被害者遺族会と政府は抗議するべき | ブー子のブログ

ブー子のブログ

損したらどうしよう、と思ったら、やめればいい。
それはやりたくないことだから。

損してもいい、と思ったら、やればいい。
それはやりたいことだから。






大統領選勝利の朴氏「確固とした安保体制」強調

2012年12月20日(木)13:11



 【ソウル=中川孝之】韓国大統領選で当選した保守系与党セヌリ党の 朴槿恵 ( パククンヘ ) 氏(60)は、当選から一夜明けた20日午前、ソウル市内の党本部で記者会見した。



 北朝鮮による事実上の長距離弾道ミサイル発射について、「我々が置かれている安全保障の現実が、どんなに厳しいものかを象徴的に見せた」と述べ、「確固とした安保体制」で危機を乗り切ると強調した。



 また、「正しい歴史認識を土台に、北東アジアに和解と協力、平和が拡大するよう努力する」と語った。島根県・竹島の領有権問題やいわゆる従軍慰安婦問題では、日本に対して断固とした姿勢を取りつつも、関係改善を目指す意欲を示した。



 内政面では、落選した最大野党・民主統合党の 文在寅 ( ムンジェイン ) 氏(59)に慰労の言葉を述べ、保革の分裂を克服し、雇用問題や「経済民主化」などに取り組むとした。最後に、「最初の女性大統領として、変化と改革を国民と共に実現する」と述べた。



 朴氏は会見に先立ち、大統領経験者らが埋葬されている同市内の国立墓地を訪問。父・ 朴正煕 ( パクチョンヒ ) 元大統領の墓前で当選を報告した。

$ブー子のブログ国立ソウル顕忠院

顕忠院は「ベトナム人たちを強姦して殺した韓国兵士たちの墓」と言う。

また昭和27(1952)年1月18日
「李承晩ライン設定」軍事境界線を設定し竹島を編入し、
日本人漁民を3,939人が韓国に抑留し、
44人の漁民を殺害した上に誰からも見放されてハワイへ亡命と言うお粗末な『李承晩』が眠る墓でもある。

伊藤博文を暗殺したテロリストも韓国の英雄としてここに眠っているやもしれない。
(安重根義士記念館は南山公園にある)

新潟日赤センター爆破未遂事件のテロリストも祀られている。


日本の靖国神社を戦争の犯罪者が眠る墓と言うならば、

この顕忠院とは一体何なのだろうか。


$ブー子のブログ2011年10月19日
19日午前、日本の野田佳彦首相が国立ソウル顕忠院(同市銅雀区)を訪れ、顕忠塔に参拝した。


靖国神社は参拝しなくても、韓国の顕忠院はしっかりと参拝・慰霊していた野田首相。

朝鮮人は天皇と武士に憧れ。
帝国海軍に憧れてきた。

そして日本の技術力によってもたらされるかも知れない朝鮮の繁栄を期待した。

憧れと期待は背伸びをしても手に届く物ではなく、
日韓併合時代は朝鮮人の賃金が安くそして日本人の蛮行が許せない、学校で日本語を教えたのが許せないとな。

体を動かさないのが美徳とし適当にやってケンチャナヨな怠け者朝鮮人と、
勤勉で品質に拘る日本人が同等の対価を?
日本の文化である丁稚奉公や職人の下働きはタダ同然で厳しい修行をし、
技術や味は自分で盗めと教えられてきている。

それに耐えられない者は本を読み、世間を知らぬ世界観を妄想していく。

その末路が日帝の酷評である。

$ブー子のブログ

 「夢やぶれて 涙おもし白き衣 哀しき胸 うたいつつ旅ゆく」崔承喜


「石見タイムズ」が語る李承晩ライン  

 「石見タイムズ」を拾い読みして関心をもったものを書き出してみたい。まず昭和27(1952)年李承晩ラインが設定され、日韓両国の対立が激化していた昭和28(1953)年3月14日付けの同紙は近づいた日米合同委員会(3月19日開催)は注目すべきだと主張している。その理由として、竹島を爆撃訓練場にしていた米極東空軍ウェイランド司令官が去る2月27日爆撃訓練の停止を韓国政府に通報したが、日本政府には通報しなかったことをあげている。「竹島か独島か」という見出しで注目を呼びかけているが、結果的には合同委員会で米軍が利用する日本の施設区域のリストから竹島が削除されるという形で、竹島を日本領と米国が認めたことは周知の通りである。                          

