ショットバー ブートレッガー SENGAWA BAR HOPPIN' -12ページ目

ショットバー ブートレッガー SENGAWA BAR HOPPIN'

BAR HOPPIN'とは・・・・バー巡りのコト
あなたは今夜、どこで呑みますか?
ブートレッガーは仙川の南の端ッコのショットバーです
ブートの酒番が、あんなコトやこんなコトをブログにアップしてますw

ご注意!!注意

この「ヘンリー・モルガンのお話し」は

か~なり長ったらしい記事です。

興味のナイ方は読み飛ばしちゃって下さいネ。

「そこまで云うんなら最後まで付き合ってやろうじゃないか!!」

と仰る方は気長~な気持ちでお読み下さいマセ m(u_u)m

前回のお話しは こちら


エスクェメリンとバッカニア

ヘンリー・モルガンはパナマ攻略の帰途、分け前に愚図る海賊達をチャグレス城砦に置き去りにしてジャマイカに帰還しましたが、放置された海賊達の中にエスクェメリン(Alexandre Olivier Exquemelin1645-1707)というオランダ人ユグノー(新教徒の蔑称)がいました。
SENGAWA BAR HOPPIN'
彼は1666年から海賊になり、置き去りにされた翌年の1672年アムステルダムに帰還し6年かけて1678年に「アメリカのバッカニアThe Buccaneers of America」という海賊達を肯定的に描いた本をオランダ語で上梓しました。

1679年にはドイツ語、1681年スペイン語、1684年英語、1686年フランス語に翻訳され、中でも英語版が爆発的な人気を博しました。


この本のお陰でモルガンの活躍振りを現代の我々も詳細に知る事が出来るのですが、当時のモルガンはバルバドスの年季奉公人と暴露された事に腹を立て、出版社のウィリアム・クルック(William Crooke)とトーマス・マルサス(Thomas Malthus)を名誉毀損で訴えています。モルガンは勝訴し、イングランでの出版差し止めと慰謝料200£を手に入れています。

エスクェメリンの著作「アメリカのバッカニア」の「バッカニア」とはカリブの海賊を指しているのですが、何故“バッカニア”と呼ばれるようになったのでしょうか?


1492年12月6日にエスパニョーラ島(La Española現サント・ドミンゴ島 Santo Domingo)がコロンブスに“発見”されると、金を求めて多くの入植者がやって来ました。

金の産出は1502年から毎年45万ペソ(約2トン)ありましたが、1511年から1515年のピーク以後は先細っていきます。加えて1545年から翌年にかけて新大陸本土のアルト・ペルー(現ボリビア)や、メキシコでポトシ銀山やサカテカス銀山など優良な銀鉱脈が相次いで発見されると、スペイン人は“金の匂いのしない”エスパニョーラ島への興味を失い、島を離れて行きました。16世紀後半には人口1000人程度に減少したそうです。

1606年スペインはエスパニョーラ島の過疎化を防ぐ為に、入植者を島の北西部(現ハイチ)から島の東部(現ドミニカ)のサント・ドミンゴ(Santo Domingo)に強制的に移住させ島の人口を集約します。

しかしこの事がキッカケで、無人化してスペインの目の届かなくなった北西部の居留地跡に外国人不法移入者達が居座り始めます。

彼らは農園のキツい労働から逃げ出した奉公人や奴隷、難破船の乗組員、脱獄囚などならず者、宗教的弾圧を受け難民化した新教徒などで、島にわずかに残った原住民アラワク族から燻製肉の作り方を教わり糊口を凌ぎ始めます。

入植者が放棄した牛、馬、豚などが野生化し大繁殖していた為、「原材料」には困らなかった様です。

島に立ち寄る船に燻製肉を持ち込み、引き換えに武器弾薬、ラム酒、タバコ、生活必需品を物々交換で手に入れます。船員達にとっても燻製肉は脚気を防ぐ貴重なビタミン源の為、歓迎されました。


この燻製肉はアラワク語で「ブカン」(bukan)という木製の燻製用具で作られました。この燻製用具のフランス語表記「ブカン」(boucane)から不法移入者達は「ブカニエ」(boucanier)と呼ばれました。この英語転訛が「バッカニア」(Buccaneer)という言葉になり、後年エスクェメリンによって著書の中で紹介され、今に伝えられたのです。 


次回は<最終章>その後のバッカニアの軌跡を追います。 (つづく )


(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。

定説と一部異なり、また、確定していない内容をも

含んでいます。予め、ご了承下さい。)


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前回のお話しはこちら


モルガンの年季奉公人時代

モルガンはバルバドス島リトル・ブリストル(Little Bristol 現スパイトスタウンSpeightstown)のプランテーションでの過酷な年季奉公労働に耐え、農場主にも目を掛けられたようです。

そんなモルガンの周囲で大きな出来事が二つ起きます。


一つ目は1651年10月25日共和国政府議会派のサー・ジョージ・エイスキュー(Sir George Ayscue)提督が7隻の艦隊と共にバルバドス島の明け渡しを求めて来襲したのに対し、王党派のフランシス・ウィロビー(Francis Willoughby)総督が奉公人を民兵組織に編成して激しく抵抗し武力衝突になった事です。

