死の行進で有名なバターンのMount Samat National Shrineに行ってきました | 夢老い人の呟き

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明るい太陽と陽気でフレンドリーな国民性が、昔の戦渦など感じさせないフィリピン。

しかし第二次大戦の戦禍では人口比で日本を大幅に上回る、1600万人の人口のうち111万1900人が死亡したとされます。

また日本陸軍も約35万人が戦死し、その半数以上は餓死・病死だったとされる激戦の地でした。

 

日韓基本条約の時に韓国政府が日本政府に伝えた韓国人死者数が35万〜36万人ですから、それよりもはるかに多い犠牲者で、女性の被害も多かったとされています。

 

 

Mount Samat National Shrine

 

昨日は「バターン死の行進」で有名なバターンのSamat山にある、Mount Samat National Shrine に行ってきました。

 

 

 

ここは第二次大戦中日本軍とアメリカ・フィリピン連合軍の激戦地だった場所で、Mount Samat National Shrine はフィリピンとアメリカの兵士の勇敢さを称え、記憶するために

マルコス大統領によって、第二次大戦の25周年記念として建造されました。

 

 

コレヒドール島と共に激戦地だったバターン半島のMt Samat。

 

バターンは3カ月の戦闘の後、1942年4月9日、マーク・マコイ・メトラン少将のもと、大部分がフィリピン人の、78000人の米比軍は日本軍に降伏しました。

そしてバターン死の行進へと続きます。

 

なおバターン半島が攻略され、フィリピン軍とアメリカ軍が降伏した4月9日は、この戦いの犠牲者を記念する「勇者の日 The Day of Valor 」として公休日となっています。

 

 

しかし歴史を知らないとはいえ、何とものどかな我が家族。

これも南国気質、南国の気候のなせる業でしょうか。

お婆ちゃんを除けば戦争を知らない世代ですが、さすが愛と赦しのキリスト教国です。

これが「恨の文化」の国ならいまだに日本人は責められるかも知れません。

 

景色は最高で天気がよければメトロマニラまで見通せます。

 

 

 

 

 

以下Wikipedia「Mount Samat National Shrine」より引用(和約は適当ですのでご注意を)

History

Along with the fortified island of Corregidor, Mount Samat was the site of the most vicious battle against the Japanese Imperial Army in 1942 during the Battle of Bataan. Suffering heavy losses against the Japanese all over Luzon, Filipino and American soldiers retreated to Bataan Peninsula to regroup for a last valiant but futile stand. This retreat to Bataan is part of a United States strategy known as War Plan Orange.

 

防御が強化されたコレヒドール島とともに、Mt.Samatは1942年バターンの戦いの間、日本帝国軍に対する最も酷い戦いの場でした。

日本人によりルソン島全域で大きな被害を受け、フィリピンとアメリカの兵士は最後の勇敢だが空し闘いに向け再編するためにバターン半島に後退した。バターンへの退却はオレンジ作戦として知られるアメリカ軍の戦略の一部です。

 

Bataan fell after three months of fighting when 78,000 exhausted, sick and starving men under Major General [[Mark Macoy Metran ]] surrendered to the Japanese on 9 April 1942. It is the single largest surrender of U.S. soldiers in history. Together with the Philippine soldiers, they were then led on the Bataan Death March.

 

バターンは3カ月の戦闘の後、1942年4月9日、マーク・マコイ・メトラン少将のもと、78000人の疲れ、病み、飢えた人たちは日本人に降伏しました。これは米国史上最大の降伏です。彼らはフィリピン兵と共に「バターン死の行進」に導かれました。

 

The scene of their last stronghold is Mount Samat, the site of Dambana ng Kagitingan. The shrine was conceived as a fitting memorial to the heroic struggle and sacrifices of the soldiers who fought and died in that historic bastion of freedom.[2]

 

彼らの最後の要塞がDambana ng Kagitingan( Mount Samat National Shrine )のあるMount Samatです。Mount Samat National Shrineは歴史的な自由の砦で戦って死んだ、英雄的な闘いと犠牲に対する慰めの記念として立案されました。

 

 The memorial shrine complex was started with the laying of the cornerstone by President Marcos on April 14, 1966.[3] Due to lack of funds, construction was unfinished for the 25th anniversary of the Fall of Bataan in 1967.[1] The shrine was completed and inaugurated in 1970, in time for the 25th Anniversary of the end of World War II.

 

記念館は1966年4月14日、マルコス大統領の礎石の敷設から始まりました。

資金不足のため、建設はバターン陥落の25周年の1967年までに完成しませんでした。

Mount Samat National Shrineは第二次大戦終戦の25周年の1970年に完成し、正式に開設されました。

 

 

橋下龍太郎元総理のお詫びの手紙

 

1996年、橋本龍太郎総理(当時)はフィリピン人慰安婦だったヘンソンさん達にお詫びの手紙を出しました。

出典:慰安婦問題とアジア女性基金

 

これに対して手紙を受け取ったヘンソンさんの有名な言葉が「名乗り出てから、何度も『許すのか』と聞かれました。そして『許した』と答えてきました。なぜなら、そうしないと、神様が私を許さないと思うからです」です。
 

ヘンソンさんが受け取ったのと同じ手紙を、その後、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎と3代の内閣総理大臣が、各国で「償い」を受け入れた被害者に送っています

 

「過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える」という言葉は、4代にわたる日本の総理が被害者とかわした約束ですが、如何に戦争の記憶が薄れようとも、先人の約束は忘れてはいけないと思います。