私の場合、術後のリハビリの基本は
「普通に歩くこと」です。

 

 

退院後は毎日、
なるべく長時間歩いている。
そうすることによって、
入院中に失った体力を取り戻すとともに、

術後の脚の痛みやしびれが軽くなることも。


手術の傷跡が痛かった頃、
歩くときはいつも猫背になっていた。
その癖を治すためのウォーキングでもある。

 


このリハビリに
ちょうどいい環境があります。
それは

大型ショッピングモール。


例えば最寄りの「イオンモール」は、
館内の通路をウォーキングコースとして

利用できる。
ウェブサイトでもそのことを案内している。
 

 

その距離は1200メートル。
天候に関係なく、
ソフトなフロアの上を、
安全に歩き続けることができるのが嬉しい。
もちろん他の利用客に配慮しながら。


これまで各地のショッピングモールを訪れ、

館内を歩いたけれど、

群馬県太田市の「ジョイフル本田新田店」は

巨大でした。

同店のウェブサイトを見ると
「東京ドーム4.1個分の面積」と書いてある。
広いわけだ。



それにしても、平日の昼間、
ショッピングモール内を歩いていると、
自分はこんなところで何をしているのだろう・・・
と思うことも。


今夏、大動脈解離で倒れたことによって
生活スタイルが激変し、
人生設計の変更を迫られ、かなり戸惑った。


戸惑ったけれど、主治医に指摘されたように、
自分が倒れた原因は過労とストレスである。
 

 

だから平日のショッピングモール内を歩き、
館内で「ハズキルーペ」の新色を見かけて
立ち止まったりする「ゆるいひととき」は、

過労やストレスとは無縁である、という意味で、

いまの自分には必要だ。

 


術後のリハビリに集中できるひとときとして、

いまの自分には必要だ。


想定外の新しい人生を受け入れるための
静かなひとときとして、いまの自分には必要だ。


そんな思いを大切にしながら、
次は埼玉県越谷市の「イオンレイクタウン」に

行こうかな、と計画しています。

以前行ったことがあるけれど、

超巨大ショッピングモールですよね!!

 

 

1990年代、当時20代の私は出版業界で編集者やフリーライターとして活動していた。同じく当時20代だった橋本俊二さんは、漫画家として『マガジンスペシャル』(講談社)などに作品を発表していた。

その頃、我々はある女性アイドルのファンクラブのメンバーだった。現在そのアイドルは46歳になり、私と橋本さんも50代に突入。人間、50代になると、20代の頃には想像もできない現実に直面することもある。我々の場合もそうだ。

今年、私は大動脈解離で突然倒れ、救急車で運ばれた。

 

橋本さんのほうは、奥さんの病気を漫画化し、ウェブ上で発表(連載)している。そのタイトルは『嫁癌』(よめがん)。そう、奥さんの病気とはガンである。

しばらく執筆活動から離れていた橋本さん。『嫁癌』は10年ぶりの作品だという。

「最近はトラックの運転手の助手の仕事をやっていて、漫画の原稿は全然描いていませんでした。(以前はアシスタントがいたけれど)いまは一人で全部描いているので、スクリーントーンを貼って削ったり、いろいろ大変です。10年ぶりだから、原稿用紙に枠線を書くときに緊張したり(笑)」(橋本さん)

橋本さんの友人としては、奥さんの病気をそのまま漫画化する、というストレートすぎる内容に驚いたのだが・・・。

「奥さんがガンになってしまった事実を漫画家として形にしておきたくて。同じ病気を抱える人々の参考になるかもしれないので、取りあえずインターネットで発表しました。将来この作品が出版されることになったら、その印税を治療費にあてたいな、という思いもあります」

橋本さんはこれまで「橋本俊二」という本名で作品を発表してきたが、今回は「らっこ」というペンネームを使用している。作品に登場する橋本さん自身の姿も動物のラッコだ。しかし、なぜ?

