先日、沖縄名護から帰ったばかりなんで、
もう、「あれを記そう、これも記そう、あーあのことも…」
なんて思いが溢れ、
頭の中を駆け巡っているところなんですが…
「まちかどBra.」の記事のカタもつけねばならないので、
仇や疎かには出来ません…
「仁賀保」氏なる江戸から明治時代に掛けての、
ある旗本一族のことについて話を展開させ、
「四話完結」としたいと思います。
仁賀保氏は、現在の秋田県「にかほ」を領地として持っていた、
数千石の家禄しかない旗本の一族ですが、
戊辰秋田戦争では、
新政府軍の一員として、縦横無尽の活躍を残しています。
その際、それまでの劣勢から起死回生となる働きを仁賀保氏と共に見せたのが、
佐賀藩の鍋島氏です。
明治になり、仁賀保氏は「にかほ」の領地を返上して、
東京に移り住むのですが、借家住まいを転々とする境遇だったそうです。
この折り、頼ったのが、
秋田藩の佐竹氏ということですから、
正に、戊辰秋田戦争繋がりに他なりません。
前掲の江戸古地図のとおり、
佐賀藩の蓮池鍋島氏の下屋敷の隣に小さく屋敷を構えている様は、
援助先を求め、戊辰戦争時の因縁を頼りに佐竹氏や蓮池鍋島氏を渡り歩いたものと推察します。

更には、
仁賀保氏の家紋は何と、「一文字三ツ星」
毛利氏と同じなんんです!!
(正確には、毛利氏のは上記のとおり、仁賀保氏のは「箱一文字三ツ星」なんだそうです。)
これは、
鎌倉幕府草創の功臣「大江広元」の子から派生した、
「大江系一族」の出自であるからとのこと。
ですから、
前掲の江戸古地図にあるように、仁賀保氏の屋敷を挟んで両隣の、
蓮池鍋島氏の下屋敷の反対側になる「徳山毛利氏」とは家紋が同じなんですよ!!
祖先を同じくする同族に…
新政府軍の一員として激戦を戦った戦友…
その両家の屋敷に挟まってこのように仁賀保氏の屋敷が存在するのは、
歴史の必然性に違いないと思ってしまうのです。
その後、仁賀保氏の家系は、
明治時代の記録を最後に市井に消えてしまいますが、
当時の建物はどうなったのでしょうか。
あの「東京大空襲」に遭っても、
この高輪3丁目地区は、
かつての皇族「朝香宮」「東久邇宮」の邸宅が現在の「高輪プリンスホテル」の中で残されているように、
類焼を免れた建物が多数残っているようですが…
築200年からの計算になるのは無理かも知れませんね…
それとも、戦後早々に建てられたものなんでしょうか?
その建物の施主は「仁賀保氏」だったんでしょうか?
その一族は今も存在するのでしょうか?
(東京のハローページを検索してもヒットするものはありません…)
その一族の末裔が存在しているなら、
当然ながら、その廃墟地も適切に管理するのでしょうし、
課税当局側も高額の固定資産税を適切に課税出来るのでしょうが…
(課税さえ適切なら、差押処分が可能ですし、さっさと公売処分することも可能です)
そうじゃないから、現在もあのような姿を晒したままなんです。
纏まりのない話になってしまいましたが、
あの廃墟地のことを思い出す度に、
遠い昔のことを妄想してしまうのです。