 昭和29(1954)年1月1日付けの同紙は、島根県出身者で当時外務政務次官で、石見タイムズの顧問であった小瀧彬が「竹島問題―国際司法裁判所に提訴以外に途なし」という主張を寄稿している。文章の横には前年の5月浜田にあった島根県水産試験場の試験船「島根丸」が、竹島に韓国人がいるのを発見した時の写真を掲載している。なお小瀧彬の竹島問題の解決を国際司法裁判所でという提案はその後日の目を見、同年9月26日、日本政府が韓国政府に通告したが、韓国側は9月28日拒否を伝えてきた。                          

 昭和30(1955)年2月、日本のトロール船「第6あけぼの丸」が生月島沖を航行中、韓国フリゲート艦の追突を受け船員21人が死亡した。それ以降以西底曳網漁船、以東底曳網漁船、沖合底曳網漁船、サバ釣漁船と拿捕される日本漁船が続いた。9月15日には浜田港所属の第1八束丸も拿捕された。第1八束丸は島根県八束郡千酌村大字北浦の渋谷兵次郎が所有する二艘曳底曳網漁船で当時浜田港を拠点に操業していた。この拿捕に日本政府は強く抗議を続けたが、韓国側も強硬な態度を見せ11月17日侵犯する日本漁船に砲撃を声明、11月19日には撃沈を声明するにいたった。11月26日付け「石見タイムズ」は「各船団に厳戒電報」と緊迫した事態を報じている。すなわち、浜田市にある日韓漁業対策島根県本部が出漁中の全漁船に打電で警戒を呼びかけたこと、浜田市が日韓漁業対策協議会の開催を要請したこと、当時40人にのぼっていた抑留船員から8月頃までは月に2、3回は便りが届いていたが、9月の半ば以降まったく音信不通になったこと等である。                            

 昭和31(1956)年4月18日、浜田港を拠点としていた第6浜富丸が拿捕された。4月28日付けの「石見タイムズ」は「韓国抑留船員56名に」として浜田港所属の拿捕された船5隻、抑留船員総数56名について報じている。拿捕された船は、昭和29(1954)年11月9日に拿捕された第1大和丸、第2大和丸(この2隻は浜田港を拠点に出漁していたが、本来は島根半島の美保関町稲積地区の住民によって構成された船団であることを藤井賢二氏が論文で触れられている)、同年11月20日の第3平安丸、前述の第1八束丸と今回の第6浜富丸である。なお、「石見タイムス」は同じ紙面でこうした緊迫した状況が続いている背景には当時展開されていた日本人の在韓私有財産の所有権をめぐる対立があると論説で分析している。

 同年5月19日付けでは平安丸乗組員石田儀一郎さんが、収容所から石見タイムズに送った手紙全文を「この世の地獄―日一日と弱る体力」のタイトルで掲載している。主な内容は、「韓国漁業資源保護法違反」という罪名で拿捕され、裁判所で船長1年、機関長、甲板長10ヶ月、甲板員8ヶ月の判決を宣告されたがすでに2年が経つのに釈放されず、一日も早い帰国を故郷や家族のことを想いつつ待ちわびている。コンクリートづくりの収容所は冬は零下15度にもなり、膚を裂く寒さで、夏は狭い監房の中で暑さに喘いでいる。私たちの苦しみを貴紙を通じて世論に訴えて欲しいというもので、石田さんのご両親、奥さん、3人の子供さんの集合写真も添えられている。浜田港関係の抑留者の帰国が実現するのは、昭和33(1958)年1月以降である。

 同年6月2日付けの「石見タイムズ」は5月29日の午前6時半から浜田市魚市場で抑留船員の留守家族や拿捕された船の関係者を含む約1000人が集まり漁民大会を開き、その後「わが子や夫を早く返せ」、「在日韓国人を早く本国に帰せ」、「政府は日韓漁業協定を確立せよ」、「留守家族を援護せよ」等のプラカードを持ち市内を行進した。また同日代表25人が政府に請願すべく列車で東京に向かったことを報じ、ハチ巻き姿の留守家族の代表と思われる女性の姿を写真で載せている。その後も折々「石見タイムズ」は李承晩ライン関係の記事を報じ、昭和47(1972)年10月28日付けの1325号で終刊を迎えている。        

 浜田市の郷土史家森須和男氏は「石見タイムズ」以外の「朝日新聞」、「毎日新聞」、「山陰新聞」等多くの新聞等の資料も駆使して「李承晩ライン宣言から日韓条約発効までに拿捕された島根県の漁船」を図表化して発表されている。それによれば船数11隻、乗組員114人である。それを最後に掲載させてもらうことにする。