「僕は家でよくソファーベッドに寝転がるんですよ。奥さんがその姿を見て『ラッコみたいだ』と。奥さんは僕のことを『ラッコ』と呼んでます(笑)。だからそれをそのままペンネームにしました」

ちなみに橋本さんはボディビル歴35年。いま目の前にいる橋本さんは、野生のラッコよりもたくましいボディである。

『嫁癌』はノンフィクションであり、医療に関わるリアルな情報も描かれている。と同時にガンという重いテーマが読者にのしかかりすぎないよう、随所にギャグやユーモアが飛び出す。そのバランスが絶妙。

 

「ガンの専門書はたくさん出ています。がんセンターの図書室にもたくさん並んでいますが、シリアスな内容ばかりなので、(『嫁癌』は)読んだ人の気持ちが重くならないようにしたいなと。今後、奥さんの薬のことも描いていきますが、正しい情報を漫画でわかりやすく、を心がけています」


2019年9月現在、『嫁癌』は第8話まで発表されているが、橋本さんの奥さんは現在も治療中なので、このストーリーの結末は作者にもわからないそうだ。

が、この作品を読んだ人にはわかる。断言できることがある。今後のストーリー展開は想像できないものの、これからも1話進むごとに橋本さん夫婦の関係が深まっていく、と断言できる。ガンというオブラートに包まれているけれど、この作品の本質は「夫婦愛」である。

 

皆さんにもそれを確かめてほしいな、と思います。


『嫁癌』は以下のサイトで無料で読むことができます。
 

『嫁癌』(マンガボックスインディーズ)
 

『嫁癌』(漫画ごっちゃ)
 

『嫁癌』(まんがのレジまぐ)

画像は橋本さんの手作りによる『嫁癌』のコピー誌。

 

2011年3月11日、東日本大震災発生。


2012年~2017年の間、
私は宮城県仙台市に移り住み、
東北の被災地を順次訪れて
支援活動をしていた。


その後、東京に戻ってきたが、
私にとって約5年間住んでいた仙台は
第二の故郷である。


今夏、大動脈解離の手術後、
K病院で3週間の入院生活を送った。
この3週間と仙台での5年間を比較する。


自分史の中で被災地での活動や経験は
とても大きなものだが、
大動脈解離による入院生活は
それ以上に大きな出来事だった。


それもそのはず、
被災地での私は支援者だったが、
大動脈解離で倒れて死にかけた私は

当事者なのだ。


5年という年月と比較すれば、
3週間はほんの短期間だけれど、
その間、病院のベッドの上で
自分自身について徹底的に思い、
徹底的に考え、徹底的に反省した。


そういった意味で、
入院生活は大きな出来事であると同時に
深い出来事でもあり、
その深さは過去のどんな経験よりも
意味深い。


最近、K病院のことを
第二の故郷と思うようになったので、
第二の故郷にしてしまおうニコニコ


で、仙台は第三の故郷にニヤリ



今後、仙台出身の人と出会ったとき、

私は

「仙台は

私の第三の故郷

なんですよ!」
と反応し、そのたびに
「なぜ第三なのか」
「第二はどこなのか」
などをいちいち説明することでしょう。

ネガティブな意味での
「説明の長い人」
と思われないように気をつけなければあせる

 

大動脈解離によって倒れ、
手術によって助かった。


それは突然の出来事だったので、
入院生活の準備をする余裕は

まったくなかった。
取り急ぎ必要な日用品は

家族に揃えてもらった。


入院生活が1週間を過ぎた頃、
体調が落ち着いてくると、
「ベッドの上は退屈だな」
と思う余裕が出てくる。


ふと思い出して
自分のバッグの中身を確認する。
救急車で運び込まれたときに
持っていたバッグだ。
ベッドの横の棚に
ずっと置きっぱなしだった。


バッグにはノートや筆記用具と一緒に
携帯用の音楽プレーヤーが入っていた。
私はイヤホンで音楽を聞くとき、
スマホではなく音楽プレーヤーを
使っている。


そうだ、俺はこれを持っていたんだビックリマーク
これで音楽を聞くことができる音譜


ベッドの上でイヤホンを両耳に装着し、
音楽プレーヤーをオンにする。


そのとき聞こえてきた曲は、

『愛のバラード』
知っている人はよく知っているし、
知らない人は知らないであろう、
映画『犬神家の一族』(1976年版)の
テーマ曲である。


『角川映画主題歌集』というCDがあり、
音楽プレーヤーにそのデータを
保存していたのだ。
その1曲目が『愛のバラード』。
この曲です。

 

