ご注意!!
この「ヘンリー・モルガンのお話し」は
か~なり長ったらしい記事です。
興味のナイ方は読み飛ばしちゃって下さいネ。
「そこまで云うんなら最後まで付き合ってやろうじゃないか!!」
と仰る方は気長~な気持ちでお読み下さいマセ m(u_u)m
前回のお話しは こちら
モディフォード卿との再会
ヘンリー・モルガンが海賊の下積みを始めたのはジャマイカが積極的に海賊を誘致し始めた1658年のようです (後年パナマ攻撃でのモルガンの船医だったキャメロンCameronの証言)
1660年、イングランドの共和制が腰砕けになりチャールズ2世(Charles II)の王政が復活し王党派が息を吹き返すと、ジャマイカに総督府が設置されます。時を同じくして、モルガンは各地の遠征でメキメキと頭角を現し1661年には船長になり、1663年にはキャプテン・モルガンと呼ばれたようです。
この頃モルガンは彼の後半生を決定付ける新たな僥倖を得ます。1664年には王政復古に尽力した論功行賞人事で叔父のエドワード・モルガン(Edward Morgan)が代理総督として赴任して来ました。半年間の名誉職だったようでが、この時の縁で翌年30歳のモルガンはエドワードの娘、従姉妹のメアリーと結婚します。
そして、1664年6月4日45歳のジャマイカ代理総督サー・トーマス・モディフォード准男爵(Sir Thomas Modyford 1664年2月15日任命-1671年8月迄在任)が着任します。モディフォード卿の在任期間はそれまでの司令官や総督が1年程度の任期に対し7年に及ぶ、異例の長期在職になります。
モディフォード卿は27歳の1647年、家族と共にバルバドス島に移住して来ました。(1660年7月から半年の間、バルバドス島総督の在任経験も持っています)
年季奉公中のモルガンはバルバドス島でモディフォード卿と出会っていたかも知れません。だとすれば議会派と争ったバルバドスで生死を共にした可能性があります。
その後の15歳離れた2人の「水魚の交わり」もこれですっきり説明がつきます。
海賊稼業も板に付いたモルガンは1665年の後半からモディフォード卿の指令に沿って、まずオランダ人ヴェテラン海賊のマンスフェルド (Edward Mansfield)の船団でキャリアを積みます。翌年1666年にマンスフェルドがスペインに拿捕されると、船団長を代行しています。さらに1667年にかけて各地のスペイン植民都市を荒し回った様です。
止まらない海賊の乱暴狼藉にスペインが業を煮やして、海賊達の本丸ジャマイカ総攻撃を計画しているのではないか、との噂がモディフォード卿の耳朶に届きます。
そもそもイングランド王党派は議会派が西方計画で占領したジャマイカを、王政復古時に返還するとスペインに内諾していました。
にも拘わらず、そのまま島に居座ってカリブ海の橋頭堡化を進め、総督府まで設置しました。本音ではスペインに返す気などサラサラ無く、実効支配を既成事実化して領有を追認させる腹積もりでした。
いくらイングランドが建前上私掠船運用をスペインに聞こえる様に禁止しても、依然としてウラで海賊達の糸を引いている事は、バレバレだったのです。
イングランドが“現地部隊の暴走”を非難している以上ジャマイカに救援を送れません。モディフォード卿とモルガンのコンビは自腹を切ってでも、ジャマイカ島をスペインの総攻撃から防衛する事が“自分達の仕事”であると自覚していました。
モルガンはモディフォード卿からジャマイカ攻撃の情報収集の為、キューバのスペイン人を捕らえる強行偵察指令を下令されます。そして初めて私掠免許状を発給され、子飼いの懐刀として一本立ちしました。
次回からは今も記録に残るモルガンのプライベーティア時代の物語です。 (つづく
)
(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。
定説と一部異なり、また、確定していない内容をも
含んでいます。予め、ご了承下さい。)
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