琉球王国の外交スタイル③~「テンペスト」から | 「沖縄病」の楽しみ方…?

「沖縄病」の楽しみ方…?

空港に降り立った途端に味わうまったりとした空気感が好き…
「また来たよ…」とついニヤリとしてしまう…
先日戻ったばかりなのにもう次の訪沖のことを考えている…
そんなあなたの症状を改善? 助長? いたしましょうかね~

新聞記事でこんなに感動した経験は今までありません。
今朝の地方新聞に掲載された共同通信社の記事~
「"恩返しを"申し出続々…東南アジア諸国から震災支援」
「今度は恩返しをする番だ」(タイ)
「いつも手を差し伸べてくれた日本を全面的に支援する」(タイ)
「日本は本当に信頼できる友人。政府だけでなく人々も、いつも惜しげもなく支援してくれた」(インドネシア)
「親友として日本の困難を完全に共有する」(ベトナム)
「日本からの経済援助や投資がなければ、この地域の経済発展はなかった。困った時に助けてくれる真の友人だ」(タイ)
「ささやかな恩返しをする時だ」(フィリピン)
また、1人当たりのGDPが千ドルに満たないカンボジア、ラオス、ミャンマーでも義援金が送られたそうです~
 
更に、一昨日の朝刊記事では、
来日して宮城県内の病院で研修中のインドネシア人の看護師候補の一人が、
東京への避難勧告を拒否し、
病院に留まって負傷者の手当てを続けているそうです。
彼女はこう意思表示しました。
「病院に残り、日本の人々を助けることを決めました」
 
日本人の社会的な秩序正しさが世界から称賛されていますが、
こうした無償の善意にこそ手を合わせて拝みたくなります。
これも、これまでの我が国の「国家戦略観」のない援助や投資、協力のお陰なんですね。
現在の国家的経済活動には、「戦略」が不可欠なものになっていますが、
実に皮肉な話です。
 
 
さて、ペリー提督のお話に戻ります。
アメリカの開港要求に対し、
琉球王国より遅れて迫られた江戸幕府の方が、
先に要求を呑み、
下田と函館の開港、居留地の確保、燃料補給の保障について条約締結を行いました(1854.3 日米和親条約)。
一方の、前年の要求を上手に凌いだ琉球王国の方は、
同年7月に、琉米修好条約を締結することになるのですが、
その中には、「開港」と「居留地」の条項はありません。
その内容は、「救助」「保護」「案内」などの「善意のサービス」の論調に終始しており、
実質的には第1条の「自由貿易」の項目のみの…
(「領事裁判権」は認めています。所謂「治外法権」です。)
あくまでも対等の立場での条約締結となっているのです。
 
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何故このような違いが生じたのでしょうか?
王国と幕府の外交交渉の違いとは何だったのでしょうか?
池上ワールド「テンペスト」の中では孫寧温が、
幕府をスケープゴードにしてアメリカの欲望を上手く手玉に取るシーンが描かれていますが、
その真偽はともかくとして…
ペリー提督が、琉球開港より日本開港の方を優先させたのは事実です。
更には、対アジア政策を重要視していたフィルモアがピアス大統領に代わったことで、
予算が削減され、外交課題から軸足を外さざるを得なくなった事も要因となったようです。
ピアス大統領の時代は、奴隷制度を巡っての南北対立が激化し、
やがて南北戦争が勃発する内憂の時代であったのです。
そうしたアメリカの内情を具に把握し、
条約締結交渉の駆け引きに上手に利用していたのだとしたら、
その琉球王国の外交手腕こそが、
今の日本に必要な国家戦略のセンスだと言えるのではないでしょうか !
 
それに引き換え、今の我が国の有様と言ったら…
と、意識は現在に戻ってくるのですが、
この続きはまた次回と云う事で…