 


『愛のバラード』は
入院患者のための癒し系の曲とは

言い難いけれど、

入院生活の中で

音楽に飢えていたものだから、
この曲のミステリアスかつ
美しいメロディーが心に深く染み入る。


なんて素晴らしい曲なのだろうアップ


ところで、この映画『犬神家の一族』には、
スケキヨ(佐清)という名の、
白いマスクをかぶった人物が登場する。
映画を見ていない人には
わからない話だけれど、
スケキヨはかすれた声が特徴なので、
そのモノマネをする人も多い。


術後の私は、
おなかにある手術の傷が痛くて痛くて、
腹筋に力を入れることができなかった。
ベッドの上で少し笑っても激痛、
軽く咳をしても激痛。


腹筋に力を入れて発声することが
できないから、
普通に話そうとしても、かすれた声に。
そんな自分の声を、

まるでスケキヨのモノマネを

しているようだな、と思った。


主治医の先生と話しているとき、
看護師さんと話しているとき、
家族や見舞いに来てくれた友人と
話しているとき・・・
なぜ自分はスケキヨのモノマネを
しているのだろうか、
と自問自答したものです。


あるときはスケキヨの声で、
「先生、もうカロリーメイトがなくても、
病院の食事を全部食べられるように
なりました」
と話す私。


そんなわけで、
術後に初めて(自分の音楽プレーヤーで)
聞いた音楽は『愛のバラード』であり、
その頃の私は連日スケキヨのような声で
話していたのだった。

 

 

退院後、もともと持っていた
『犬神家の一族』のDVDを

繰り返し見る日々目

この映画が私の入院生活を

精神的に支えてくれた・・・

ような気もする。

 

 

大動脈解離の手術および
入院生活を機に退職し、
忙しすぎる生活から離れることができた。


先日、新宿の街を歩いた。
時間に追われずに街を歩くのは
本当に久しぶり。

この日は左脚の痛みやしびれ

(術後も続いている違和感)が

それほど気にならない。


ゲームセンターには
たくさんのクレーンゲームが並んでいる。
景品のほとんどは

アニメやゲームのキャラクターグッズだが、
その中にあの食品があった。


カロリーメイトですビックリマーク



 

そういえば、手術後の約1週間(入院中)、
食欲がまったく出なかった。
人生の中にいきなり「想定外の病気」が
飛び込んできたものだから、
精神的ショックが大きく、
食欲を完全に失っていた。
毎日、病院食をほとんど残していた。


主治医の先生には
「頑張って食べるように」
と指導される。
看護師さんには
「食べないと点滴を外すことができませんよ」
とプレッシャーをかけられる。
そう言われても、

食べたくないのだから仕方ない。


リハビリの先生に言われた。
「病院食じゃないものだったら食べたいですか?

例えばケンタッキーフライドチキンとか」

そこで「ケンタッキーフライドチキン」という

具体名が出てきて面白かったけれど、
私は「ケンタッキーも食べたくないです」
と答える。


そんなときに、

ふとカロリーメイトのことを思い出した。


大動脈解離で倒れる前の、忙しすぎる生活。
その中ではゆっくり食事をとる時間もなく、
PCを叩きながらカロリーメイトを
かじっていたこともあるし、
移動中、歩きながらカロリーメイトを
口に押し込んでいたこともある。
 

 

そのような慌ただしい食生活を

長年続けていた結果、
自分は倒れてしまったのではないだろうか、

と反省しているが、

それはそれとして、

いつもカロリーメイトを食べていた私。

 


主治医の先生に相談した。
「先生、病院食を食べる努力はしますが、
どうしても完食できないので、
それを補う意味で、
カロリーメイトを食べてもいいですか?」
「いいですよ」と先生。


そんなわけで
家族にカロリーメイトを買ってきてもらい、
ベッドの上で食べた。
意外なことに、
カロリーメイトならいくらでも食べられる。
調子に乗って5~6本食べたら、
なんと、その勢いで
病院食も食べられるようになった。

