酒番が若い頃、色々とお世話になった新宿のバー「エポペ」の設立者、カトリック司祭ジョルジュ・ネラン神父が2011年3月24日午前3時35分永眠されました。享年91歳。仏教風に云えば「大往生」です。典型的な日本人の酒番に信仰心などあろうハズも無く、当時仲間達とバカッ話しをしながら、ひたすら鯨飲していた日々が思い出されます。信仰については結局さっぱり分からなっかたケド、バーの楽しみ方はエポペで教わった気がします。この場をかりて改めて御礼申し上げます。
安らかにお眠り下さい。
ありがとうございました。
酒番が若い頃、色々とお世話になった新宿のバー「エポペ」の設立者、カトリック司祭ジョルジュ・ネラン神父が2011年3月24日午前3時35分永眠されました。享年91歳。仏教風に云えば「大往生」です。典型的な日本人の酒番に信仰心などあろうハズも無く、当時仲間達とバカッ話しをしながら、ひたすら鯨飲していた日々が思い出されます。信仰については結局さっぱり分からなっかたケド、バーの楽しみ方はエポペで教わった気がします。この場をかりて改めて御礼申し上げます。
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■ 「ピムスNo.2カップ」「ピムスNo.3カップ」の誕生
1851年第一回ロンドン万博が開催され、シティは「アゲアゲ」でした。
この年から「ピムス」も生産を拡大し他のバーへの卸販売を開始します。この時、スコッチウィスキーをベースにした「ピムスNo.2カップ」とブランディーベースの「ピムスNo.3カップ」の販売も同時に開始されました。
※恐らくこの時点で私達に馴染のジンベースの「ピムス」にNo.1のナンバリングが施されたと思われますが、今ひとつハッキリした資料が見つからず、断定は避けます。
1859年からは製造工場を立ち上げ、行商人に当時珍しかった自転車を使わせて宣伝販売を始めました。と言っても、当時の自転車にペダルはついておらず、足で地面を蹴って進む二輪車でしたが。
■ 「ピムス」売却とグローバルマーケティング
1864年ジェームズ・ピムは最愛の妻を亡くします。
翌1865年彼はピムス・オイスター・バー(Pimm’s Oyster Bar)とピムスの販売・製造権、レーベルなど事業そのものをフレデリック・ソイヤー(Frederick Sawyer)という人物に売却しています。
売却の翌年、一線を退いたジェームズ・ピムは妻を追う様に亡くなってしまいます。享年67歳でした。
ピムス・オイスター・バーはその後1880年に後のシティの市長(Lord Mayor of the City of London) サー・ホレイショ・デェイビッド・デイヴィス(Sir Horatio David Davies)の手に渡ります。
サー・ホレイショは1870年代から妻の兄フレデリック・ゴードン(Frederick Gordon)と共にビジネスを手広くやっていた人物です。
ピムス・オイスター・バー買収の他にロンドン・タバーン(London Tavern)、クロスビー・ホール(Crosby Hall)、ハルボーン・レストラン(the Holborn Restaurant)も経営しており、後年にはゴードン・ホテルズ・グループ(the Gordon Hotels group)の事業拡大も成功させた、所謂「辣腕事業家」でした。
サー・ホレイショは「ピムス」の瓶詰め販売も開始し、家庭でも手軽に味わえる様にし、販路を拡大させました。また、徐々に「ピムス」の輸出事業にも手を染めます。
==============================※今もボトルのラベルには輸出先都市名と輸出開始年が記されています。ヴィクトリア朝大英帝国の繁栄振りが忍ばれる、ワールドワイドな展開になっています。
コンスタンティノープル 1880年 メルボルン 1909年
北京 1889年 ニューヨーク 1911年
クアラルンプール 1890年 リオデジャネイロ 1913年
ラングーン 1896年 シカゴ 1920年
パリ 1897年 ニューオリンズ 1925年
ハルツーム 1898年 アルジェ 1943年
サンクトペテルブルク 1905年 ケープタウン 1951年
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1887年からはピムス・オイスター・バーのフランチャイズ化を開始します。
1912年にサー・ホレイショは亡くなりますが、1914年から始まった第一次世界大戦期にはピムスの軍からの需要が高まり国際的な知名度も高まります。
第二次世界大戦が終了した翌年の1946年には瓶の栓をコルクからキャップへと、モデルチェンジします。
次回は戦後から現代に続く「ピムス」のお話しです。<つづく
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ジェームス・ピム(James Pimm)は1798年英国ケント州の人口400人程の小さな村、ニューナム(Newnham)で生まれました。
小作人(ヨーマン)の父、ジェームス・ノリス・ピムJames Norris Pimm (1769 - 1848)と母、スザンナ・ミルズ Susanna Mills (1772 - 1846)の間にもうけられた9人兄弟!の5番目の子供でした。
20代の始め頃、急速に発展しつつあったロンドンの金融街「シティ」に上京して牡蠣の行商人(shellfish monger)の下積みを始めます。
1822年、同郷で同い歳のマリー・サーザデン・マロリー(Mary Southerden Mallery)と結婚します。
翌1823年若干24歳の時に最初のピムス・オイスター・バーを開店。
そこは、イングランド銀行(the Bank of England)近くで、ロイズ本社(Lloyds of London)、ロンドン証券取引所(the Stock Exchange)なども立ち並ぶ(当時も今も)世界の金融の中枢です。
ジェームス・ピムは「上客」の支援もあって開業から10年間で、シティ市内に5店舗の姉妹店の展開に成功します。
この頃の彼は仕事こそ順調でしたが、私生活が多難だった様です。結婚翌年の第一子誕生から1841年までの18年間で10人の子宝を授かりますが、その半数が誕生から1年を経ずして夭折し、逆縁にならなかったのは5人だけでした。
夫婦最後の子供を懐妊した時期(この子も夭折します)に重ねる様に「ピムスNo.1カップ」は誕生しています。
■ジェームス・ピムの新たな息子「ピムスNo.1カップ」誕生
1840年、ヴィクトリア女王がセント・ジェームズ宮殿で盛大な結婚式を挙行し(私達アジア人にとっては阿片戦争の年ですが)シティが活況を呈していたこの年、ジェームス・ピムはオリジナルカクテル=ピムスカップ(Pimm's Cup)をお店で提供し始めます。彼が41歳の時でした。
それは牡蠣料理に相性が良く消化も助ける事を目的に作られており、小振りなジョッキ(タンカーTankardと呼ばれていました)で提供される一種のジンスリングでした。
これが後に、「ピムスNo.1カップ」 (Pimm's No.1 Cup)として知られるリキュール誕生の瞬間です。
このオリジナルカクテルはシティのジェントルマン達(地主貴族や上層中流階級)に大人気で、ピムス・オイスター・バーは大層繁盛しました。
次回はジェームズ・ピムのその後と、「ピムス」の行く末のお話しです
<つづく
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