ショットバー ブートレッガー SENGAWA BAR HOPPIN' -11ページ目

ショットバー ブートレッガー SENGAWA BAR HOPPIN'

BAR HOPPIN'とは・・・・バー巡りのコト
あなたは今夜、どこで呑みますか?
ブートレッガーは仙川の南の端ッコのショットバーです
ブートの酒番が、あんなコトやこんなコトをブログにアップしてますw

「ピムスNo.1カップ」25度(Pimm's No.1 Cup 25°)

SENGAWA BAR HOPPIN'
1840年ロンドンの金融街「シティ」で「ピムス・オイスター・バー」というレストラン・バーを経営していたジェームス・ピムが創作したリキュールです。


レシピはジンベースにキニーネ、ハーブ、リキュールや柑橘系フルーツエキスなどが配合されているらしいのですが、詳しくは秘伝とされています。


現在も味は当時のまま変わっておらず、レシピも6人だけに伝えられているそうです。


南イングランドで最もポピュラーなリキュール

今日、「ピムスNo.1 カップ」はウィンブルドン全英テニス選手権大会(The Championships, Wimbledon)、ロイヤル・アスコット競馬(Royal Ascot Race Meeting)、グラインドボーン音楽祭(Glyndebourne Festival Opera)ヘンリー・ロイヤル・レガッタ(Henley Royal Regatta)など、イギリスの紳士、淑女が参集するイベントのマストアイティムとされています。


また、オックスフォード、ケンブリッジ、ダラムなど英国名門大学の夏のガーデンパーティーに欠かせない代表的なリキュールでもあります。


本国で最もポピュラーな飲み方は「ピムスNo.1 カップ」とレモネードを1:3の割合でグラスに注ぎ、ミントやスライスオレンジ、きゅうり!を加えたカクテルだそうです。みんな楽しくグビグビいっちゃっているみたいです。


次回からは「ピムスNo.1カップ」の発明者、ジェームス・ピムのお話しです。<つづく


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「ピムスNo.1カップ」のお話し」を最初から読みたい方はこちら

■「No.4カップ」「No.5カップ」「No.6カップ」の誕生、そして生産縮小
1960年代に入ると、「ピムス」は新たにラムベースの「ピムスNo.4カップ」の販売を開始します。
更に1969年にはライ・ウィスキーベースの「ピムスNo.5カップ」、ウォッカベースの「ピムスNo.6カップ」もラインナップに加わります。

ここ迄はイケイケドンドンな「ピムス」でしたが、例のオイルショックでイギリスが英国病を拗らせちゃった1970年代から1980年代は「ピムス」にとって苦しい時代でした。

1970年頃から生産の選択と集中を余儀なくされ、No.2からNo.5迄を段階的に縮小、廃止します。販売の主力「ピムスNo.1 カップ」の生産に傾注し、残るウォッカベースの「ピムスNo.6 カップ」も少量生産に留めます。

しかしそれでも時代の波には逆らえず「鉄の女」が新自由主義を掲げ辣腕を振るっていた1986年、ギネス社に吸収合併されます。

1997年、そのギネス社がディアジオ社に統合されピムスも傘下に入り、現在に至ります。

■「ピムス・ウィンター・カップ」の誕生
2005年ブランディーベースの「ピムスNo.3 カップ」が 「ピムス・ウィンター・カップ」として復刻され、夏の飲み物のイメージが強い「ピムス」の新たな楽しみ方を提案しています。

ただし、本邦ではあまり見かけません。日本正規輸入元の麒麟麦酒株式会社のホームページでも、紹介されているのは「ピムスNo.1 カップ」のみです。

■インスパイア系「ピムス」
6種類の「ピムス」の内、現在残っているのは「ピムスNo.1 カップ」(ジンベース) 「ピムス・ウィンター・カップ」(ブランディーベース)、「ピムスNo.6 カップ」(ウォッカベース・少量生産)の三種類だけなんですが、
所謂「インスパイア系」のNo.7を独自に発表している欧米のバーテンダーも中にはいる様です。バーボンやアブサン、アイラウィスキーなど、ベースは様々で、一番人気はテキーラだそうです。


「「ピムスNo.1 カップCM」
最近の「ピムスNo.1 カップ」のCMです。結構“ご陽気”な仕上がりになってます。


「ピムスNo.1 カップ」の生みの親ジェームス・ピムは1866年8月16日67歳で亡くなりました。現在、故郷ケント州のイースト・ペッカム(East Peckham)に妻マリーと共に埋葬されています。

