樺太、千島での侵攻を開始しました。

 

スターリンは、トルーマンに北海道の北半分にソビエト軍が入り、日本軍の降伏を受けることにしたい」と要求し、この時、釧路留萌を結ぶ線による、北海道の分割が提案されていた。

 

しかし、トルーマンは、「日本の本土はすべてアメリカの占領下に置く」と、このスターリンの要求を拒否しました。

 

スターリンの野望「北海道占領」を阻止した男

 

日本が降伏文書に署名(1945年9月2日戦艦ミズーリ甲板で行われた)する前に占領を終え、既成事実にしたかったスターリンは終戦後の8月18日マッカーサー連合国軍最高司令官が停戦を求めるも要請を無視しました。

 

そして北海道を守ったのはこの人と言えると思いますが、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、17日に大本営から停戦命令を受けたが、北海道防衛の自衛戦争を決意しました。

 

以下引用

前略

 スターリンは是が非でも、日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたかった。18日、マッカーサー連合国軍最高司令官(1880~1964)は日本の要請を受けてソ連軍に戦闘中止を求めるが、スターリンの命令を受けていたソ連軍は要請を無視した。樋口はスターリンの野望を見抜き、独断で自衛戦争を指示したのだろう。

 

 樋口の懸念はそれだけではなかった。大本営の戦闘停止命令が届いた17日、樋口は別の理由から自衛戦争を決意している。

 

 「私自身はソ連が更に進んで北海道本島を進攻することがないかと言う問題に当面した。私としては相当長期にこの問題に悩んでおり、一個の腹案を持った。(すなわ)ち、ソ連の行動如何によっては自衛戦闘が必要になろうということだ」(『遺稿集』)。

 

 この懸念は当たっていたロシアに残されている当時の公文書によると、スターリンは対日参戦直前に「サハリン(樺太)南部、クリル(千島)列島の解放だけでなく、北海道の北半分を占領せよと命じていた(1990年12月25日 読売新聞夕刊)。樋口が北海道防衛の自衛戦争を決意した前日の16日には、トルーマン米大統領(1884~1972)に書簡を送り、留萌―釧路以北の北海道を占領させろと要求した。トルーマンはこの要求を拒否するが、その後も南樺太にいた第八十七歩兵軍団に北海道上陸のための船舶の用意を指示している。

 

樋口とB29…終戦前から米軍と連携か

 

 樋口の孫で、祖父の記録を収集・研究している明治学院大学名誉教授の樋口隆一さんは、「南樺太と千島列島を短期間で占領し、前線基地として北海道になだれ込む計画だったのではないか。スターリンが欲しかったのは不凍港の釧路。記録では北半分とされているが、あわよくば北海道全島を占領しようとしたのだろう」とみている。

 

 隆一さんによると、ソ連が対日参戦する前の1945年7月には阿南惟幾(あなみこれちか)陸相(1887~1945)が突然札幌を訪れ、樋口と話し込んでいる。

17日には米軍のB29が千歳空港に飛来したが、樋口はまったく驚かず、飛来を知っていた様子だったという。米軍機飛来はソ連の北海道侵攻計画に対する警告という見方もある。樋口が大本営を通じて、米軍と連携していたのかも知れない。

以下省略

 

ソビエトは、その後、日本兵のシベリアへの移送を開始する。

シベリアで強制労働させられた抑留者の数は,日本政府の調べでは約 57万5000人とされ,うち約 5万5000人が死亡 したとされる。

 

 

これは、ポツダム宣言第9条「兵士は、速やかに祖国に帰還させる」という条項に、明らかに違反しますし、現在なら‟「国際人権法」”違反です。

※‟「武力紛争と人権・重大な人権侵害」”

 

 

私は8月17日の千歳へのB29の飛来は、米国のソ連への警告だと考えています。

だとすれば北海道は決死で戦った樋口中将と第5方面軍、そして米軍によって救われたことになりますが、米国を完全悪とし、ロシアとプーチンを悪と戦う正義であるかのように考える人たちは、私には到底理解できません。