 


カロリーメイトがきっかけで、
忘れていた「食べ方」を思い出したような、

そんな気分。

数日後に点滴を外すことになった。
私はカロリーメイトに助けられた・・・

とも言える。


現在、カロリーメイトは

私の主食ではなくなったけれど、
その黄色い箱に入った栄養補助食品を
バッグに入れて持ち歩くと、
なんだか安心感を得られる。
 

 

以前のような偏った食生活に戻らず、

高血圧に配慮したヘルシーなライフスタイルを

送り続けよう、

という自覚を持つこともできる。

 

 

カロリーメイト=お守りみたいなものですねアップ

 

私が入院していたK病院(東京都内)は、

自宅から自転車で20分の場所にある。
 

 

退院してからの私は

関東にある実家で療養している。

ここからK病院までは

電車で片道1時間以上、という場所だ。


さて、先日久しぶりに

都内の自宅(K病院まで自転車で20分)

のほうで数日間過ごしたのですが、

そのときのエピソード。
 

 

その日──深夜0時前、

いても立ってもいられない気持ちになり、

自転車でK病院に向かった。
手術後の左脚の微妙な痛みやしびれは

まだ消えてくれないのですが、

自転車の安全運転くらいはできる。


途中、歩道に二人の警察官が立っていた。

二人の視線の先を見ると、

道路の反対側に自転車の男性が走っている。

彼はゴルフクラブを持っていた。

なるほど、深夜にゴルフクラブを持って

自転車で走っている男は怪しい。

しかし警察官たちは彼を呼び止めることはせず、

ゴルフクラブの男性は走り去っていった。

あの男は、近所の公園で

素振りでもしていたのだろうか。


一方、深夜に自転車で

K病院に向かっている私の姿も、

怪しいといえば怪しい。

幸い、警察官たちに

呼び止められることはなかった。


深夜のK病院。

その前で自転車を停めた。

自転車にまたがったまま

巨大な建物を見上げる。

建物の横には月が出ている。



 

私はこの病院の11階で

入院生活を送っていた。
この時間──深夜0時頃、

ベッドの上にいた私は、いつも痛くて、

いつも精神的に落ち込んでいて、

いつもなかなか眠れなかった。
いま現在も、K病院には

そのような入院患者さんが

たくさんいるのだと思う。


その場所で、私は私なりの形で祈った。

自己満足かもしれないけれど、祈った。


一日も早く、すべての入院患者さんたちが

笑顔で退院できますように!

医師や看護師やスタッフの皆さんには、

一層のご健康とご多幸を!


その時・・・

 

 

「すみません、S駅はどっちですか?」
 

 

突然、背後から声をかけられたので、

実に驚いた。
見ると外国人の青年が立っている。
 

 

「友達とお酒を飲んで、帰ろうとしたら、

道がわからなくなってしまって。

私、ネパール人です。

S駅の近くに住んでいます」
 

 

S駅はそこから徒歩15分くらいの場所。

「S駅は・・・」

私は説明してあげた。
 

 

「ありがとうございます。

私の日本語、わかりますか?」と彼。
 

 

「わかりますよ。

ネパールから来たんですね。

おいくつですか?」
 

 

「27歳です」
 

 

私は少し迷ってから言ってみた。
「私は6月に病気になり、

この病院で手術をしました。

この病院に入院していました。

いまは元気になったので、

入院している人々のために祈っています。

この場所から応援しています」
 

 

この言葉は彼に伝わらなかったようだが、

彼は笑顔で握手の手を差し出した。

私はそれを握る。
「ありがとう。さようなら」と彼。
「おやすみなさい」と私。
彼はS駅に向かって去っていった。


深夜0時過ぎのK病院前。
私はもう一度祈る。


一日も早く、すべての入院患者さんたちが

笑顔で退院できますように!

医師や看護師やスタッフの皆さんには、

一層のご健康とご多幸を!


