昨日の昼は、いつもの猫ラーメンくではなく、納豆と濃いめの醤油に少量の刻みネギとラー油を垂らした冷やし蕎麦をいただいた。風情かな。恋だけでなく、風邪でも煩わせてしまったような身体の樽さを訴えるわけもなく、わけでもなく、ただぼんやりと少し汚れた水槽の中を泳ぐ白きうなぎを眺める。基本ジッとしているかと思えば何かを思いついたかのように素早く動きひたすら苔を食べる。金魚の速度が3ならば白きうなぎの速度は7くらい。そんなうなぎにジッと見られているようないないような。どちらでもよい。

またそこで、自然淘汰的ともいえる消去法で獲得した幸福といったような物の重みとは、金色の天秤に傾く側は左の方であったりとして、どことなく寂しいというかわずかな距離感といった類のものを瞬間的にフッと感じるものである。

水深約160~200メートルのところに生息するシーラカンスは、寿命百年以上ともいわれているほどの長寿にも関わらず、年月による衰えがほとんど見られないため、個体の年齢を特定するのはきわめて困難であるそうだ。私も潜りたい。より、もっともっと深くへ。
「答える」ではなく「一緒に考える」ことが重要なのだと思う出来事があった。

それは、

普段忌み嫌い軽蔑してはいてもそれでも他人の気持ちを慮ってしまい、

「唾棄すべき人間は自分ではないのか?」

などという考えにたどり着いてしまいがちな性格の意中の乙女に対して、私が言った

「自分で考えないと」

は、

自分だと平行線でもそれだから物思い耽るどうして考えないと などと
いくらでも誤解を生める要素がたっぷりと含まれている言葉なので、

悪癖のようなソレは矯めなければならないと思った。

なむなむ!
rakugaki:01


読者諸覧、ごきげんよう。

以前にもお話したことがあるかも知れないオタマジャクシのお話。

オタマジャクシに近寄り抱えるようにしてその頭部に「私」の鼻をつけると少しだけ安心する、否違う、ふわんと病人臭がした。ここではそれが問題ではない。ここで云いたいのはオタマジャクシのクロサとマルサのこと。否々ここではそれもおいておいて、結局云いたいのはそのオタマジャクシの丸い目のことである。真ん丸ではなく、パンダと言われたらパンダ。パンダでないと言われたらナンダ。などとそういう話でもなく、どことなく遠い昔の公団付近で遊ぶ近所の幼くも無邪気な幼女のようなと言えばそれが最も近いのかも知れないあの性質の目のことだ。

時間が来たのでまた。