タイトルに惹かれて手にとったら、副題は「ドイツ人禅僧が見たフシギな死生観」とある。ドイツ人の禅僧? まさかと思いながら著者を見ると「ネルケ無方」とあり、略歴を見ると1968年生まれのドイツ人、ベルリン出身、牧師を祖父に持つ元クリスチャン、16歳で座禅と出合い、90年に京都大学に留学、兵庫県の安泰寺で修行、93年出家得度、02年から安泰寺住職を務める、と書かれていた。間違いなくドイツ人の禅僧だ。

ネルケ無方

いくつか面白い指摘があった。先ず、「死んだら仏さん、は神道と仏教のコラボ」。インド仏教は生きていながらでないと成仏できないし、お釈迦様も30歳のときに菩提樹の下で坐禅を組んで悟りを開き仏(ブッダ)になったと説く。仏教は死んでから仏になるとは説いていなかったのだ。しかし一方の神道では石や山が神だったり、稲の神様や雷の神様など八百万の神様がいて、ご先祖様が守護神となる氏神様もいる。この亡くなったご先祖様が氏神になることと仏教の仏が一緒になり、死んだら仏さんになるという日本独特の死生観が出来たのではないか。なるほど。

二つ目の指摘は平均231万円という日本の葬儀費用の高さだ。ネルケ無方さんは日本人が儀式を重んじるからだとおっしゃるが、ドイツは教会税を支払うから葬式自体は無料で、平均19万8000円で済むとのこと。お葬式の仕組みが違うのだろうが、この差は大きい。親の葬式だとあまり粗末にしてはいけないと思いがちだが、一方、自分の葬式を考えると、子供たちに負担を掛けたくないと思う。だから元気な内に、自分の葬式はこうしてくれ、こんなところにお金は使うなと具体的に指示しておくべきなのだろう。

最後に、ネルケ無方さんが「悟り」について触れ、正岡子規と永平寺の先代、宮崎奕保(えきほ)禅師の言葉を紹介されている。そのまま記す。

正岡子規
「悟りという事は、如何なる場合にも平気で死ねる事かと思って居たのは間違ひで、悟りという事は、如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」

宮崎奕保禅師
「人間は、いつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っておった。ところがそれは間違いやった。平気で生きておることが悟りやった・・(中略)・・死ぬときが来たら死んだらええんやし、平気で生きておれるときは、平気で生きておっらたいいのや」

死生観を突き詰めれば 「どう生きるか」という人生観につながるのだろう。

彼岸花
(今年も彼岸花が咲き始めた)
グレゴリオ聖歌は9世紀から10世紀にかけてフランク人が居住していた西欧、中欧で発展し、その後、ローマカトリック教会の聖歌として歌い継がれてきた(Wikipediaより)。所属する男声合唱団の指導をお願いしているW先生がグレゴリオ聖歌を研究されており、そのご縁でグレゴリオ聖歌の存在を知り、歌うことになった。

ネウマ譜

頂いた楽譜はネウマ譜と呼ばれるもので、5線譜ではなく4線譜で書かれ、音符も私たちが慣れ親しんでいるものとは異なるが、最も面食らったのは言語がラテン語であることだ。それでも、何度か練習を繰り返す内にメロディーや歌詞を少しずつ覚えられるようになった。更には、ユニゾンで歌うと、オジサンばかりの割りには清らかに聞こえ、非常に心地良いことを発見した。

グレゴリオ聖歌フェスティバル

そんなグレゴリオ聖歌を歌うフェスティバルが聖心女子大の聖堂で開かれ、私たちの男声合唱団も参加することになった。最初に歌ったのは男性6人の男声合唱団で、その後、女性だけのグループが続いたが、いずれも美しく清らかな歌声が聖堂に響き、中世の修道院にはこういう歌声が響き渡っていたのかなと思わず想像してしまった。

聖堂

歌ってみると良く分かるが、ユニゾンというのは意外に難しい。音の高さや長さだけではなく、強弱や抑揚の付け方を合わせるのは至難の技だ。だから、これらが見事に一致すると、静かなメロディーなのに力を感じさせる。一人では出せない力強さや安定感があるのだ。多分、これこそ信仰の力なのだろう。
ジョギングに出掛け、コスモスの花が綺麗に咲いているのを見付けた。写真に収めようとピントを合わせたら、なんと、そこに蜂が飛んできて止まった。こんな写真はなかなか撮れないだろう。

コスモス

これを「偶然」というのだろうが、英語では偶然を「chance」(チャンス)と言うらしい。「necessity(必然)」に相対する言葉で、必ずそうなることではなく、思いがけず起こったことを指すとのこと。そうすると、決して意図して作れるものではないから、チャンスを作るという表現は間違いで、チャンスは恵まれたり、恵まれたときに生かしたりするもの、ということになる。

これまでの人生を振り返ると、記憶に残るチャンスが何度かあり、そのいずれもが私の人生に大きな影響を与えている。丸紅への入社、そこで出会った人生の師、ライセンスビジネスの経験、年賀状がつないでくれた大きな取引先、等々。チャンスは他にもあったのだろうが、私がそれに気付かず生かしていないから記憶に残っていないのだろう。

コスモスの花を写真に撮ろうと思わなければ、チャンスには恵まれなかった。シャッターを押さなければチャンスを生かせなかった。そう考えると、チャンスに恵まれるには先ず私の行動が必要で、それを生かすには私の決断が必要ということだろう。なんか、明日が楽しみになってきた(笑)