山巓毛でのお話に戻ります。
この丘の登り口にも亀甲墓が2基あることはお話しましたが、
一つの方は名を忘れてしまったのですが、その敷地内に南山王「他魯毎(タルミィ)」の墓が併設されています。
もう一つは、大城腹門中墓(だったと思います)で、そこの説明碑には、
「大城家の係累ははっきりしないが、当家の墓が南山王家墓の隣にあったと云う事は、王家とは重要な関係にあったことに相違なく、ここに当家の威光を印す」と云う意味の自慢文が刻まれています。
威光顕示の気持ちはよく理解できますが~
と同時に、大城家のテーゲーさも露見しており、ちょっと滑稽です。
で、この南山王「他魯毎(タルミィ)」ですが、南山王統最後の王です。
彼の時代に、中山王「尚巴志(しょうはし)」に滅ぼされ、中山による三山統一が成るのです。
その時の言い伝えでは、
「他魯毎」が「尚巴志」が所持していた金屏風を欲しがり、嘉手志川の源泉(カディシガー)と交換したことが南山の人心が離れる原因となり、国力が衰退したために中山に攻め入られたと云うものでした。

南山の繁栄を支えたと言われたのが、その豊かな水量で領地の田畑を潤していた嘉手志川の源泉です。
現在もその水量は豊かで、「泉」と言うより、「滝」が逆さまになって溢れ出している、と言うのが適切な説明です。
周囲は公園として整備されており、近隣の住民達の生活用水や涼気を求める人々の憩いの場となっています。
私が訪れたその日は、曇天と言えども陽光の威力は凄まじく、
1時間以上歩き続けてオーバーヒートした体を癒すのに最高の天然のクーラーでありました。
こんな掛け替えのない恵みの地を、一物品と交換して厭わない王家には、最早政体の資格は霧散していると評すべきなのでしょう。
単なる源泉一つですが、政体の持つべき思想の軽重を試す重大なキーポイント的存在なのでした。
あー、しかしこの清々しさ、涼やかさは、最高です。
このまま、ずーっとここで暮らしていたいと、思わず溜息を漏らしました。