その後、自転車で自宅に帰る途中、

さっきのネパール人が

警察官たちに職務質問されているところを

見てしまった。

ゴルフクラブの男性を注視していた

二人の警察官。
職質されている彼は困っている様子。


私はその様子を横目で見ながら走り去る。

お先に失礼ビックリマーク

何もできなくて、ごめんよ汗あせる

 

大動脈解離の手術後、
3週間の入院生活を経験した。


生まれて初めての入院。
生まれて初めての点滴。
生まれて初めての病院食は味付けが薄い。


消灯時間は21時。
でも眠れない夜を過ごすことが多かった。


最初の約2週間は、
腹部の手術のあとが痛くて眠れない。
睡眠薬も鎮痛薬も期待したようには効かず、
ほんの一瞬のまどろみを繰り返しながら
夜明けを迎えてしまうことが多かった。


眠れない夜は長い。
長い夜の孤独感は

とても深い。


・・・ところで、

私は大動脈解離で倒れるまで
福祉系の団体で相談員をしていた。


DV、虐待、いじめ、ストーカー、
ひきこもり、自殺を考えてしまうほど
悩み苦しんでいる人々など、
シリアスな問題を抱えている人々からの
相談を受け、彼らを支え続けてきた。


昔、こんな相談者さんがいた。
彼は30代後半。
ほぼ毎日、21時頃に電話をかけてくる。
彼は精神疾患の治療中で、
睡眠薬を飲まないと眠れない。
薬を飲んでから眠るまでに、
いつも30分くらいかかる。


「その30分間がとても長く感じられて、
不安な気持ちになってしまうから、
眠るまでの話し相手になってほしい」
それが彼の相談内容だった。


相談者と電話で30分程度話すことが、
彼の不安を緩和し、彼に安心感を与える。
世の中にはそのような支援の形

(変則的な電話相談)が

あってもいいと思う。
その日以降、できる限り彼のリクエストに
応えることにした。


彼のとりとめのない話に
30分くらい耳を傾けていると、
「あ、眠くなってきました」
と言って彼は電話を切る。
話の途中、彼が睡魔に襲われたため、

突然電話を切られてしまうこともあった。


そのような例外的な支援(?)を
1週間くらい続けた頃。

その日、睡眠薬を飲んで
電話をかけてきた彼は言った。
「いま見たいテレビ番組があるのですが、
電話しながら見てもいいですか?」
お笑いの番組だという。


私は答える。
「テレビを見ながら会話することは

できませんよね。
私にはその番組を見ることができないし。
せっかく睡眠薬を飲んだのですから、
テレビはやめておきましょうよ」


「いえ、不安だから誰かと電話で
つながっていたいんです!」と彼。


「それは難しいです。あなたがお笑い番組を

見ている状況でこの電話を続けることは、
本来の目的から

大きく外れてしまいますよね」


「できないんですか?」と彼。
「できません。電話を続けたいのなら
テレビを諦めてください」


「・・・ふざけんな!」
彼は怒り出した。
「困っている人の話を聞くのが
てめえの仕事だろう!? ふざけやがって!
バカヤロー!」
そして電話を切られた。
以後、彼から電話がかってくることは

なかった。


その当時の私は、
「世の中には眠ることに

努力を要する人々がいる」
ということを理解していなかった。

そのような悩みは
睡眠薬が簡単に解決してくれるものだと
思っていた。


彼の事情とは大きく異なるけれど、
私は大動脈解離の手術後、
睡眠薬でも鎮痛薬でも解決できない
「眠れない夜」があることを

身をもって知った。
 

 

入院中の、痛くて眠れない夜。

このような過去の出来事を思い出すことも

よくありました目

 


下の画像は、病院の談話室の窓から見える「夜の景色」。

 

 

大動脈解離を発症し、
救急車で救急病院に運び込まれた。


手術前、医師や医療スタッフから
説明を受ける。
私はストレッチャーの上で、
激痛に悲鳴をあげ、
左脚の麻痺に恐怖を覚えなから、
手術の同意書にサインする。


そのときに
「手術後、障害が残るかもしれません。
左脚が動かなくなるかもしれません」
と言われた。


翌日、手術後に目覚めたとき、
看護師さんに
「脚、動きますか?」
と言われた。
おそるおそる左足の指に力を入れる。
動いた。感覚は鈍いけれど、
ちゃんと動いた。
手で左脚の腿をさわると、
触れている感覚があった。
「動きます。脚の感覚も戻っています」


