染み付く言葉潮時。ちょうど良いから、潮時なんだよ。ずっと考えていたから、もう気持ちは変わらないよ。ありがとう。そんな言葉を光速で頭の中反芻していると後頭部と皮膚の境辺りが偏頭痛。苦しむ、目覚める、考える。る~るる る~る~る~るる。もうどうしようも無いのだろうか?
宇宙人がいないなんてことはないいつものようにパソコンの電源を入れ、ネットのブラウザを立ち上げてニュースを見ると、「宇宙人がいる証拠、何もなし…米政府が公式見解」というタイトルの記事があった。ホワイトハウスは、異星人(エイリアン)がいる証拠はないとする公式見解を発表したとのことだ。ぼくはそれを見てなにかが終わったと感じた。それは青春時代と呼べるほど熱くもない自分ですらもどこか遠くの中学生に舞い戻ったかのような記憶を現在として感じるかのような、否、初恋に似た感情、それは尊くもあり、やっぱりでも恥かしいものでもあったり。そんなことを考えたような考えていないようなそんなことではなく、結局のところ「ムー」だ。それってどういうことかと言うとつまりアレだ。うっすらもしくは人によっては明確に想像することはできても結局のところ実在としてはまだ見たことがなかったり、またいつでも誰もが容易に見れるものでもなかったりするもの。いわゆる哲学のような学問として成立するための条件付けみたいなもので、結局のところ本当はなにも解明していないものだ。そういう風に完全否定されてしまうと、やっぱりどこか寂しいというか、つれないというか、一度近くに在ったものがソコから遠くに感じてしまうとソコからの存在には興味が失せて行ってしまい易いものといったような抒情的な思いの淵に立たされてしまうというものだ。次なる海はいつ見えるのか?そんなに他人に何かをゆだねるのではなく、航海に出る船がないのならどう準備するのかとか、船がないならどうにかして泳いでいける距離にもっていけないのか思案するその思案自体が実際にどうであれそのものとの距離を実質として近づけるのではないか?などと心のどこかをサーッと何かが走って行った。
悲しみの周回さっきまであんなに楽しかったのに、幸福の一秒先は地獄。否、地獄とまでは行かずとも気分はとても憂鬱になるのが兄妹喧嘩。回数の増加は周期的とも言えるくらい「当たり前」となってしまっていたり、「まただ...」と言うくらいのサイクルとなってしまった如何しようもない現状に我成す術なしといった憤りの末の末悲しさ。「わたしのことなんて誰も理解してくれない!」「理解してもらおうと歩み寄ることも大切だよ。考え方がうまく伝わらずにどこかの時点で誰かがよくないように誤解してしまうなんてこともよくあることだし。」「なんにもわかってない!だから理解できないって言ってるのよ!」来世に期待する今世の君。結局のところなにも理解してあげられていないのかも知れないけれど、君の幼い悪戯な笑顔が好きなんだ。