健全な精神を健全な身体に宿れかし | 夢老い人の呟き

夢老い人の呟き

願い望むは願望  夢は寝てみるもの 儚く叶わぬもの
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    夢と人の中に老いが入り夢老い人  儚く老いる独り言

最近のスポーツ界の不祥事を見て、思い出した事が二つある。

ひとつは<<東京カジノ構想>>に対して、日本人はギャンブル依存症になりやすいという反対意見があった事。確かにそうかも知れない。
しかしタケシさんは「東京湾に原発作ってそれでカジノの電力賄え。東京でリスクも犠牲も背負わなきゃいけない」と言ったが、この方がギャンブル依存症よりも説得力がある様な気がする。


もうひとつ思い出したのが、高校時代に聞いた、「健全な精神は健全な肉体に宿る」 というのは間違いだという事。
この説明はあらかた忘れてしまったが、要点としては「健全な身体には健全な精神を宿らせなさい」つまり逆に言えば、健全な身体に健全な精神を宿らせることは容易い事ではないのだよという事で、ずっと心に残っていた。イジメや運動部のしごき事件などがあるたびに思い出していたので、いまだ忘れずにいる。


古代ローマ時代の風刺詩人
デキムス・ユニウス・ユウェナリスは
『風刺詩集』第10編の中で、幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので大望はするべきではないと戒めている。

そしてもし祈るならば、
orandum est, ut sit mens sana in corpore sano(健やかな身体に健やかな心であれと祈れ)、英訳:(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body)としている。
健全な精神については数行に渡って詳細に記述されており、誘惑に打ち克つ勇敢な精神のことらしい。健全な肉体には健全な精神こそが宿るべきなのに、どうしてローマ人には不健全な精神しか持ち合わせていないのか、とユウェナリスは嘆いていたという説がある。


つまり元々は(健全な精神が宿っていないから)「健全な精神を健全な身体に宿れかし」 であった。
ところが
近世になって世界規模の大戦が始まると、ナチス・ドイツを始めとする各国はスローガンとして「健全なる精神は健全なる身体に」 を掲げ、さも身体を鍛えることによってのみ健全な精神が得られるかのような言葉へ恣意的に改竄し、軍国主義を推し進めた。その結果、本来の意味は忘れ去られた。
戦後の教育でも、これは訂正されずそのまま広められている。


ところで、一般的には
「健全な精神健全な身体に宿れかし」としているが、私はあえて表題を「健全な精神健全な身体に宿れかし」と変えた。

「健全な精神とすると、健全な精神の対象が健全な身体だけになってしまう
精神の健全性に身体の健全性は関係ない。
ましてや人並み外れて身体は健全な、筋肉バカや脳筋人間の精神こそが健全だなどとはとんでもない。
勝負のストレスからか精神が不健全なアスリートもいるようだが、やはり
「健全な精神の方がふさわしいように思う。

いい加減に
健全な精神は健全な肉体に宿るは本来の意味に変えたらどうかと思う。

「健全な精神は健全な肉体に宿るんじゃ~」と、根性論でしごかれてはたまったものではない。