街のあちこちに、まるで植木鉢のように日常的に点在するシーサー。
辻々の石敢當。
旧民家のヒンプン。
街の通りのちょっとしたスペースにある拝所。
郊外に出れば、ちょっとした「杜」(もり)があれば、多分そこが拝所です。本土で見られるような「社」(やしろ)はありません。
沖縄の「偶像崇拝」の観念は、石敢當やシーサーのような卑近な例はありますが、本土のように神社仏閣を建造するような風習は余りないようです。
本土で神社仏閣が建造された歴史は、「怨念を鎮める」と云う思想が根強かったことに基づいていますが、逆に言えば、沖縄ではこうした「怨念」は行為の規範にはなっていないと云うことです。
沖縄で共通してあるのは、「自然に対する畏敬の念」とでも言いましょうか。
「万物には霊が宿る」と云う「アニミズム」の思想に近いと言いましょうか。
人類は厳酷な自然環境の下、科学の力でそれを克服して文化的生活を見出してきました。
しかし、沖縄の人々は、科学の力で自然を克服するのではなく、自然と共存することで平穏な生活を営もうとしているようです。
だから商店の看板は、強力接着で剥がれないようにするより、壁面に直接書き込む方を選んだのです。
「let it be」
「起きたことはどうしようもない」
「無いものは仕方ない」
何と素朴で謙虚な生き方でしょう。
そこには、謀略も欺瞞も、悪意も何も存在しない…ような気がします。
現実はそんなに甘いものではないのでしょうけど…。
那覇高校の南に「城岳公園」という小高い丘があり、その南側から散策で登りました。
公園の入り口にある古い散髪屋さんを通り過ぎた時です。
建物の後ろから大きな亀甲墓が突然現れたのには驚きました。
それが「風水」の思想なのですが、人が墓を守っているのではなく、墓が人を守っているのです。
正に「畏敬の念」無しでは生活できない現実があります。
(既出)
HP「沖縄の話をしよう!」へ (http://2nd.geocities.jp/lmeg_mamo0821/)