1652年1月、奉公人の処罰を不問とする条件でバルバドス島は降伏。ウィロビーは本国に更迭され島は議会派に接取されます。

17歳のモルガンも王党派民兵として現地応集され、生涯初めての戦闘に参加したハズです。-制海権を持つ少数兵力の敵が突如上陸し島を攻略する- 後に海賊となったモルガンが実践した戦法=強襲揚陸戦を敗者側から目の当たりにしたことは彼に強烈な印象を残したのではないでしょうか。


二つ目はちょうどモルガンの年季奉公が満了した年、1655年5月10日以降、ジャマイカ島が “実質”イギリス領になった事です。
SENGAWA BAR HOPPIN'

ジャマイカ島の首府「ポート・ロイヤル=王家の港」はかつて再三スペイン軍に占領される不安定な海賊達の基地トルトゥーガ島 (Isla Tortuga)に変わって、海賊達に良港を提供する為に急ピッチで開発が進められて、モルガンの奉公明けの職探しを容易にします。


二つの出来事はモルガンのその後の人生を決定付けます。ウェールズからバルバドス、バルバドスからジャマイカへ、モルガンは新たな活路を求めます


プライヴェーティアの誕生

ここで当時の欧州とカリブ海の背景をちょっと補足します。


1492年のコロンブスの新大陸“発見”からこっち、ブラジルを除く南北アメリカは概ねスペインにヘゲモニー=主導権がありました。特に南米の膨大な金銀の産出は欧州の貨幣価値を激変させ、スペインの8レアル銀貨が基軸通貨の地位に躍り出ます。後発の欧州諸国は押っ取り刀で、新大陸に進出します。

このままスペインに財宝や銀の独占を許せば、相対的に国力が低下するばかりではなく、欧州本土で勃発していた数多の紛争の経戦能力維持にも影響が出るからです。

新大陸に兵力を差し向け、スペインの銀を奪い、スペインの国力を削ぐ事が必要です。

しかし、国力に劣る欧州諸国はおのずと兵員や船舶数に限界があります。


そこで欧州諸国は海賊達に着目します。

スペイン艦船(だけ)を襲い、スペインの財宝(だけ)を奪う限りにおいて海賊行為を認める許可証=私掠免許状(Letter of Marque)を与えられた、正規軍の隷下組織としての海賊船=私掠船(プライヴェーティア)の誕生です。奪った財宝は国と海賊で山分けです。

有り体に云えば、国が出来高制嘱託職員として海賊達を外注した訳です。


20歳のモルガンが海賊達の欲望渦巻く“バビロン”=ポート・ロイヤルに上陸した頃は、イングランドの私掠船の働きは大いに成果を上げ、国庫の重要な財源になっていた時代です。彼は“時代の波”私掠船に乗り込み海賊稼業に手を染めます。


次回からは後半生のほとんどをポート・ロイヤルとカリブ海で過ごしたモルガンの海賊下積み時代から私掠船船長デヴュー迄のお話しです。 (つづく )


(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。

定説と一部異なり、また、

確定していない内容をも含んでいます。ご了承下さい。)


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その後のポート・ロイヤルと海賊達

モルガンが亡くなってから4年後の1692年6月7日11時42分、ジャマイカで発生した地震と大津波によりポート・ロイヤルは壊滅します。SENGAWA BAR HOPPIN'

マグネチュード7.5の三回の本震によって、脆弱な地盤の上に建設されていたポート・ロイヤルは液状化による地盤沈下で町の2/3にあたる33エーカー(13㌶)が海底に沈み、さらに高さ1.8mの津波が襲来します。20隻以上の船が転覆し、2000棟の家屋建物が倒壊、流失します。6000人の住人の内2000人が即死し、翌日以後に亡くなった被災者を合わせると死者は5000人にのぼりました。

この地震でポート・ロイヤルの栄枯盛衰を見届けたかのようにモルガンの墓所も海没しました。


(その後ポート・ロイヤルは復興が試みられますが、大火災やハリケーンに見舞われ挫折し、1703年に完全に放棄されます。ジャマイカの中心地は以後、現在の首都キングストンに移りました)


ポート・ロイヤルが壊滅した後も各国が何度も海賊行為を取締っても海賊達の乱暴狼藉は止まりませんでした。

その後七つの海を舞台に登場した数多の海賊達はヘンリー・モルガンを手本にしたと云われ、彼は現代に名を残し伝説となりました。

スペインにとっては悪逆非道な海賊として、イギリスにとっては“ハマイカ”をジャマイカに変えた立役者として、合衆国にとってはカリブの海と自由を愛する勇猛果敢な男として・・・・・。


ヘンリー・モルガンのお話しはこれでおしまいですが、次回からは「オマケ」のお話しです。

当時カリブの私掠免許状を持たない非合法な海賊達はパイレーツではなくバッカニアと呼ばれていました。


何故「バッカニア」と呼ばれる様になったのか?何故、現代の私達がその事を知る事が出来るのか?

次回から17世紀に大ヒットした一冊の本と時代背景を御紹介したいと思います。 (つづく )


(この記事は独自の解釈や推測が含まれています。

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