また毎年命日かその日に近い良日に生まれ故郷ニューナム村のレストラン・バー ジョージ・イン(The George inn ME9 0LL, Kent, United Kingdom)で村の出世頭ジェームス・ピムを偲ぶイベントが行われているそうです
<おしまい>


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ご注意!!注意

この「ヘンリー・モルガンのお話し」は

か~なり長ったらしい記事です。

興味のナイ方は読み飛ばしちゃって下さいネ。

「そこまで云うんなら最後まで付き合ってやろうじゃないか!!」

と仰る方は気長~な気持ちでお読み下さいマセ m(u_u)m

前回のお話しは こちら



モディフォード卿との再会

ヘンリー・モルガンが海賊の下積みを始めたのはジャマイカが積極的に海賊を誘致し始めた1658年のようです (後年パナマ攻撃でのモルガンの船医だったキャメロンCameronの証言)


1660年、イングランドの共和制が腰砕けになりチャールズ2世(Charles II)の王政が復活し王党派が息を吹き返すと、ジャマイカに総督府が設置されます。時を同じくして、モルガンは各地の遠征でメキメキと頭角を現し1661年には船長になり、1663年にはキャプテン・モルガンと呼ばれたようです。


この頃モルガンは彼の後半生を決定付ける新たな僥倖を得ます。1664年には王政復古に尽力した論功行賞人事で叔父のエドワード・モルガン(Edward Morgan)が代理総督として赴任して来ました。半年間の名誉職だったようでが、この時の縁で翌年30歳のモルガンはエドワードの娘、従姉妹のメアリーと結婚します。


そして、1664年6月4日45歳のジャマイカ代理総督サー・トーマス・モディフォード准男爵(Sir Thomas Modyford 1664年2月15日任命-1671年8月迄在任)が着任します。モディフォード卿の在任期間はそれまでの司令官や総督が1年程度の任期に対し7年に及ぶ、異例の長期在職になります。

モディフォード卿は27歳の1647年、家族と共にバルバドス島に移住して来ました。(1660年7月から半年の間、バルバドス島総督の在任経験も持っています)


年季奉公中のモルガンはバルバドス島でモディフォード卿と出会っていたかも知れません。だとすれば議会派と争ったバルバドスで生死を共にした可能性があります。

その後の15歳離れた2人の「水魚の交わり」もこれですっきり説明がつきます。


海賊稼業も板に付いたモルガンは1665年の後半からモディフォード卿の指令に沿って、まずオランダ人ヴェテラン海賊のマンスフェルド (Edward Mansfield)の船団でキャリアを積みます。翌年1666年にマンスフェルドがスペインに拿捕されると、船団長を代行しています。さらに1667年にかけて各地のスペイン植民都市を荒し回った様です。


止まらない海賊の乱暴狼藉にスペインが業を煮やして、海賊達の本丸ジャマイカ総攻撃を計画しているのではないか、との噂がモディフォード卿の耳朶に届きます。


そもそもイングランド王党派は議会派が西方計画で占領したジャマイカを、王政復古時に返還するとスペインに内諾していました。

にも拘わらず、そのまま島に居座ってカリブ海の橋頭堡化を進め、総督府まで設置しました。本音ではスペインに返す気などサラサラ無く、実効支配を既成事実化して領有を追認させる腹積もりでした。

いくらイングランドが建前上私掠船運用をスペインに聞こえる様に禁止しても、依然としてウラで海賊達の糸を引いている事は、バレバレだったのです。


イングランドが“現地部隊の暴走”を非難している以上ジャマイカに救援を送れません。モディフォード卿とモルガンのコンビは自腹を切ってでも、ジャマイカ島をスペインの総攻撃から防衛する事が“自分達の仕事”であると自覚していました。

モルガンはモディフォード卿からジャマイカ攻撃の情報収集の為、キューバのスペイン人を捕らえる強行偵察指令を下令されます。そして初めて私掠免許状を発給され、子飼いの懐刀として一本立ちしました。

次回からは今も記録に残るモルガンのプライベーティア時代の物語です。 (つづく )

(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。

定説と一部異なり、また、確定していない内容をも

含んでいます。予め、ご了承下さい。)


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