左脚が動かなくなるかも、

と一度は覚悟したが、
幸いそのような結果にはならなかった。
(とはいえ、左脚の運動機能は
100パーセント回復することはなく、
退院後も強い痛みとしびれがあり、
これを書いている今日もリハビリを

続けています)


「大動脈解離」

初めて聞いた病名だった。
まさか自分がその大動脈解離で倒れるとは。
入院生活が始まって数日後、
気持ちに少し余裕が出てきた私は、
スマホでこの病気のことを検索した。
以下のような情報があった。

要約すると・・・


2017年11月16日、首都高速。
ハザードランプをつけて停まっている

車の中で、女性ドライバーが

意識不明の状態に陥っていた。
その女性は搬送先の病院で

死亡が確認される。
彼女は『それいけ!アンパンマン』の
ドキンちゃんの声などで知られる
声優の鶴ひろみさん。当時57歳。
運転中に大動脈解離を発症したことによる
突然死だった。



声優の鶴ひろみさんが
突然亡くなったニュースをおぼえている。
だが、その詳しい原因までは
記憶していなかった。


なるほどそうだったのか。
鶴さんが亡くなった原因は
大動脈解離だったのか・・・。


さらにネットで大動脈解離のことを調べ、
この病気には突然死が少なくない、
ということを知った。

 

 

そのような情報に触れたとき、
「自分は死ななくてよかった!」

と思う場合と
「自分も死んでいたかも・・・」

と思う場合がある。

数日前に倒れ、手術したばかりだった私は、
「死んでいたかも・・・」

と超ネガティブな気持ちになってしまう。
以後しばらくの間、

ネットで大動脈解離のことを調べるのは

やめました──怖くなってしまうので汗

 

下の画像は、病院の談話室の窓から見える「夕方の景色」。

 

 

2019年6月下旬、私は自宅で倒れた。


最初、背中に異変を感じた。
背中と腰がなんだか変だな、という感覚。
それがだんだん痛みに変わっていく。


トイレに駆け込んで吐いた。
背中と腰の痛みが激しくなっていく。
左脚の腿がしびれ出した。
やがて左脚全体が麻痺し、

立つことができなくなった。
 

 

自分の身体が崩れ落ちた。
自分で救急車を呼んだ。


そのときは自分の身体に何が起こったのか
まったくわからなかったが、
体内の大動脈、つまり最も太い血管が
裂けてしまったのだ。
手術後、それが大動脈解離だということを

知る。


過去に経験したことのない激痛。
救急病院に向かう救急車の中で
「痛い痛い痛い!」

という悲鳴と失神を繰り返す。


手で左脚をさわる。
麻痺しているため、

他人の脚をさわっているような感触だった。
自分の左脚がなくなってしまったような

恐怖と不安を感じた。


病院に運び込まれる。
妹が駆けつけてくれた。


手術室に向かう前、
医師や医療スタッフから説明を受ける。

私はストレッチャーに横たわっている。
「手術後、障害が残るかもしれません。

左脚が動かなくなるかもしれません」
と言われた。
私は「かまいません」と答えた。
正確に言えば、
「この激痛から解放されるのなら、
脚が動かなくなってもかまいません」
という極端な気持ちだった。


翌日、全身麻酔から覚めたとき、
全身に管や針(呼吸器や点滴など)が
突き刺さっていた。

いまの自分の状態は

悪夢ではなく現実なのだ、と思った。

腹を見ると、20cmくらいの
「切って縫ったばかりの傷跡」がある。


人工血管に置換する手術によって、

私は助かった。


それまで重い病気や手術とは

無縁の人生だったので、
大動脈解離という病気があることを、
自分が発症することによって初めて知った。


 

大動脈解離のことを

ネットや専門書で調べると、
「堪えがたい激痛を伴う」

という意味の言葉が必ず出てくる。


確かに。

本当に

堪えがたい激痛

でしたダウン