熊本を去る時が来た。二年半暮らした部屋のドアに鍵を下ろした時、何故か涙がこぼれた。
熊本の短い冬は既に遠く去り、桜がその花を開き始めた三月。僕は振り返らずに車に乗り込んだ。イグニッションを回すと、四気筒3000ccエンジンが野太い彷徨を上げて目を覚まし、ドライブシャフトを通してその強大なトルクを225-45を履いた後輪に伝え、ミッドナイトブルーの車体は熊本・白川のほとりに建つマンションの駐車場を滑り出た。
この部屋ともお別れ。
シャボンの泡が揺れていました。
有明海に沈む夕陽を背に(と言っても海は見えないけど)、僕とツレとボーズを乗せた「青い流星号」は熊本インターから千葉へと向かった。
朝早く発って夜遅く着くという選択もあったのだけれど、それでは何時になるか解らないので諦めた。引越し先の鍵はまだ受け取っていないのだ。途中九州を出た辺りで一泊し、翌日ゆっくり(と言っても数時間はかかるだろう)異動先の千葉へと向かう事にしたのだ。
高速での移動は快適だった。この車では一度東京と熊本を往復している。その時にも感じたが、それまで僕が乗っていたどの車よりも高速での長時間運転によるストレスが少ない車だった。だからだと思うけれど、長時間のドライブにも関らず仔犬のボーズは車酔いする様子も無くツレの膝の上で大人しくしていた。その寝顔はやっぱり天使のそれだった。
道が空いていたのと早めに出発したのとで、思っていたより早く関門海峡を渡ってしまった青い流星号は、山口へと入った。ネットで探した、ペットと一緒に部屋に泊まれるホテルは秋芳洞にある。本当は広島や岡山、あわよくば大阪辺りで泊まりたかったのだけれど、探し方が悪かったのかなかなか良い宿が見つからず、結局何故か秋芳洞になったのだった。
熊本に赴任する時にも山口に泊まった。防府の街は、港以外には何にも無い土地という印象で、夜九時を過ぎていたためか食事するにも一苦労したのを憶えている。
その時は広島のパーキングエリアでイエローページをめくって適当に「温泉宿」という条件で探したのだが、山の中腹の半端な場所にあるコンクリート造りの半端な宿だった。それでも風呂は広く、お湯もそれほど悪くは無かったし何より安かった事もあって、別に文句も無かったけれど、今思えばもっと計画的に話題の宿とかを予約して行けば良かったのになあと思っても後悔先に立たず。まああれはあれで面白かったけどね。
そんな山口に不安を覚えつつも、高速を降りて暗い山道を迷いながらやっとたどり着いたホテルは、夜よりも暗い暗闇の中に青白くライトアップされて浮き上がっていた。映画のワンシーンならば低く重いドラムの音が「どおおおおおおん」と不吉に長く響いているのは間違いない。
(写真はイメージです。実際のものとは関係ありません)
ほとんどが従業員のものであろう、車が片手で数える程しか停まっていない広い駐車場に車を停め、ホテルに入る。
レセプションには誰も居らず、高い天井のがらんとしたロビーには僕ら三人(正確に言うと二人と一匹)だけ。ますます恐怖映画そっくりの展開だ。カウンターの奥の事務所から聞こえる物音が却って不気味さを盛り上げる。
僕は自分の頭の中に広がり始めた恐怖の妄想に脅えて、背中を向けて逃げ出したくなった。しかし時間は既に八時過ぎ。この山の中から他の宿を取るのも大変だろうし何よりここに部屋を予約してしまっている。恐怖映画の主人公たちもこんなふうに後戻り出来ない状況の中、恐怖の体験に襲われる事になるんだよなあと、半ば諦めにもにた気持ちで僕はカウンターの上の呼び鈴を押した。
それは思ったよりも大きな音で静かなロビーに響き渡り、ボーズを驚かせてその尖った耳をさらに尖らせた。
僕はと言えば、その呼び鈴の音にカウンターから飛び退ったのだった。驚かすなよな、呼び鈴ごときが。
その時ツレは言った。
「そんなに驚かないでよ、呼び鈴ごときで」
つまり呼び鈴が驚かしたのでは無く、勝手に僕が驚いたと言うわけか。小心者だと笑いたいわけか。ふん、君と違って想像力が豊かなんだよ僕は。と心の中で反論した。
呼び鈴の音に奥から人の気配が近づいて来る。さあ来るぞ来るぞ、事務室から出てくるぞ、恐怖の館の執事が!マーティ・フェルドマンかはたまたクリストファー・リーか?!
来週につづっく!!